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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第100話 駅への道

挿絵(By みてみん)


雨粒が、こよいの首筋から旅の熱を奪っていった。

 (ささ)の先から落ちる大粒の(しずく)が、心地よい音を立てて土に還る。雨に洗われた土の匂いが濃く、草鞋(わらじ)の裏には泥が柔らかく絡みついた。

 杉の幹は水を含んで暗褐色(あんかっしょく)を帯び、踏みしめるたび泥が弾ける音が、こよいの耳へ返ってくる。

 息を吐いても白くならない。それでも喉の奥には冷涼(れいりょう)な冷えが残り、雨粒が髪を伝って首筋へ落ちるたび、歩幅は自然と整っていった。


 巾着(きんちゃく)の奥から、とくん、とくんと二度、温かいものが布を押し上げた。こよいが指を添えると、雨の神は(てのひら)の下でもう一度応えた。

 森にいた頃の力を取り戻している。布越しの温もりに触れるたび、胸の(ともしび)がひとつ落ち着くのが分かった。


 久遠(くおん)は少し先を音もなく歩き、木々の間に耳を澄ませていた。

 濡れた衣が鳴るのを嫌うように肩をすくめ、雨音に呼吸を紛れ込ませている。義眼(ぎがん)で森の奥の気配を読み続けるその横顔に、こよいは張り詰めた緊張の硬さを見た。


 森は、三人に応えるように静かな息を返した。

 鬱蒼(うっそう)としていた枝々が道を開き、(こずえ)で小鳥が短く鳴いた。雨粒が足元の水たまりに落ちて同心円を広げ、その輪が進むべき方角へ伸びていく。森そのものが、三人を導いていた。


 嵐で折られた巨木の枝先から、すでに若葉が顔を出している。(こけ)は水を含んで膨らみ、傷ついた幹も色艶(いろつや)を取り戻し始めていた。

 こよいは不意に足を止め、冷たい大地に(てのひら)を当てた。

 土から伝わる温度は、穏やかだった。遥か地下を流れる水脈が、静かに、けれど力強く脈打っている。巾着(きんちゃく)の神々がその鼓動と重なり、見えない道を示すように揺れた。


 森は一言も返さない。けれど湿り気を帯びた風が、こよいの頬を一度だけ撫でた。

 濡れた葉の青臭い匂いが一瞬だけ濃くなり、森が確かに生きていることを教えてくれた。

 あさひはその風に前髪を()き上げ、刀の(つか)に手を添えたまま空を見上げた。こよいの隣を歩く足取りは重いが、崩れない。


 歩みの先に、小さな石の(ほこら)がひっそりと(たたず)んでいた。

 (こけ)に覆われ、注連縄(しめなわ)は雨水を吸って重く垂れている。

 こよいは手を合わせ、(てのひら)に溜まった雨水で口をすすいだ。(ほこら)の前だけ風が弱く、雨が細い光の糸になって垂直に落ちていた。


 「……ここで一息入れるぞ。焦っても記録は変わらねえ」


 あさひが(ささや)き、剣の水気を布で(ぬぐ)った。久遠(くおん)は懐の地図を確かめている。

 三人は大きな木の幹を盾にして身を寄せた。灯明皿(とうみょうざら)に溜まった水が灰色の空を映し、こよいはそこに泥だらけの自分の顔を見つけた。巾着(きんちゃく)の重みが膝に落ち着き、乱れていた呼吸が整っていく。


 「……奴らは、まだ追ってきているのか」


 あさひが低く聞いた。


 「うん。でも、遠い」


 こよいは答えた。観測者(かんそくしゃ)の影はまだ遠いが、油断はできない。

 雨の音がやけに均一に聞こえる瞬間があり、その時だけ背筋が粟立(あわだ)つ。見られている気がするのだ。

 あさひは濡れた枝が肩に触れるたび眉を寄せ、久遠(くおん)は木立を確かめては短く合図を送った。


 三人は古い獣道(けものみち)に足を置いた。

 石段の欠片(かけら)(こけ)に埋もれ、かつて(やしろ)があったことを告げる。

 ()ちた注連縄(しめなわ)が木の根に引っかかり、雨に洗われて白く浮かんだ。


 その跡を越えると、道はわずかに明るくなる。

 小さな沢があり、雨で水位が上がっていた。白い泡が石に当たり、短い音を立てて流れていく。

 こよいは滑らぬ石を選び、足先で確かめながら渡った。あさひが「足元、気をつけろ」と声をかける。

 石の表面は冷たく、草鞋(わらじ)の底に水の膜が吸いつく。あさひは久遠(くおん)と視線を交わしてから跳んだ。


 沢の水は冷たく澄み、(てのひら)を当てると神々の温もりが微かに震えた。

 流れの向こうには古い道標(みちしるべ)が倒れ、木札の文字が雨で薄れている。それでも矢印の向きはかろうじて読めた。

 久遠(くおん)が「間違いない」と短く言い、こよいは札に指を置いて短く礼を述べた。


 雨は足跡をすぐに消し、森が三人を隠すように息を寄せている。

 木々の間に白い影が一瞬だけ見え、すぐに消えた。(きつね)木霊(こだま)か分からぬまま、胸が温かくなる。


 あさひが握り飯を割って渡した。雨で柔らかくなった米の匂いが立ち、噛むと水気と塩気が舌に広がった。喉の奥の冷えが少しだけほどけ、歩き続けるための熱が腹の底に落ちていく。

 久遠(くおん)は短く礼を述べ、再び先に立って道を確かめた。


 道は緩やかな坂となり、木々の隙間から山の背が見えた。雨雲の切れ目に薄い光が差し、そこだけが淡く白い。


 古い石標が道端に半ば埋もれていた。(こけ)を払うと祈りの印が残っている。

 こよいはその印に指を置き、導いてくれた森に感謝を述べた。


 湿った空気の奥に、かすかな煙の匂いが混じった。

 (まき)の甘さを含んだ、人の世の気配だ。雨に洗われた森の匂いとは違う温度が、鼻の奥に届く。

 泥の上には、新しい草鞋(わらじ)の跡があった。大人のものに並んで、子どもの小さな足跡が坂の下へ続いている。へこみに溜まった雨水はまだ澄み、歩いた者がすぐ先にいることを告げていた。

 こよいは胸元の巾着(きんちゃく)を衣の内側へ入れ、口を布で包み直した。ここから先では、森のように枝葉が神々を隠してくれない。


 「もう少しだ」


 あさひが低く言い、久遠(くおん)が「町が近い」と短く告げた。

 こよいは衣の上から巾着(きんちゃく)を押さえた。「町では、少しだけ静かにしていてね」と(ささや)くと、雨の神が一度だけ指の下を叩いた。

 森の下りの彼方で、雨ににじんだ人家の火がひとつ、またひとつと灯った。

 安堵より先に、こよいの肩が強張った。火の数だけ人の目がある。あさひと久遠(くおん)に遅れないよう、そして胸元を揺らさないよう、こよいは泥に足を沈ませて坂を下った。

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