第102話 道標の嘘
列車は加速していた。
車輪がレールを刻む音が、ゴト、ゴトと規則正しく速度を上げ、窓の外の霧は白い壁となって流れていく。
鈴灯の灯はとうに消え、今はただ、不透明な白だけが世界の全てだった。
車内には木の匂いと煤の匂いが澱のように溜まっている。
蒼白い行灯の火が天井で揺れ、座席の影が壁の上を這うように動いた。
巾着の中で、神々が落ち着かない。
月の神は光を極限まで絞り、布の奥深くへ身を沈めている。
風の神は列車の揺れに抗うように身をよじり、時折小さく震えた。
硝子の神だけが窓硝子の光に応え、霧の向こうに何かを読み取ろうとしている。
鉄の箱の中では、神々は居心地が悪いのだ。こよい自身も、天井の低さと窓の外の白さに、息が詰まりそうだった。
こよいは巾着に手を添え、大丈夫、と心の中で繰り返した。
指先に、神々の脈が伝わる。弱く、けれど途切れない。雨の神は巾着の底で丸くなり、布の繊維に染み込むようにして耐えている。こよいはその脈に合わせて、ゆっくりと呼吸を整えた。
あさひが向かいの席で腕を組んでいた。
剣を膝に立てかけ、窓の外を睨んでいる。
「……霧が濃い。こっちの記録ごと飲み込もうとしてるみたいだ」
あさひの声は低く、列車の走行音に半分消されていた。
窓硝子の表面に水滴が浮き始めている。車内の温もりと外の冷気がぶつかり、硝子が汗をかいている。あさひは指先で水滴を拭い、その隙間から外を睨んだ。指の跡は一瞬で曇り直した。
久遠は膝の上に地図を広げ、揺れる車内で指先を滑らせている。
「鈴灯から経蔵までの区間は、理の崩落が最も激しい空白地帯だ。……正確な座標を保てる乗り物は、この列車だけしかない」
「空白地帯って、何もないの?」
「何もないんじゃない。何があってもおかしくない。……記録が不安定で、景色さえ定まらない場所だ」
久遠は地図を巻き直しながら、義眼を窓に向けた。
蒼い光が瞳の奥で微かに動き、霧の中の何かを追っている。
列車が汽笛を鳴らした。
長く、太い音が霧を裂き、一瞬だけ視界が開けた。
こよいは息を呑んだ。
窓の外に、崩れた塔が浮かんでいた。
石の壁は半分崩れ落ち、橋だったものが重力を忘れたように宙に漂っている。
色はない。
全てがセピアに褪せ、音もなく、ただそこに在った。
かつて人が暮らし、神が宿った場所の残骸だった。
その景色は一瞬で霧に飲まれた。
けれど、こよいの胸の奥に、鋭い痛みが残った。
巾着の中で、雨の神が一滴だけ涙のように膨らみ、布地を濡らした。月の光がそれに触れ、淡く銀色に光った。あの崩れた塔に宿っていたかもしれない、名も知らぬ同胞の痕跡を、神々もまた感じ取ったのだ。
「……見えたのか。記録の墓標が」
「うん。……すごく、悲しかった」
「……死んだ記録だ。観測の対象にもならない」
久遠は冷たく言ったが、地図を巻く手が微かに震えていた。
こよいは窓から目を離せなかった。あの塔に暮らしていた人がいたはずだ。軒先で洗い物を干し、夕餉の煙を上げ、子どもの名を呼んでいた人が。それが全て、セピアに褪せて、音を失って漂っている。こよいの目の奥が熱くなった。
沈黙が落ちた。
車輪の音だけが刻み続ける。
こよいは窓硝子に額を押し当て、冷たさを額に染み込ませた。
あさひが立ち上がった。
棚から背負い袋を下ろし、包みを開く。
醤油の焦げた匂いが車内に広がった。
焼きおにぎりだった。
鈴灯の町で買ったものだ。まだ少しだけ温かい。竹皮の包みに残った焦げ目の匂いが、車内の煤の匂いを一瞬だけ押しのけた。こよいの腹が小さく鳴り、自分がどれほど空腹だったかを初めて思い出した。
「食えるときに食え。……経蔵に入ったら、飯の時間なんかない」
あさひはそれだけ言って、おにぎりを二つ差し出した。
こよいは両手で受け取り、噛んだ。
米の甘さと醤油の焦げが舌に広がり、冷えていた身体の芯に、小さな火が灯る。
「おいしい」
「当然だ。人が育てた米を、火で焼いたんだからな」
久遠も細い指でおにぎりを摘み、丁寧に噛んでいた。
三人は黙って食べた。
おにぎりの米粒が指にくっつき、こよいはそれも丁寧に口に運んだ。一粒も残さない。森で神々と過ごした日々に、食べ物の大切さを教わった。あさひは二つ目を半分で止め、残りを包み直して懐にしまった。
食べている間だけ、列車の揺れが揺りかごのように優しく感じられた。
食後、こよいは巾着に触れた。
神々の気配が、少しだけ穏やかになっている。
月の光が布越しにこよいの指先をほのかに照らし、その冷たい銀色が、不思議と胸を落ち着かせた。
「……経蔵に着いたら、ぼくたちは何をすればいいの?」
こよいが低い声で訊いた。
久遠は義眼を閉じずに、前を見たまま答えた。
「目録を手に入れる。……理の最深部に隠された、全ての記録の索引だ。神雧の正確な場所も、神々を縛る楔の解き方も、全てがそこに記されている」
「……それって」
「ああ。同時に、この世界の秩序を根底から壊しかねない、危険なものでもある」
久遠の言葉が、車内の沈黙に重く沈んだ。
理を守るために、理を壊す。
こよいはその矛盾の重さを、まだ温かいおにぎりの残り香の中で噛みしめた。
巾着の中で、風の神が小さく身じろぎした。目的地が近づくにつれて、布越しの気配が微かに張り詰めていく。
窓の外の霧は、白から藍色へとゆっくり変わり始めていた。
夜が近い。
行灯の火が一段暗くなり、座席の影が濃くなった。あさひは目を閉じ、剣を抱えて眠りの入口に立っている。久遠は目録の在処を確かめるように、懐に手を当てたまま動かない。こよいだけが起きていた。膝の上の巾着から、硝子の神が微かな燐光を放ち、窓硝子に映る星のない空を見つめている。
列車は速度を緩めず、闇の中へと進み続けた。




