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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第096話 見送る背中

挿絵(By みてみん)


丘の上に出ると、風の質が変わった。

 森の中では肌に(まと)わりついていた湿り気が、ここでは一息ごとに剥がれていく。

 代わりに入ってくるのは乾いた土の匂いと、遠い煙の気配だった。


 街道は丘陵の背を緩やかになぞり、両側には刈り取られた畑の残り株が低く並んでいる。

 麦の若い穂が風に(あお)られて銀色の波を作り、その波の果てに、黄土色の地面がどこまでも続いていた。

 足元の土は乾いて硬く、草鞋(わらじ)の底が踏むたびに、さくり、さくり、と小気味よい音を返した。


 巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が静かに脈打っている。

 森にいた時よりも弱く、けれど確かに。

 月の神は朝の光に身を潜め、硝子(びいどろ)の神は畑の上を走る光を映すように微かに揺れていた。風の神だけが丘の風に反応し、巾着(きんちゃく)の布が内側から小さく膨らむ。

 四柱(よはしら)の温もりが、乾いた空気の中でこよいの腰骨のあたりに残っていた。


 「人の匂いがする」


 あさひが鼻を鳴らした。

 煙と、家畜の(ふん)と、干した穀物の匂い。

 森では嗅いだことのない、生活の匂いだった。


 畑の端に井戸があり、その傍らに老人が立っていた。

 (みの)を肩にかけ、(くわ)を杖のように突いている。

 蓑には昨夜の雨粒がまだ残っていて、朝の光を受けて銀色に光っていた。


 「おや。こんな朝早くに、旅の者かね」


 老人は目を細めて言った。

 声は穏やかだが、こよいたちの足元や腰のものを素早く見る目には、この土地で長く生きてきた者の勘が宿っていた。


 こよいは頭を下げ、北の町へ向かう道を尋ねた。


 「峠を越えるのかい。ならば、この(あぜ)を真っ直ぐ行きな。突き当たりの橋を渡って、峠を越えれば北の町に出る」


 老人は(くわ)の先で畦道(あぜみち)を指した。


 「ただ、霧が出る朝は気をつけな。川と道の見分けがつかなくなる。(ともしび)が浮いて見えたら、それは向こう岸の宿の灯じゃない。川面(かわも)に映った光だ。追いかけると足を濡らすよ」


 老人は笑った。

 目尻に深く刻まれた(しわ)が、笑うと扇のように広がる。

 こよいはその笑顔の奥に、霧の中で何人もの旅人を見送ってきた人の落ち着きを感じた。

 老人の指は節が太く、爪の間に黒い土が詰まっていた。何十年も同じ畑を耕してきた手だ。


 久遠(くおん)は短く礼を言い、地図の巻物を懐から出して何かを確かめている。

 あさひはもう歩き出していた。


 老人は滑車のついた(おけ)から水を汲み、(ひさご)に移してこよいに差し出した。


 「乾くだろう。飲みな」


 こよいは一口含んだ。

 冷たい水が喉を通り、胸の奥で神々の温もりとぶつかる。

 不思議な感触だった。

 残りをあさひと久遠(くおん)に回し、空になった(ひさご)を返す。


 「ありがとうございます」


 「気をつけて行きな。峠の風は、下から吹くから」


 老人はそう言って、もう畑に向き直っていた。

 (くわ)が土を返す音が、遠ざかる三人の背中に届いた。


 畦道(あぜみち)は狭く、荷車の(わだち)が深く刻まれている。

 轍の中に溜まった昨夜の雨水が、歩くたびに草鞋(わらじ)の裏を濡らした。

 遠くで牛の鈴が鳴り、その音は森で聞いた鈴の音とはまるで違う。

 重く、丸く、人の手の中で鳴らされてきた音だった。


 道の分かれ目に、道祖神(どうそじん)の石が立っていた。

 小さな石に、丸い顔が二つ彫られている。

 首には色の()せた布が結ばれ、雨に濡れて重そうに垂れていた。


 こよいは立ち止まり、布を手で整えた。

 結び目がほどけかけていたので、きつく結び直す。

 あさひは無言で頭を下げ、久遠(くおん)は石の周りの地面に目を落として、何かを読み取ろうとしていた。


 「観測者(かんそくしゃ)の痕跡は?」


 「ない。……だが、この先の川を越えれば、(さかい)の密度が変わる。用心しろ」


 久遠(くおん)は低い声で言い、歩き出した。

 こよいは道祖神(どうそじん)の石にもう一度だけ目をやり、それから前を向いた。

 石の顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

 結び直した布が風に揺れ、石の二つの顔に影が落ちた。

 こよいはその影を見送らず、久遠(くおん)の背中を追った。


 道が下りに入ると、空気が湿り始めた。

 川が近い。

 水の冷たさが風に混じり、鼻の奥がつんとした。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々の脈が少しだけ速くなった。

 水が水を感じている。

 こよいはその微かな変化に手を当てたまま、歩き続けた。


 「なあ、こよい」


 あさひが振り向かずに言った。


 「町の空って、高いな」


 こよいは顔を上げた。

 丘の上から見える空は確かに広く、森の中で枝に切り取られていた空とは、奥行きが違った。

 雲がゆっくりと東へ流れ、その影が畑の上を横切っていく。


 「……うん。高い」


 久遠(くおん)は何も言わなかったが、巻き直した地図を革袋にしまう手つきが、少しだけ丁寧だった。


 下り坂の先に、木の橋が見えた。

 橋の向こうは薄い川霧に覆われていて、家並みの輪郭がぼやけている。

 老人の言った通りだった。

 (ともしび)は見えない。まだ朝だから。


 けれど、霧の奥から人の声が微かに聞こえた。

 荷を運ぶ声。水を汲む声。朝の支度の音。

 それは森では決して聞こえなかった音だった。

 生活の営みが立てる音は、どれもささやかなのに、こよいの胸の(ともしび)を小さく揺らした。自分が今、人の世の(ふち)に立っていることを、耳が先に知った。


 橋の手前で、こよいは足を止めた。

 神々が一度だけ強く脈打った。

 温かく、短く。

 まるで、ここから先は気をつけろ、と言うように。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握り、橋を渡った。

 板が(きし)み、下を流れる水の音が足の裏に響いた。

 霧が頬に触れ、そのまま髪に残った。


 橋を渡り終えると、道は急な登りに変わった。

 橋の向こう側の地面は畑よりも硬く、石が点々と混じっていた。

 こよいは足裏でその硬さを確かめ、川を隔てて土の質が変わることを肌で受け取った。

 峠道の入口に、朽ちかけた木の(しるべ)が立っている。

 文字は半分消えていたが、矢印だけは読めた。


 あさひが先に登り始め、久遠(くおん)が続いた。

 あさひの背中は小さく、けれど剣の(つか)を握った手だけが確かな輪郭を持っていた。

 こよいは一度だけ振り返り、霧の中に沈んでいく橋と、その向こうの畑を見た。


 老人の姿はもう見えない。

 (くわ)の音だけが、風に乗って微かに届いた。

 こよいはその音に小さく頭を下げ、峠道へと足を踏み出した。

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