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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第095話 森を出る朝

挿絵(By みてみん)


夜明けの森は、昨夜の雨の匂いをまだ抱いていた。

 葉の先から落ちる(しずく)が黒い土へ当たり、小さく弾け、弾けた音がすぐ耳へ返る。

 その当たり前の速さが、こよいの胸の内側を少しだけ軽くした。

 濡れた髪がうなじへ貼りつき、首を動かすたび冷たい糸みたいに引っ張られる。


 衣の袖口(そでぐち)はまだ重く、指を握ると布がきゅ、と鳴いて水を吐き、吐いた水が(てのひら)の線に沿って流れた。

 膝をつけば(こけ)が冷たく湿り、(てのひら)を土へ当てれば、しっとりした温度が皮膚に吸いついてくる。

 湿り気はただの水ではなく、土が生きるための柔らかさで、雨の神が戻したのは水だけじゃない、と、指先が先に理解した。

 巾着(きんちゃく)の奥で、授かった神々が一度、静かに脈を打つ。

 その隣で月の神が銀光を細く(とも)し、硝子(びいどろ)の神が朝の光を映すように揺れた。風の神は森を抜ける風に合わせて、布の内側で小さく身じろぎしている。四柱(よはしら)の温もりが、腰骨に当たる巾着(きんちゃく)の中で重なっていた。


 温もりは熱ではなく、痛みを整える形だった。

 こよいは神々に触れ、裂けた指の皮膚が痛みとして収まっていくのを確かめ、息を吐いた。

 吐いた息は白くならない。

 代わりに首筋の冷えが残り、その冷えが歩き出せと促す。


 痛みが「痛い」のまま戻ってくるのは、怖いものに触れた証拠だ。

 その証拠が残っているうちは、まだ迷いの森の外へ出られる。こよいは半ば無理やりにそう思い込んだ。

 あさひは濡れた(そで)を絞り、剣の(つか)の感触を握り直した。

 絞った水が土へ落ち、落ちた場所だけ匂いが濃くなる。


 久遠(くおん)は革袋から地図と小さな羅針盤(らしんばん)を出し、金属が噛み合う乾いた音を聞きながら針の揺れを見ている。

 針はまだ迷いの癖を引きずってわずかに震え、震えるたび真鍮(しんちゅう)の蓋が爪の先へ冷たく触れた。

 森の中では何度も嘘をつかれた針が、今は揺れながらも、少しずつ同じ方向へ戻ろうとしていた。


 「……出口。近い」


 「空気が、変わるね」


 「変わるところほど危ない。歩幅を揃えろ」


 久遠(くおん)の言葉のあと、こよいは足裏を意識した。

 泥の粘りが薄くなり、石の粒が増える。

 踏むたび、湿った重さが減って、代わりに乾いた軽い音が混じる。

 境目(さかいめ)は目に見えないのに、肌だけが先に知っていた。


 風の匂いが急に変わる。森の青い匂いの奥へ、(すす)と油の匂いが細く刺さった。

 息を吸うと喉の奥が乾き、吐く息の湿りがすぐ奪われる。

 こよいはその乾きに、森が終わる、と言われた気がした。

 北からの風が頬の水膜を()ぎ、濡れたまつ毛が軽くなる。代わりに目の奥が少しひりつく。

 振り返れば、森はまだ湿り気を抱いたまま暗く、前を向けば、空が広い。

 遠くの地平に煙が一本、細く立ち、煙の根元で小さな影が忙しく動いている。

 人の世の温度が、匂いとして届いた。


 (まき)の甘さと、鉄が焼ける匂いと、人の息の熱が混じり、雨の匂いとは違う濁りが、鼻の奥でざらりとした。

 煙のさらに上には、細い柱が何本か見えた。

 柱から柱へ蜘蛛(くも)の糸みたいな線が渡され、風に(あお)られるたび「きぃ」と鳴く。


 「電信柱(でんしんばしら)だ。言葉を数字にして運ぶ糸」


 久遠(くおん)は吐き捨てるように言った。

 こよいはその線を見上げ、森の枝の擦れ合う音とは違う乾いた悲鳴が、耳の奥へ刺さるのを感じた。

 人の世の記録は目に見えるのに温度がなく、温度がないのに執念深い。

 道の脇に、小さな石祠(いしぼこら)があった。


 注連縄(しめなわ)はほどけ、雨で重く垂れている。

 こよいは手を合わせ、(てのひら)に溜まった(しずく)で口をすすいだ。

 水は冷たいのに、喉の奥の乾きだけをやわらげてくれる。

 (ほこら)の前だけ風が弱く、雨の残り香が甘くなる。


 石の表面はざらつき、指を置くと冷えが爪の根へ入った。

 こよいはその冷えに一度だけ眉を寄せ、目を閉じる。

 閉じた(まぶた)の裏に、昨夜の黒い水面と、(くさび)に触れた痛みが一瞬だけ蘇り、すぐ神々の温もりがその映像を薄くした。

 (ほこら)は何も言わない。


 言わない代わりに、(しずく)の落ちる速さだけが一定で、一定であることが、境目を越えた証拠になった。

 こよいはふと、祖母の声を思い出した。

 夕暮れに大きな行灯(あんどん)が一斉に揺れる町。

 迷った魂を帰す灯。


 遠い話のはずだったのに、今はその灯へ向かって歩いている。

 祖母は「灯を見る前に、足元を見ろ」とも言った。

 灯はどこにでも見える、だからこそ足元が一番嘘をつく、と。

 こよいはその言葉を噛みしめ、乾いた砂の上でも足裏の感触を確かめる癖を捨てないと決める。


 捨てなければ、帰れる。

 帰れる道を残したまま、進める。

 道は乾き、足元の砂がさらりと崩れる。

 こよいが指で土を摘むと、粉のように落ちた。


 巾着(きんちゃく)の奥の神々がその乾きを感じたのか、温もりが腰へ寄り、冷えていた指先が少し戻る。

 温もりは甘くはない。

 淡い雨の匂いを含んだまま、乾いた風の中で輪郭だけを保ち、こよいの歩幅が乱れないように支えた。


 「……懐かしい匂いだな」


 「(すす)と油。人の汗の匂い」


 「……汽車(きしゃ)の匂いだ。駅がある」


 久遠(くおん)が言う「汽車」という言葉が、こよいの胸に重く落ちた。

 鉄の獣。

 人が神の力を道具にして走らせるもの。

 怖さより先に、知らない世界の広さが息を詰まらせる。


 「そんなの、本当に走ってるの?」


 「走る。(ことわり)の切符を持つ者だけが乗る」


 「俺たちは……神の記録で通る」


 あさひの声に、こよいは頷いた。

 胸の(ともしび)を守りながら、必要なところだけを通る。

 それでいい。

 遠くで、低い咆哮(ほうこう)が長く尾を引いた。


 獣の声ではない。

 地面が震え、空に細い黒が伸び、鼻の奥に焦げた匂いが刺さる。


 「……汽笛(きてき)だ」


 久遠(くおん)が言うより先に、こよいの皮膚がそれを新しい脅威として覚えた。

 けれど脅威の中に、人の生の熱が混じっているのも分かる。

 その熱は濁っていて、だからこそ怖い。

 道の先に、小さな沢が横切っていた。


 水は澄み、黒い石の間を滑って、触れると指が痛いほど冷たい。

 けれどその冷たさの奥で、神々が微かに共鳴し、温もりが一瞬だけ水面に揺れた。

 銀色の小魚が寄り、影に驚いて消える。

 沢を越えると、草鞋(わらじ)の跡と荷車の(わだち)が残っていた。


 人の記録だ。

 久遠(くおん)の視線が鋭くなり、あさひの肩が固くなる。

 こよいは息を整え、巾着(きんちゃく)に触れ、神々の温もりを胸の奥へ落とす。

 温もりが落ちた場所から、怖さが輪郭を持ち、輪郭を持った怖さは、踏み外さぬための注意へ変わる。


 霧の森で覚えた「止まり」を、今度は自分で選ぶために。

 遠くで、もう一度、汽笛(きてき)が鳴った。

 長く尾を引く音が、乾いた空を裂く。

 こよいはその音に背筋を伸ばし、背中の冷えを風に預けた。


 「行こう」


 こよいは言い、三人は歩幅を揃えた。

 背後の森の湿り気が遠ざかり、前方の乾いた風が強くなる。

 風は冷たいのに軽く、軽いからこそ油断が入りそうで、こよいは息を一つだけ深く吸ってから、浅い呼吸に戻した。

 神々が一度だけ脈を打ち、守る、と言わずに守る。


 巾着(きんちゃく)の布越しの温もりが腰骨へ当たり、その当たり方が、まだ自分が自分でいると教えた。

 道の上には、人の足跡が増えていく。

 増えるほど、観測者(かんそくしゃ)の気配も混じりやすくなる。

 こよいはその気配を感じながらも、怖さを前に出さず、足裏と匂いと音だけを拾って進む。


 電信の線が鳴く。

 汽笛(きてき)が鳴く。

 鳴き声の違いを覚えながら、こよいは胸の(ともしび)を小さく保ったまま、次の町へ向かう。

 乾いた風が頬をひりつかせるたび、こよいは巾着(きんちゃく)の温もりで指先を確かめ、まだ歩けると自分に言い聞かせた。


 煙は遠いのに匂いだけは近く、匂いが近くほど、(ことわり)の継ぎ目も近い。

 神々がもう一度だけ静かに脈を打ち、濁りの匂いの奥に、雨の匂いを残した。

 その匂いを失わないように、こよいは一歩ごとに呼吸を揃え、確かな足取りで前へ踏み出した。

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