第100話 駅への道
雨粒が、こよいの首筋から旅の熱を奪っていった。
笹の先から落ちる大粒の雫が、心地よい音を立てて土に還る。雨に洗われた土の匂いが濃く、草鞋の裏には泥が柔らかく絡みついた。
杉の幹は水を含んで暗褐色を帯び、踏みしめるたび泥が弾ける音が、こよいの耳へ返ってくる。
息を吐いても白くならない。それでも喉の奥には冷涼な冷えが残り、雨粒が髪を伝って首筋へ落ちるたび、歩幅は自然と整っていった。
巾着の奥から、とくん、とくんと二度、温かいものが布を押し上げた。こよいが指を添えると、雨の神は掌の下でもう一度応えた。
森にいた頃の力を取り戻している。布越しの温もりに触れるたび、胸の灯がひとつ落ち着くのが分かった。
久遠は少し先を音もなく歩き、木々の間に耳を澄ませていた。
濡れた衣が鳴るのを嫌うように肩をすくめ、雨音に呼吸を紛れ込ませている。義眼で森の奥の気配を読み続けるその横顔に、こよいは張り詰めた緊張の硬さを見た。
森は、三人に応えるように静かな息を返した。
鬱蒼としていた枝々が道を開き、梢で小鳥が短く鳴いた。雨粒が足元の水たまりに落ちて同心円を広げ、その輪が進むべき方角へ伸びていく。森そのものが、三人を導いていた。
嵐で折られた巨木の枝先から、すでに若葉が顔を出している。苔は水を含んで膨らみ、傷ついた幹も色艶を取り戻し始めていた。
こよいは不意に足を止め、冷たい大地に掌を当てた。
土から伝わる温度は、穏やかだった。遥か地下を流れる水脈が、静かに、けれど力強く脈打っている。巾着の神々がその鼓動と重なり、見えない道を示すように揺れた。
森は一言も返さない。けれど湿り気を帯びた風が、こよいの頬を一度だけ撫でた。
濡れた葉の青臭い匂いが一瞬だけ濃くなり、森が確かに生きていることを教えてくれた。
あさひはその風に前髪を掻き上げ、刀の柄に手を添えたまま空を見上げた。こよいの隣を歩く足取りは重いが、崩れない。
歩みの先に、小さな石の祠がひっそりと佇んでいた。
苔に覆われ、注連縄は雨水を吸って重く垂れている。
こよいは手を合わせ、掌に溜まった雨水で口をすすいだ。祠の前だけ風が弱く、雨が細い光の糸になって垂直に落ちていた。
「……ここで一息入れるぞ。焦っても記録は変わらねえ」
あさひが囁き、剣の水気を布で拭った。久遠は懐の地図を確かめている。
三人は大きな木の幹を盾にして身を寄せた。灯明皿に溜まった水が灰色の空を映し、こよいはそこに泥だらけの自分の顔を見つけた。巾着の重みが膝に落ち着き、乱れていた呼吸が整っていく。
「……奴らは、まだ追ってきているのか」
あさひが低く聞いた。
「うん。でも、遠い」
こよいは答えた。観測者の影はまだ遠いが、油断はできない。
雨の音がやけに均一に聞こえる瞬間があり、その時だけ背筋が粟立つ。見られている気がするのだ。
あさひは濡れた枝が肩に触れるたび眉を寄せ、久遠は木立を確かめては短く合図を送った。
三人は古い獣道に足を置いた。
石段の欠片が苔に埋もれ、かつて社があったことを告げる。
朽ちた注連縄が木の根に引っかかり、雨に洗われて白く浮かんだ。
その跡を越えると、道はわずかに明るくなる。
小さな沢があり、雨で水位が上がっていた。白い泡が石に当たり、短い音を立てて流れていく。
こよいは滑らぬ石を選び、足先で確かめながら渡った。あさひが「足元、気をつけろ」と声をかける。
石の表面は冷たく、草鞋の底に水の膜が吸いつく。あさひは久遠と視線を交わしてから跳んだ。
沢の水は冷たく澄み、掌を当てると神々の温もりが微かに震えた。
流れの向こうには古い道標が倒れ、木札の文字が雨で薄れている。それでも矢印の向きはかろうじて読めた。
久遠が「間違いない」と短く言い、こよいは札に指を置いて短く礼を述べた。
雨は足跡をすぐに消し、森が三人を隠すように息を寄せている。
木々の間に白い影が一瞬だけ見え、すぐに消えた。狐か木霊か分からぬまま、胸が温かくなる。
あさひが握り飯を割って渡した。雨で柔らかくなった米の匂いが立ち、噛むと水気と塩気が舌に広がった。喉の奥の冷えが少しだけほどけ、歩き続けるための熱が腹の底に落ちていく。
久遠は短く礼を述べ、再び先に立って道を確かめた。
道は緩やかな坂となり、木々の隙間から山の背が見えた。雨雲の切れ目に薄い光が差し、そこだけが淡く白い。
古い石標が道端に半ば埋もれていた。苔を払うと祈りの印が残っている。
こよいはその印に指を置き、導いてくれた森に感謝を述べた。
湿った空気の奥に、かすかな煙の匂いが混じった。
薪の甘さを含んだ、人の世の気配だ。雨に洗われた森の匂いとは違う温度が、鼻の奥に届く。
泥の上には、新しい草鞋の跡があった。大人のものに並んで、子どもの小さな足跡が坂の下へ続いている。へこみに溜まった雨水はまだ澄み、歩いた者がすぐ先にいることを告げていた。
こよいは胸元の巾着を衣の内側へ入れ、口を布で包み直した。ここから先では、森のように枝葉が神々を隠してくれない。
「もう少しだ」
あさひが低く言い、久遠が「町が近い」と短く告げた。
こよいは衣の上から巾着を押さえた。「町では、少しだけ静かにしていてね」と囁くと、雨の神が一度だけ指の下を叩いた。
森の下りの彼方で、雨ににじんだ人家の火がひとつ、またひとつと灯った。
安堵より先に、こよいの肩が強張った。火の数だけ人の目がある。あさひと久遠に遅れないよう、そして胸元を揺らさないよう、こよいは泥に足を沈ませて坂を下った。




