第103話 仮面の乗客
こよいは目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。
列車の揺れが子守唄のように身体を揺すり、気がつけば額が窓硝子に押し当たっていた。
車内は暗くなっていた。
行灯の火が小さく絞られ、蒼白い光が座席の端だけを照らしている。
窓硝子に自分の顔がぼんやりと浮かび、その向こうに何もない夜が広がっていた。
冷えた硝子から、夜の重さが額へ染み込んでくる。
列車の振動が変わっていた。乗った時より低く、重い。線路の下の地質が変わったのか、あるいは列車が普通の場所を走っていないのか。
あさひは眠っていない。
向かいの席で剣を抱え、目だけが鋭く動いている。
久遠も起きていた。
膝の上に手を組み、義眼の蒼光だけが微かに灯っている。
こよいが身じろぎした瞬間、巾着の中の月の神が鋭く光った。
警告の光。
こよいは背筋に冷たいものを感じ、車内を見回した。
通路の向こう側の席に、男が座っていた。
乗った時にはいなかった。
こよいは息を止めた。動かないことで、男の注意を引かないようにした。視線だけを動かし、男の全身を確認する。真っ黒な法衣が頭からつま先まで覆い、顔には白い仮面がある。
紋様のない、のっぺりとした白。
その白さが、行灯の蒼い光の中で異様に浮いていた。
男は膝の上に古い木箱を抱えている。
身じろぎしない。呼吸も見えない。
法衣の裾は床に垂れ、布の端が列車の振動でも揺れなかった。まるで絵の中の人物がそこに座っているような、現実との薄い断絶があった。
体温がないのだと、こよいは理屈ではなく肌で感じた。
男の周囲だけ、空気が冷たい。座席の木目が男の影の下だけ白く霜を吹いているように見えた。こよいの吐く息が、男に近づくほど白くなりかけ、すぐに消えた。
巾着の中で、風の神が身をよじった。
死の匂い。
停滞した、古い死の匂いが、男の方から漂ってくる。
「……あの男。体内に、名のない神の破片を埋め込んでいる」
久遠が、唇だけを動かして言った。
「観測者?」
「違う。呼吸の形式が違う。……たぶん、墓掘り人だ。経蔵から漏れ出した記録の残骸を拾い集めて、闇で売り捌く連中がいる」
こよいは木箱を見た。
箱の隙間から、微かに蒼い光が漏れている。
それは神々の光に似ていたが、もっと冷たく、もっと硬い光だった。
「あの箱の中に……」
「圧縮された慟哭だ。名を失った神々の、最後の叫びを詰め込んでやがる」
久遠の声に、押さえきれない怒りが滲んだ。
列車が鉄橋に差しかかった。
車体が大きく揺れ、床板の上の煤が一斉に舞い上がった。
行灯の火が消えた。
闇。
こよいはあさひの腕を掴んだ。
あさひは黙って握り返し、剣の石突きを床に突き立てた。
闇の中で、木箱だけが光っていた。
蒼ではない。紅の光。
心臓のように脈打ちながら、明滅を繰り返す。
その光に照らされた白い仮面に、文字が浮かんでいた。
助けて。
助けて。
助けて。
墨で書かれたような文字が、次から次へと、仮面の表面を覆い尽くしていく。
数千、数万の声が、たった二文字に圧縮されて、白い面の上で蠢いていた。
こよいは声を出せなかった。
息が凍りついて、叫ぶことさえできない。
ただ、巾着を抱きしめた。
布越しに、四柱の神々が震えているのが伝わってくる。
汽笛が鳴った。
長く、耳を裂く音。
行灯の火が戻った。
男はいなかった。
座席には誰もいない。
ただ、床の上に一筋、黒い煤の跡だけが残されていた。
こよいは止めていた息を、大きく吐き出した。
手が震えている。指先が冷たく、感覚が薄い。
あさひの腕から手を離し、自分の膝を押さえた。膝も震えていた。巾着を胸に抱き寄せると、四柱の脈が速く打っていた。
硝子の神だけが、あの木箱の光を覚えているかのように、静かに揺れ続けていた。
あさひは剣の刃についた黒い塵を袖で拭い、短く息を吐いた。
「……理の毒に、中てられたな」
こよいは自分の掌を見た。あさひの腕を掴んだ指先が、まだ白く強張っている。声にならない声を、体の奥で絞っていたのだと、今になって気づいた。叫ばなかったことが、正しかったのか。何もできなかったのか。こよいは握りしめた拳をゆっくり開き、巾着の上に掌を載せた。布越しの四柱の震えが、少しずつ自分の体温に馴染んでいく。
「あの人は、どこに」
「消えた。門番の気配を感じて逃げたんだろう」
久遠が窓の外を見ていた。
義眼の光が強くなっている。
「……見えてきた」
こよいも窓に目を向けた。
霧の奥に、黒い影が浮かんでいる。
門だった。
漆黒の、巨大な門。
霧の中からゆっくりと姿を現し、列車を待ち受けるようにそびえていた。
経蔵。
記録の墓所。
門の表面を覆う文字の鱗が、霧の中で微かに蠢いている。圧縮された記録が、近づく列車の振動に反応しているのだ。
列車は速度を落とし始めた。
車輪の音が低く、重くなっていく。ブレーキの軋みが鉄の悲鳴のように車内を走り、座席の木が揺れた。
こよいは窓硝子に映る自分の顔を見た。引き締まった目。眠っていた時より、ずっと覚めている。あの仮面の文字が残した痛みが、まだ肋骨の内側に張り付いている。けれど足は止まらない。ここまで来たのだと、こよいは自分に言い聞かせた。
巾着の中で、神々が身を寄せ合うように沈黙した。
門の圧力を感じ取ったのだろう。あの門の向こうに、神々の名前が葬られている。自分たちの起源が記された場所が。
こよいは窓硝子に指を当て、その冷たさの中に、門の向こう側から漏れてくる微かな圧力を感じた。
記録の重さ。
この世の全てが刻まれた場所の、途方もない重さだった。




