第101話 新しい町の予感
町に入ると、足元の感触が変わった。
土から石畳へ。
草鞋の底が硬い石を叩くたびに、乾いた音が建物の壁に跳ね返る。
森や街道では聞かなかった音だ。
人の手が敷いた道の音。
通りには露店が並び、煎餅を焼く匂いと番茶の湯気が風に乗っていた。
荷車が行き交い、木の車輪が石畳を擦る音が途切れない。
こよいは匂いと音の洪水に目を細め、自分が久しぶりに人の世の只中にいることを感じた。
醤油の焦げる匂い、炭火の煙、藍染の暖簾が風に膨らむ音。どれもが森では嗅いだことのない、生きた人の営みの匂いだった。
目の前を駆け抜けた子どもの笑い声が、耳の奥にしばらく残った。
巾着の中で、神々が身を縮めている。
雨の神は脈を落とし、月の光は深く沈み、風の息は薄くなった。布越しに伝わる温もりが頼りなく、人の気配が濃い場所では、神々はこうして身を潜めるのだと、こよいは初めて知った。
あさひが鼻を鳴らした。
「鉄の匂いだ。駅が近い」
通りの突き当たりに、黒い煙を吐く木造の駅舎が見えた。
屋根の上で赤い旗がゆっくりと揺れ、壁には墨で書かれた時刻表が貼られている。
文字はかすれかけていたが、「鈴灯」の駅名だけは新しい墨で書き直されていた。
駅前には旅人が集まっていた。
蒸気の匂いが漂い、石畳には油と煤の染みが黒く広がっている。線路の方角から熱気が這い上がり、空気が僅かに歪んで見えた。
荷を背負った男、子を抱いた女、木箱を積んだ商人。
草鞋の音と荷物の擦れる音が混じり、待合の空気がざわついている。
売り子が声を張り、湯気の立つ団子を差し出していた。
久遠は人混みを抜け、窓口へ向かった。
その背中は人混みの中でも目を引いた。蒼い義眼の光が時折ちらつき、すれ違う旅人が無意識に道を空ける。こよいは久遠の後を追いながら、巾着を上着の内側に深く押し込んだ。人の視線が怖かった。中身を知られてはならない。
「切符を三枚」
木の格子の向こうで、駅員の手が動いた。
銅貨が受け皿に落ちる音。
朱い印が押された札が三枚、格子の隙間から滑り出てきた。
札は木の薄板で、行き先が旧い字で刻まれている。
朱の印はまだ湿っていて、こよいの指先に微かに色が移った。
木の札からは松脂の匂いがした。指で撫でると年輪の筋が浮き上がり、凹凸が爪に引っかかる。
久遠は札を確かめ、一枚をこよいに、一枚をあさひに渡した。
「……経蔵。記録の墓所だ。そこに、目録がある」
久遠の声は低く、周囲に聞かれぬよう唇だけが動いていた。
こよいは札を握り、木の手触りの中に、これから向かう場所の重さを感じた。
あさひは札を懐にしまい、何も訊かなかった。
ただ剣の柄を一度だけ握り直し、それが答えだった。
待合の柱時計が鳴った。
低い音が一つ。振り子の影が壁に揺れ、その影が通り過ぎるとき、巾着の中で月の光がわずかに反応した。時を刻む音に、月の神は敏感だった。
その音を合図にしたかのように、線路の上に溜まっていた霧が、ゆっくりとうねり始めた。
遠くで汽笛が鳴る。
こよいは立ち上がり、ホームへ出た。
鉄の匂いと煤の匂いが混じった空気が、顔に当たる。
線路は霧の中へ真っ直ぐ伸び、その先は白く塗り潰されて見えない。
汽笛がもう一度。
今度は近い。
霧の奥で灯が一つ生まれ、それが二つになり、三つになった。
灯は行灯の火に似ているが、もっと硬く、もっと直線的な光だった。
こよいは息を止めた。光の周りで霧が渦を巻き、水蒸気が細かい粒となって頬に触れる。鉄と水と、かすかな硫黄の匂いが混じっていた。
蒸気の白い柱が霧を割り、鋼の車体が音もなく滑り込んできた。
いや、音はあった。
車輪がレールを踏む重い振動が、ホームの石畳を通じて足の裏に伝わってくる。
それは地鳴りに似て、けれど地鳴りよりも正確な、機械の呼吸だった。
巾着の中で、神々が一斉に身じろぎした。
雨の神が短く脈打ち、月の光が一瞬だけ強く灯り、風がきゅっと身を縮めた。
この鉄の獣に対する、本能的な警戒。
列車が止まった。
扉が開き、木の床から乾いた匂いが立ち上る。
車内には蒼白い行灯の火が灯り、空いた座席の影が長く伸びていた。
駅員が赤い旗を下ろし、切符を確かめる。
朱い印に目を落とし、短く頷いて通した。
駅員の指は油で黒く汚れ、爪の間に煤が詰まっていた。鉄と共に生きる者の手だった。
あさひが先に乗り込んだ。
久遠が続き、こよいが最後に足をかけた。
木の段を踏む音が、妙に大きく響いた。
こよいはふと振り返った。
ホームの端、霧の境目に、誰かが立っている気がした。
黒い影。
背筋に冷たいものが走った。巾着の中で、硝子の神が鋭く光り、すぐに消えた。警告だった。
目を凝らしたが、霧が揺れ、影は消えていた。
「……こよい。乗れ」
久遠の声が車内から届いた。
こよいは目を逸らし、車内に入った。
扉が重い音を立てて閉まり、ホームの灯が霧の向こうに沈んだ。
列車が動き出した。
足元から伝わる振動が、ゆっくりと速度を上げていく。
窓の外の霧が流れ始め、鈴灯の町が少しずつ遠ざかった。
露店の灯が一つ、また一つと霧に飲まれ、煎餅と番茶の匂いが記憶の奥に退いていく。人の世の匂いが薄れるにつれて、巾着の中の神々が、ほんの僅かだけ身体を緩めた。
こよいは座席に腰を下ろし、巾着を膝の上に乗せた。
布越しに、神々の温もりを確かめる。
まだ縮こまっている。
けれど、脈は止まっていない。
座席の木は古く、表面が滑らかに磨り減っていた。何百人もの旅人の身体が磨いた木目が、薄い行灯の光の中でぼんやりと浮かんでいる。車内には他に乗客はいなかった。空の座席が整然と並び、窓から差し込む霧の白い光が、それぞれの影を床に落としている。
窓硝子に額を寄せると、硝子の冷たさが肌に食い込んだ。
霧の奥に、町の灯が最後に一つだけ瞬き、それきり消えた。




