第094話 雨の光
池を離れると、雨の音が少しだけ変わった。
刺す雨じゃない。
叩いて、流れて、戻る雨だ。
葉を打つ音が均一で、均一な音の中に身を置くと、さっきまでの不均一がどれほど身体を削っていたかが分かる。肩の力が抜けた。抜けた瞬間、肩が震えた。緊張が解ける震えだ。
地面はまだ泥だ。でも、さっきまでの泥じゃない。
踏めば沈む。
沈んでも、抜ける。
足を抜くとき、泥が「ずぶ」と音を立てて離れる。さっきまでは吸いついて離さなかった泥が、いまは素直に離れた。それだけのことが、足を軽くする。
「……歩ける」
こよいが言うと、あさひが短く笑った。
「足が残ってるってだけで、今日は勝ちだ」
久遠は笑わない。
雨の向こうへ耳を向け、呼吸を小さくしている。
「気を抜くな。……あいつらは、まだ近い」
観測者。その影は見えないが、久遠の義眼は遠い場所の歪みを拾う。拾えるうちは、まだ影が届く範囲にいる。
こよいは巾着を指で押さえた。
奥で、神々が淡く脈を打つ。
あの温もりがあるだけで、胸の灯が整う。
四柱の脈が、雨の音に合わせて穏やかに揺れている。風、月、硝子、そして雨。四つの息が巾着の中で混じり合い、布越しに温もりが手のひらへ伝わった。
あさひが、こよいの手を見た。
「血、止まってねえな」
「だいじょうぶ。痛いのが、まだ分かる」
痛いのが分かる。
それは、止まっていない証拠だった。
楔を抜いたとき裂けた掌の皮膚は、雨に洗われて赤い線だけが残っている。線の端が時々ずきりと痛む。痛むたびに、あの黒い水の冷たさが一瞬だけ戻り、すぐに消えた。
久遠が前を指した。
「道が変わる。……沢の音がある」
耳を澄ますと、雨の音の下に、もう一つの水の音が混じっていた。流れる音だ。止まらない水の音。こよいの胸が少しだけ軽くなった。流れている水がある。それだけで、ここが止まった場所ではないと分かる。
小さな沢に出た。
雨に増えた水が、石に当たって白く弾ける。
弾ける音が遅れない。
その当たり前に、こよいは息を深く吐けた。
沢の幅は狭く、石の背が水面から覗いている。石の表面に苔が張り、雨粒が苔を叩くと小さな飛沫が上がった。飛沫は風に乗って頬に触れ、冷たいのに刺さらない。
あさひが先に渡り、手を伸ばす。
「来い。滑るぞ」
こよいは頷き、石の背を選んで渡った。
冷たい水が草鞋の縁を撫でる。でも、引きずり込もうとしない。水は水として流れ、こよいの足を避けて通り、通り過ぎた先で何事もなかったように合流する。
渡り切ると、久遠も続いた。義眼の光は弱く、渡るとき一度だけ足を滑らせかけたが、あさひの手が伸びて袖を掴んだ。
「……すまない」
「いちいち謝るな」
渡り切った先に、倒れた木札が泥に半分埋まっていた。
文字は薄れている。
矢印だけが、かろうじて残っている。
久遠が札を拭って、目を細めた。
「……神雧。こっちだ」
こよいは札に指先を置いた。
冷たい木の感触。
その冷たさは、まだ生きている。誰かがこの札を立てた。どれほど前かは分からない。分からないけれど、朽ちかけても矢印が残っているのは、示す先がまだあるからだ。
「ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
森か、雨か、札を立てた人か。
それでも、言わずに進むのが怖かった。
少し歩くと、匂いが混じった。
湿った木の匂いの奥に、煙。
火の匂い。
炭を焚いたあとの、苦くて温かい匂いだ。雨の中で火を焚ける場所があるということは、屋根がある。屋根があるところには、人がいる。
「……人の匂いだ」
あさひが言い、久遠が頷いた。
「近いな。嫌な近さだ」
嫌な近さ。人がいることが嬉しいはずなのに、久遠の声には警戒がある。ここまでの旅で、人の場所が安全とは限らないことを、三人は知っていた。
こよいは巾着を握り直した。
『……音を聞いて。雨は、うそを嫌う』
巾着の奥で、雨の神の気配が小さく揺れた。
声ではない。でも、確かに「こっちだ」と言っている。雨粒の落ちる角度が、ほんのわずかに偏っている。偏った方向に、煙の匂いがある。雨の神が、雨で方角を示してくれている。
あさひが懐から、握り飯を出して割った。
「食え。手が震える前に」
こよいは受け取り、噛んだ。
水を吸った米は柔らかい。
塩が舌に刺さって、身体の奥が戻る。塩の味が喉を通ると、胃の底に小さな熱が生まれた。その熱が指先まで届くには時間がかかるけれど、届くと分かっているだけで、手の震えが少し収まる。
久遠も一口だけ食べて、すぐ前を見た。
「止まるな。雨があるうちに抜ける」
雨は視線を隠してくれる。でも、雨が止めば、見られる。観測者の目は、晴れた空の下でこそ届く。霧と雨がある間は、三人は霧の内側にいられる。けれど、雨はいつか止む。止むまでに、次の場所へ着かなければならない。
こよいは頷き、歩幅をそろえた。
森の奥で、鳥が一声だけ鳴いた。
遠い。
それでも、ちゃんと鳴る。
池の周りでは鳥の声がなかった。止まった場所では、鳥も鳴けない。鳴ける場所にいるということは、ここはまだ動いている。
「……次がある」
こよいが言うと、あさひは前を見たまま答えた。
「あるさ。終わらせる気はねえ」
久遠は小さく息を吐き、雨の向こうを見た。
「次は、もっと厄介だぞ」
こよいは巾着の温もりを確かめ、頷いた。
雨音は均一だ。
だからこそ、乱れたらすぐ分かる。
四柱の脈が、胸の上で静かに重なる。風と月と硝子と雨。三つだった脈が、四つになった。その一つ分の重みが、巾着を少しだけ温かくしている。
神雧へ。
矢印の示す方角へ。
雨の中を、三人は黙って進んだ。
足元の泥は柔らかく、踏むたびに小さな音を返す。
返る音が遅れない。
その当たり前を、こよいは一歩ごとに確かめた。




