第099話 真実の縁
雨が来た。
久遠の予測より半日早かった。
最初は、風の中に混じった一粒だった。頬に当たり、冷たい、と思った瞬間にはもう乾いていた。次の一粒が手の甲に落ち、今度は消えずに残った。水滴が手の甲の砂埃を流し、肌の色が見えた。
空を見上げると、南東から広がってきた灰色の雲が、いつの間にか頭の上を覆い始めていた。
乾いた街道の土が、ぽつり、ぽつり、と黒い染みを作っていく。染みは一つずつ増え、やがて繋がり始めた。
巾着の中で、神々が跳ねた。
弱々しかった脈が一変し、布越しにはっきりと振動が伝わってくる。雨の神が、自分と同じものが空から降ってくるのを感じ取ったのだ。脈は速く、強く、乾いた街道にいた頃とは別の生き物のようだった。
「……嬉しいの?」
巾着に囁いた。
返事はない。けれど脈がもう一つ強く跳ね、それが答えだった。
雨脚が強くなった。
乾ききった土が水を弾き、表面を薄い膜のように流れていく。草鞋の底が泥を吸い、歩くたびにくちゃりと鳴った。乾いた街道の音が、湿った音に変わっていく。
髪が額に貼りつき、衣が肩に重くなった。首筋を伝う雨水が冷たいのに、不快ではなかった。乾いた街道を歩いていた時の方が、よほど辛かった。
あさひが空を睨んだ。
「本降りだな。どこか屋根のある場所を探すか」
「いや、このまま進む。雨が降っている間に距離を稼いだ方がいい。乾いた街道を歩くより、体力の消耗が少ない」
久遠の判断は正しかった。
陽射しに灼かれながら歩いていた時に比べ、雨に打たれる今の方が、身体は軽い。水が肌を冷やし、喉の渇きが和らいでいく。
竹筒の水を飲む必要がなくなった。こよいは掌を上に向けて雨を受け、口に運んだ。水は冷たく、微かに土の味がしたが、乾いた竹筒のぬるい水とは比べものにならないほど美味かった。指の間を流れる水滴が透明で、生きている。
街道の両脇に、草の丈が高くなり始めた。
乾いた灌木しかなかった景色が、いつの間にか変わっている。地面の色が褐色から暗い茶に変わり、所々に緑が混じった。水の気配がある土地に入ったのだ。
道端に、小さな花が咲いていた。白い花弁が雨に打たれて揺れている。乾いた街道には見なかったものだ。花の根元に、蟻が列を作って動いている。雨の中でも、小さな命は止まらない。
さらに歩くと、道の先に木々の影が見えた。
最初は低い雑木林だったが、進むにつれて幹が太くなり、枝が高く広がり、頭上を覆い始めた。雨が葉に当たる音が変わった。肌に直接落ちていた雨粒が、葉を通して大きな滴になり、不規則な間隔でぼたぼたと落ちてくる。
森の匂いがした。
土と葉と苔と水の匂い。乾いた街道にはなかった匂いだった。鼻の奥に、湿った空気が染み込んでいく。
木の幹に手を当てると、樹皮が雨を含んで柔らかくなっていた。指を離すと、手のひらに茶色い水が残る。こよいはその水を見つめ、森が生きていることを掌で確かめた。
足元の落ち葉が雨に沈み、踏むたびに水が染み出す。葉の裏に小さな虫が張りつき、雨を避けていた。命は、雨の中でも続いている。
巾着の中で、四柱の脈が同時に変わった。
雨の神は力強く脈打ち、月の神は銀光を薄く灯し、硝子の神は雨粒の光を映すように揺れた。風の神が小さく身じろぎし、巾着の布が内側からふわりと膨らむ。四つの気配が、森の空気に応えていた。
こよいの胸が温かくなった。
乾いた街道にいた頃の、沈みがちだった四柱が、水と緑のある場所に来て息を吹き返している。神々にとって、水のある土地はそれだけで力になるのだ。
『……あめ。……あめ、うれしい……』
雨の神の声が、巾着の底から聞こえた。
細く、かすれて、けれど確かに。こよいは巾着を胸に寄せ、微笑んだ。
久遠が足を止め、木の幹に手を当てた。
義眼の蒼光が薄く灯り、周囲を読んでいる。
「……水脈がある。地下を通って、この先の低地に繋がっている。町が近い」
町。
その言葉に、こよいの足が軽くなった。
すぐ先で獣道が二つに分かれていた。左は尾根へ、右は水の流れとともに低地へ下っている。雨で道標の文字は読めなかった。
久遠が地面と地図を見比べる間、こよいは巾着に掌を当てた。右手の水音に重なって、雨の神が一度脈打つ。
「こっち」
こよいが右の道を指すと、久遠は流れの向きを確かめて頗いた。
雨は降り続いている。
木々の間を抜ける風が湿り気を含み、頬に当たると冷たいが、心地よかった。街道の砂埃が嘘のように遠い。
あさひが歩きながら、雨に濡れた前髪を掻き上げた。
「……飯が食いたいな。温かいやつ」
「町に着いたらな」
「町っていつだ」
「明日の朝には着く。このまま夜通し歩ければ」
あさひは黙った。
不満はあるだろうが、文句は言わなかった。剣を肩に担ぎ直し、泥を蹴って歩く。
雨が刃の表面を洗い、鋼が濡れて黒く光った。街道の砂埃が、一振りごとに流れ落ちていく。
こよいは巾着を胸に当てた。
神々の脈が、雨音に合わせるように揺れている。月の神の銀光が布越しに薄く漏れ、硝子の神が雨の光を映していた。風の神は森の風と囁き合うように、巾着の底で静かに息をしている。
四柱が、生きている。
水のある場所で、雨の降る森の中で、神々は確かに力を取り戻し始めていた。
雨が葉を打つ音と、草鞋が泥を踏む音と、三人の呼吸だけが、森の中に響いていた。
遠くで鳥が鳴いた。短く、二度。雨の合間に聞こえて、すぐ止んだ。森の中に、三人以外の声があることが、こよいの胸を少しだけ軽くした。
道は緩やかに下り、木々の隙間から遠い煙が薄く見えた。
人の暮らしの煙だ。雨に煙る景色の中で、それだけが確かな方角を示していた。
こよいは煙の根元をじっと見つめ、巾着の温もりを握り直した。




