第097話 結びの兆し
峠道は狭かった。
片側が谷に落ち込み、もう片側は岩壁が迫っている。
足元の石は細かく砕けて不安定で、草鞋の底が滑るたびに、こよいは指先まで力を込めて身体を支えた。
谷底から冷たい風が吹き上がってくる。
風の中に、森の青臭さの残りと、前方の乾いた土の匂いが混じっていた。
二つの匂いがぶつかる場所。
峠とはそういう場所なのだと、こよいは足の裏で感じた。
あさひが先頭を歩いている。
剣の柄で岩を叩き、足場の硬さを確かめてから踏む。
久遠は最後尾で、時折振り返っては背後の気配を探っていた。
巾着の中で、神々が弱く脈打つ。
森にいた時の力強さはない。乾いた風の中では、雨の神も息を潜めるのだろう。
月の神の銀光は薄く、硝子の神は岩肌の僅かな光を映して静かに揺れていた。風の神だけが谷風に反応し、布越しに小さく身じろぎしている。
四柱の脈は絶えず、腰骨に当たる温もりだけが、こよいの歩みを繋ぎ止めていた。
石段が途切れ、崩れた斜面に出た。
岩の表面に苔が薄く張りつき、雨の名残の水が光っている。
こよいは掌を岩に当てた。
冷たい。
指先に水が残り、それだけで少し落ち着いた。
あさひが黙って手を差し出した。
こよいはその手を取り、斜面を登った。
岩の角に古い刻み目がある。
旅人が残した印だろうか。
同じ怖さを抱いた人が、ここを通ったのだ。
峠の途中に、茶屋の跡があった。
屋根は落ち、柱だけが傾いて立っている。
壁に残った煤の跡が、ここにかつて火があったことを教えていた。
柱の根元に、古い釘が一本突き出ている。暖簾を吊るしていた釘だろう。錆びて茶色く、指で触れると粉が崩れた。
土間には踏み固められた跡が残り、旅人の足の重みを何年も受け止めてきた硬さがあった。ここで何人が茶を飲み、峠の向こうを眺めたのだろう。こよいは土間の端に立って、柱の傾き方と風の入り口を確かめた。軒が落ちた分だけ日差しが入り込んでいるが、背後の岩壁が風を遮るため、谷風はこの屋内を巻き込んでいない。久遠ならここを一時の退路に見なすだろうか。こよいは出口と死角の位置を一つずつ数え、心の中に留めた。
あさひが石に腰を下ろした。
「食うか」
小さな包みから握り飯が出てくる。
乾いて少し硬くなっていたが、噛むと塩の味がじわりと広がった。
こよいは一口ごとに噛む回数を数え、喉に通すたびに竹筒の水を一口だけ含んだ。
水は冷たく、峠の風に冷えた歯の根に染みた。
久遠は食べながらも周囲から目を離さない。
風の向きが変わるたびに顔をそちらへ向け、何かを聞き取ろうとしている。
「……観測者の気配は?」
「今のところはない。だが峠を下れば、空が開く。隠れる場所が減る」
久遠は握り飯を飲み込み、竹筒の蓋を閉めた。
その仕草に無駄がなく、こよいは久遠がこういう旅に慣れていることを改めて感じた。
三人は黙って風の音を聞いた。
茶屋の柱が軋み、そのたびに壁の煤が細かく散る。
壁の隅に古い木札が残っていた。
文字はかすれていたが、「峠」の一字だけがくっきり読めた。
こよいはその字を指でなぞった。
何人がこの字を見て、ここで息をついたのだろう。
札の端に、小さく手を合わせた。
峠の頂を越えた瞬間、世界が入れ替わった。
登りの間ずっと岩壁に遮られていた視界が、一息で果てまで開ける。風が正面から叩きつけ、こよいは思わず目を瞬いた。
眼下に広がるのは、乾いた大地だった。
褐色の地面がどこまでも続き、低い灌木が点々と散っている。
川は遠くに細い線として光り、そこから先は霞に溶けて見えない。
空が広い。
森にいた時とも、丘陵を歩いた時とも違う、圧倒的な広さだった。
「……遠いな」
あさひが呟いた。
声に感情はなく、ただ目の前の事実を述べただけだった。
久遠は懐から地図を出し、広げずに表面を指でなぞった。
「街道は三日ほど続く。水場は少ない。竹筒を満たしてから下りよう」
峠の裏側に、岩の割れ目から細く水が湧いていた。
あさひが見つけ、三人は竹筒を差し出して水を溜めた。
水は冷たく、微かに鉄の味がした。
岩の奥から押し出された水だ。
こよいは最後に、掌で水を掬い、顔を洗った。
冷たさが額から頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。
その一滴が地面に落ちた瞬間、巾着の中で神々がぴくりと震えた。
水が水を呼ぶ。
雨の神は、遠い水の記憶に反応したのだろう。
こよいはその震えに手を重ね、大丈夫、と心の中で告げた。雨の神の指し示す先がどの方角か、こよいには分からなかった。けれど水が水を呼ぶのなら、この乾いた土地のどこかにも、まだ目に見えない水脈があるはずだ。こよいはその場所を歩いて見つけるつもりでいた。
下り道は登りよりも膝に堪えた。
石が転がりやすく、一歩ごとに踵で地面を探る。
あさひは相変わらず先頭で、久遠が後ろについて、こよいを挟むように歩いた。
谷を一つ越え、もう一つ越え、道は次第に平坦になっていく。
岩肌が土に変わり、土が砂に変わり、草鞋の底の音が変わった。
さくり、という音から、ざり、という音へ。
峠を越えた先の景色は、登り側とはまるで別の土地だった。
緑はなく、岩と砂と枯れた草だけが広がっている。
空気の匂いが変わった。湿り気が消え、土と埃の匂いが鼻の奥を乾かす。背後を振り返れば、さっきまでいた森の緑が峠の向こうに沈んでいる。同じ山の裏表なのに、こんなにも違う。
こよいは一歩ごとに腰骨に当たる巾着の重さを確かめた。四柱の温もりは森の時より微かだが、脈の形は変わっていない。こよいはその一定のリズムを足取りに合わせ、歩幅を崩さないようにした。
街道に出た時、風が強くなった。
西から吹く風が砂を巻き上げ、目を細めなければ前が見えない。
こよいは袖で顔を覆い、風の中に立った。
風は冷たくはなかった。
乾いていて、肌の水分を奪うような風だった。
巾着の温もりが、その乾きの中で際立って感じられた。
遠くに街道の道標が見えた。
文字は読めないほど遠いが、道がまだ続いていることだけは分かった。
三人は峠を背にし、乾いた街道へと歩き出した。
あさひは一度も立ち止まらず、道の中央を真っ直ぐに進んでいる。久遠は歩きながら右手を懐に入れ、地図の折り目を指で確認しているのだろう。こよいは二人の歩幅の間に収まり、風に晒された自分の身体が、じわりと乾いていくのを感じながら歩いた。
空は高く、雲はなく、影を作るものは何もない。
ただ道だけが、地の果てまで真っ直ぐに伸びていた。




