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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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102/125

第102話 道標の嘘

挿絵(By みてみん)


列車は加速していた。

 車輪がレールを刻む音が、ゴト、ゴトと規則正しく速度を上げ、窓の外の(きり)は白い壁となって流れていく。

 鈴灯(すずとも)の灯はとうに消え、今はただ、不透明な白だけが世界の全てだった。


 車内には木の匂いと(すす)の匂いが(おり)のように溜まっている。

 蒼白い行灯(あんどん)の火が天井で揺れ、座席の影が壁の上を()うように動いた。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々が落ち着かない。

 月の神は光を極限まで絞り、布の奥深くへ身を沈めている。

 風の神は列車の揺れに抗うように身をよじり、時折小さく震えた。

 硝子(びいどろ)の神だけが窓硝子(まどがらす)の光に応え、(きり)の向こうに何かを読み取ろうとしている。


 鉄の箱の中では、神々は居心地が悪いのだ。こよい自身も、天井の低さと窓の外の白さに、息が詰まりそうだった。

 こよいは巾着(きんちゃく)に手を添え、大丈夫、と心の中で繰り返した。

 指先に、神々の脈が伝わる。弱く、けれど途切れない。雨の神は巾着(きんちゃく)の底で丸くなり、布の繊維に染み込むようにして耐えている。こよいはその脈に合わせて、ゆっくりと呼吸を整えた。


 あさひが向かいの席で腕を組んでいた。

 剣を膝に立てかけ、窓の外を(にら)んでいる。


 「……(きり)が濃い。こっちの記録ごと飲み込もうとしてるみたいだ」


 あさひの声は低く、列車の走行音に半分消されていた。

 窓硝子(まどがらす)の表面に水滴が浮き始めている。車内の温もりと外の冷気がぶつかり、硝子(ガラス)が汗をかいている。あさひは指先で水滴を拭い、その隙間から外を睨んだ。指の跡は一瞬で曇り直した。


 久遠(くおん)は膝の上に地図を広げ、揺れる車内で指先を滑らせている。


 「鈴灯(すずとも)から経蔵(きょうぞう)までの区間は、(ことわり)の崩落が最も激しい空白地帯だ。……正確な座標を保てる乗り物は、この列車だけしかない」


 「空白地帯って、何もないの?」


 「何もないんじゃない。何があってもおかしくない。……記録が不安定で、景色さえ定まらない場所だ」


 久遠(くおん)は地図を巻き直しながら、義眼(ぎがん)を窓に向けた。

 蒼い光が瞳の奥で微かに動き、(きり)の中の何かを追っている。


 列車が汽笛(きてき)を鳴らした。

 長く、太い音が(きり)を裂き、一瞬だけ視界が開けた。


 こよいは息を呑んだ。


 窓の外に、崩れた塔が浮かんでいた。

 石の壁は半分崩れ落ち、橋だったものが重力を忘れたように宙に漂っている。

 色はない。

 全てがセピアに()せ、音もなく、ただそこに在った。

 かつて人が暮らし、神が宿った場所の残骸(ざんがい)だった。


 その景色は一瞬で(きり)に飲まれた。

 けれど、こよいの胸の奥に、鋭い痛みが残った。

 巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が一滴だけ涙のように膨らみ、布地を濡らした。月の光がそれに触れ、淡く銀色に光った。あの崩れた塔に宿っていたかもしれない、名も知らぬ同胞の痕跡を、神々もまた感じ取ったのだ。


 「……見えたのか。記録の墓標(ぼひょう)が」


 「うん。……すごく、悲しかった」


 「……死んだ記録だ。観測の対象にもならない」


 久遠(くおん)は冷たく言ったが、地図を巻く手が微かに震えていた。

 こよいは窓から目を離せなかった。あの塔に暮らしていた人がいたはずだ。軒先で洗い物を干し、夕餉(ゆうげ)の煙を上げ、子どもの名を呼んでいた人が。それが全て、セピアに褪せて、音を失って漂っている。こよいの目の奥が熱くなった。


 沈黙が落ちた。

 車輪の音だけが刻み続ける。

 こよいは窓硝子(まどがらす)に額を押し当て、冷たさを額に染み込ませた。


 あさひが立ち上がった。

 棚から背負い袋を下ろし、包みを開く。

 醤油(しょうゆ)の焦げた匂いが車内に広がった。


 焼きおにぎりだった。

 鈴灯(すずとも)の町で買ったものだ。まだ少しだけ温かい。竹皮の包みに残った焦げ目の匂いが、車内の(すす)の匂いを一瞬だけ押しのけた。こよいの腹が小さく鳴り、自分がどれほど空腹だったかを初めて思い出した。


 「食えるときに食え。……経蔵(きょうぞう)に入ったら、飯の時間なんかない」


 あさひはそれだけ言って、おにぎりを二つ差し出した。

 こよいは両手で受け取り、噛んだ。

 米の甘さと醤油(しょうゆ)の焦げが舌に広がり、冷えていた身体の芯に、小さな火が灯る。


 「おいしい」


 「当然だ。人が育てた米を、火で焼いたんだからな」


 久遠(くおん)も細い指でおにぎりを摘み、丁寧に噛んでいた。

 三人は黙って食べた。

 おにぎりの米粒が指にくっつき、こよいはそれも丁寧に口に運んだ。一粒も残さない。森で神々と過ごした日々に、食べ物の大切さを教わった。あさひは二つ目を半分で止め、残りを包み直して懐にしまった。

 食べている間だけ、列車の揺れが揺りかごのように優しく感じられた。


 食後、こよいは巾着(きんちゃく)に触れた。

 神々の気配が、少しだけ穏やかになっている。

 月の光が布越しにこよいの指先をほのかに照らし、その冷たい銀色が、不思議と胸を落ち着かせた。


 「……経蔵(きょうぞう)に着いたら、ぼくたちは何をすればいいの?」


 こよいが低い声で()いた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を閉じずに、前を見たまま答えた。


 「目録(もくろく)を手に入れる。……(ことわり)の最深部に隠された、全ての記録の索引だ。神雧(かみあつめ)の正確な場所も、神々を縛る(くさび)の解き方も、全てがそこに記されている」


 「……それって」


 「ああ。同時に、この世界の秩序を根底から壊しかねない、危険なものでもある」


 久遠(くおん)の言葉が、車内の沈黙に重く沈んだ。

 (ことわり)を守るために、(ことわり)を壊す。

 こよいはその矛盾の重さを、まだ温かいおにぎりの残り香の中で噛みしめた。

 巾着(きんちゃく)の中で、風の神が小さく身じろぎした。目的地が近づくにつれて、布越しの気配が微かに張り詰めていく。


 窓の外の(きり)は、白から藍色へとゆっくり変わり始めていた。

 夜が近い。

 行灯(あんどん)の火が一段暗くなり、座席の影が濃くなった。あさひは目を閉じ、剣を抱えて眠りの入口に立っている。久遠(くおん)目録(もくろく)の在処を確かめるように、懐に手を当てたまま動かない。こよいだけが起きていた。膝の上の巾着(きんちゃく)から、硝子(びいどろ)の神が微かな燐光(りんこう)を放ち、窓硝子(まどがらす)に映る星のない空を見つめている。

 列車は速度を緩めず、闇の中へと進み続けた。

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