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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第101話 新しい町の予感

挿絵(By みてみん)


町に入ると、足元の感触が変わった。

 土から石畳(いしだたみ)へ。

 草鞋(わらじ)の底が硬い石を叩くたびに、乾いた音が建物の壁に跳ね返る。

 森や街道では聞かなかった音だ。

 人の手が敷いた道の音。


 通りには露店が並び、煎餅(せんべい)を焼く匂いと番茶の湯気が風に乗っていた。

 荷車(にぐるま)が行き交い、木の車輪が石畳(いしだたみ)を擦る音が途切れない。

 こよいは匂いと音の洪水に目を細め、自分が久しぶりに人の世の只中にいることを感じた。

 醤油(しょうゆ)の焦げる匂い、炭火の煙、藍染(あいぞめ)暖簾(のれん)が風に膨らむ音。どれもが森では嗅いだことのない、生きた人の営みの匂いだった。

 目の前を駆け抜けた子どもの笑い声が、耳の奥にしばらく残った。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々が身を縮めている。

 雨の神は脈を落とし、月の光は深く沈み、風の息は薄くなった。布越しに伝わる温もりが頼りなく、人の気配が濃い場所では、神々はこうして身を潜めるのだと、こよいは初めて知った。


 あさひが鼻を鳴らした。


 「鉄の匂いだ。駅が近い」


 通りの突き当たりに、黒い煙を吐く木造の駅舎(えきしゃ)が見えた。

 屋根の上で赤い旗がゆっくりと揺れ、壁には(すみ)で書かれた時刻表が貼られている。

 文字はかすれかけていたが、「鈴灯(すずとも)」の駅名だけは新しい墨で書き直されていた。


 駅前には旅人が集まっていた。

 蒸気の匂いが漂い、石畳(いしだたみ)には油と(すす)の染みが黒く広がっている。線路の方角から熱気が這い上がり、空気が僅かに(ゆが)んで見えた。

 荷を背負った男、子を抱いた女、木箱を積んだ商人。

 草鞋(わらじ)の音と荷物の擦れる音が混じり、待合の空気がざわついている。

 売り子が声を張り、湯気の立つ団子を差し出していた。


 久遠(くおん)は人混みを抜け、窓口へ向かった。

 その背中は人混みの中でも目を引いた。蒼い義眼(ぎがん)の光が時折ちらつき、すれ違う旅人が無意識に道を空ける。こよいは久遠(くおん)の後を追いながら、巾着(きんちゃく)を上着の内側に深く押し込んだ。人の視線が怖かった。中身を知られてはならない。


 「切符を三枚」


 木の格子の向こうで、駅員の手が動いた。

 銅貨が受け皿に落ちる音。

 (あか)い印が押された札が三枚、格子の隙間から滑り出てきた。

 札は木の薄板で、行き先が旧い字で刻まれている。

 朱の印はまだ湿っていて、こよいの指先に微かに色が移った。

 木の札からは松脂(まつやに)の匂いがした。指で撫でると年輪の筋が浮き上がり、凹凸が爪に引っかかる。


 久遠(くおん)は札を確かめ、一枚をこよいに、一枚をあさひに渡した。


 「……経蔵(きょうぞう)。記録の墓所だ。そこに、目録(もくろく)がある」


 久遠(くおん)の声は低く、周囲に聞かれぬよう唇だけが動いていた。

 こよいは札を握り、木の手触りの中に、これから向かう場所の重さを感じた。


 あさひは札を懐にしまい、何も訊かなかった。

 ただ剣の(つか)を一度だけ握り直し、それが答えだった。


 待合の柱時計が鳴った。

 低い音が一つ。振り子の影が壁に揺れ、その影が通り過ぎるとき、巾着(きんちゃく)の中で月の光がわずかに反応した。時を刻む音に、月の神は敏感だった。

 その音を合図にしたかのように、線路の上に溜まっていた(きり)が、ゆっくりとうねり始めた。


 遠くで汽笛(きてき)が鳴る。


 こよいは立ち上がり、ホームへ出た。

 鉄の匂いと(すす)の匂いが混じった空気が、顔に当たる。

 線路は(きり)の中へ真っ直ぐ伸び、その先は白く塗り潰されて見えない。


 汽笛(きてき)がもう一度。

 今度は近い。

 (きり)の奥で(ともしび)が一つ生まれ、それが二つになり、三つになった。

 灯は行灯(あんどん)の火に似ているが、もっと硬く、もっと直線的な光だった。

 こよいは息を止めた。光の周りで霧が渦を巻き、水蒸気が細かい粒となって頬に触れる。鉄と水と、かすかな硫黄(いおう)の匂いが混じっていた。


 蒸気の白い柱が(きり)を割り、鋼の車体が音もなく滑り込んできた。

 いや、音はあった。

 車輪がレールを踏む重い振動が、ホームの石畳(いしだたみ)を通じて足の裏に伝わってくる。

 それは地鳴りに似て、けれど地鳴りよりも正確な、機械の呼吸だった。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々が一斉に身じろぎした。

 雨の神が短く脈打ち、月の光が一瞬だけ強く灯り、風がきゅっと身を縮めた。

 この鉄の獣に対する、本能的な警戒。


 列車が止まった。

 扉が開き、木の床から乾いた匂いが立ち上る。

 車内には蒼白い行灯(あんどん)の火が灯り、空いた座席の影が長く伸びていた。


 駅員が赤い旗を下ろし、切符を確かめる。

 (あか)い印に目を落とし、短く(うなず)いて通した。

 駅員の指は油で黒く汚れ、爪の間に(すす)が詰まっていた。鉄と共に生きる者の手だった。


 あさひが先に乗り込んだ。

 久遠(くおん)が続き、こよいが最後に足をかけた。

 木の段を踏む音が、妙に大きく響いた。


 こよいはふと振り返った。

 ホームの端、(きり)の境目に、誰かが立っている気がした。

 黒い影。

 背筋に冷たいものが走った。巾着(きんちゃく)の中で、硝子(びいどろ)の神が鋭く光り、すぐに消えた。警告だった。

 目を凝らしたが、(きり)が揺れ、影は消えていた。


 「……こよい。乗れ」


 久遠(くおん)の声が車内から届いた。

 こよいは目を逸らし、車内に入った。

 扉が重い音を立てて閉まり、ホームの(ともしび)(きり)の向こうに沈んだ。


 列車が動き出した。

 足元から伝わる振動が、ゆっくりと速度を上げていく。

 窓の外の(きり)が流れ始め、鈴灯(すずとも)の町が少しずつ遠ざかった。

 露店の灯が一つ、また一つと(きり)に飲まれ、煎餅(せんべい)と番茶の匂いが記憶の奥に退いていく。人の世の匂いが薄れるにつれて、巾着(きんちゃく)の中の神々が、ほんの僅かだけ身体を緩めた。


 こよいは座席に腰を下ろし、巾着(きんちゃく)を膝の上に乗せた。

 布越しに、神々の温もりを確かめる。

 まだ縮こまっている。

 けれど、脈は止まっていない。

 座席の木は古く、表面が滑らかに磨り減っていた。何百人もの旅人の身体が磨いた木目が、薄い行灯(あんどん)の光の中でぼんやりと浮かんでいる。車内には他に乗客はいなかった。空の座席が整然と並び、窓から差し込む(きり)の白い光が、それぞれの影を床に落としている。


 窓硝子(まどがらす)に額を寄せると、硝子(ガラス)の冷たさが肌に食い込んだ。

 (きり)の奥に、町の(ともしび)が最後に一つだけ瞬き、それきり消えた。

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