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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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103/125

第103話 仮面の乗客

挿絵(By みてみん)


こよいは目を覚ました。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 列車の揺れが子守唄のように身体を揺すり、気がつけば額が窓硝子(まどがらす)に押し当たっていた。

 車内は暗くなっていた。

 行灯(あんどん)の火が小さく絞られ、蒼白い光が座席の端だけを照らしている。

 窓硝子に自分の顔がぼんやりと浮かび、その向こうに何もない夜が広がっていた。

 冷えた硝子から、夜の重さが額へ染み込んでくる。

 列車の振動が変わっていた。乗った時より低く、重い。線路の下の地質が変わったのか、あるいは列車が普通の場所を走っていないのか。


 あさひは眠っていない。

 向かいの席で剣を抱え、目だけが鋭く動いている。

 久遠(くおん)も起きていた。

 膝の上に手を組み、義眼(ぎがん)の蒼光だけが微かに灯っている。


 こよいが身じろぎした瞬間、巾着(きんちゃく)の中の月の神が鋭く光った。

 警告の光。

 こよいは背筋に冷たいものを感じ、車内を見回した。


 通路の向こう側の席に、男が座っていた。


 乗った時にはいなかった。

 こよいは息を止めた。動かないことで、男の注意を引かないようにした。視線だけを動かし、男の全身を確認する。真っ黒な法衣(ほうえ)が頭からつま先まで覆い、顔には白い仮面がある。

 紋様(もんよう)のない、のっぺりとした白。

 その白さが、行灯(あんどん)の蒼い光の中で異様に浮いていた。


 男は膝の上に古い木箱を抱えている。

 身じろぎしない。呼吸も見えない。

 法衣(ほうえ)(すそ)は床に垂れ、布の端が列車の振動でも揺れなかった。まるで絵の中の人物がそこに座っているような、現実との薄い断絶があった。

 体温がないのだと、こよいは理屈ではなく肌で感じた。

 男の周囲だけ、空気が冷たい。座席の木目が男の影の下だけ白く(しも)を吹いているように見えた。こよいの吐く息が、男に近づくほど白くなりかけ、すぐに消えた。


 巾着(きんちゃく)の中で、風の神が身をよじった。

 死の匂い。

 停滞した、古い死の匂いが、男の方から漂ってくる。


 「……あの男。体内に、名のない神の破片を埋め込んでいる」


 久遠(くおん)が、唇だけを動かして言った。


 「観測者(かんそくしゃ)?」


 「違う。呼吸の形式が違う。……たぶん、墓掘り人だ。経蔵(きょうぞう)から漏れ出した記録の残骸(ざんがい)を拾い集めて、闇で売り(さば)く連中がいる」


 こよいは木箱を見た。

 箱の隙間から、微かに蒼い光が漏れている。

 それは神々の光に似ていたが、もっと冷たく、もっと硬い光だった。


 「あの箱の中に……」


 「圧縮された慟哭(どうこく)だ。名を失った神々の、最後の叫びを詰め込んでやがる」


 久遠(くおん)の声に、押さえきれない怒りが(にじ)んだ。


 列車が鉄橋に差しかかった。

 車体が大きく揺れ、床板の上の(すす)が一斉に舞い上がった。

 行灯(あんどん)の火が消えた。


 闇。


 こよいはあさひの腕を(つか)んだ。

 あさひは黙って握り返し、剣の石突きを床に突き立てた。


 闇の中で、木箱だけが光っていた。

 蒼ではない。(くれない)の光。

 心臓のように脈打ちながら、明滅を繰り返す。


 その光に照らされた白い仮面に、文字が浮かんでいた。


 助けて。

 助けて。

 助けて。


 (すみ)で書かれたような文字が、次から次へと、仮面の表面を覆い尽くしていく。

 数千、数万の声が、たった二文字に圧縮されて、白い面の上で(うごめ)いていた。


 こよいは声を出せなかった。

 息が凍りついて、叫ぶことさえできない。

 ただ、巾着(きんちゃく)を抱きしめた。

 布越しに、四柱(よはしら)の神々が震えているのが伝わってくる。


 汽笛(きてき)が鳴った。

 長く、耳を裂く音。

 行灯(あんどん)の火が戻った。


 男はいなかった。

 座席には誰もいない。

 ただ、床の上に一筋、黒い(すす)の跡だけが残されていた。


 こよいは止めていた息を、大きく吐き出した。

 手が震えている。指先が冷たく、感覚が薄い。

 あさひの腕から手を離し、自分の膝を押さえた。膝も震えていた。巾着(きんちゃく)を胸に抱き寄せると、四柱(よはしら)の脈が速く打っていた。

 硝子(びいどろ)の神だけが、あの木箱の光を覚えているかのように、静かに揺れ続けていた。


 あさひは剣の刃についた黒い(ちり)(そで)で拭い、短く息を吐いた。


 「……(ことわり)の毒に、()てられたな」


 こよいは自分の(てのひら)を見た。あさひの腕を(つか)んだ指先が、まだ白く強張っている。声にならない声を、体の奥で絞っていたのだと、今になって気づいた。叫ばなかったことが、正しかったのか。何もできなかったのか。こよいは握りしめた拳をゆっくり開き、巾着(きんちゃく)の上に掌を載せた。布越しの四柱(よはしら)の震えが、少しずつ自分の体温に馴染んでいく。


 「あの人は、どこに」


 「消えた。門番(もんばん)の気配を感じて逃げたんだろう」


 久遠(くおん)が窓の外を見ていた。

 義眼(ぎがん)の光が強くなっている。


 「……見えてきた」


 こよいも窓に目を向けた。

 (きり)の奥に、黒い影が浮かんでいる。

 門だった。

 漆黒の、巨大な門。

 (きり)の中からゆっくりと姿を現し、列車を待ち受けるようにそびえていた。


 経蔵(きょうぞう)

 記録の墓所。

 門の表面を覆う文字の(うろこ)が、(きり)の中で微かに(うごめ)いている。圧縮された記録が、近づく列車の振動に反応しているのだ。


 列車は速度を落とし始めた。

 車輪の音が低く、重くなっていく。ブレーキの(きし)みが鉄の悲鳴のように車内を走り、座席の木が揺れた。

 こよいは窓硝子(まどがらす)に映る自分の顔を見た。引き締まった目。眠っていた時より、ずっと覚めている。あの仮面の文字が残した痛みが、まだ肋骨の内側に張り付いている。けれど足は止まらない。ここまで来たのだと、こよいは自分に言い聞かせた。

 巾着(きんちゃく)の中で、神々が身を寄せ合うように沈黙した。

 門の圧力を感じ取ったのだろう。あの門の向こうに、神々の名前が葬られている。自分たちの起源が記された場所が。


 こよいは窓硝子(まどがらす)に指を当て、その冷たさの中に、門の向こう側から漏れてくる微かな圧力を感じた。

 記録の重さ。

 この世の全てが刻まれた場所の、途方もない重さだった。

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