表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/125

第091話 黒い水の腕

挿絵(By みてみん)


腕の先がこよいの視界を塞ぐ直前に、あさひが縄を引いた。

 半歩。たったそれだけで避けた。

 腕は水面の上に残り、残ったまま、広がり始めた。

 広がり方に音がない。

 腕の根元が膨らみ、膨らんだ幹に肩の形が生まれる。肩から首が伸び、首の先に頭が乗った。波紋(はもん)も立てず、水が水のまま人の形を取っていく。

 こよいの身体はあさひの引きで半歩後ろへ戻され、腰骨に結び目が食い込み、痛みが背骨を駆け上がる。


 大きい。

 大きいのに、音がない。

 雨は確かに降っている。でも、水面は鏡みたいに静止したまま。水の巨人だけがゆっくりと立ち上がり、立ち上がるほどに周囲の空気が重くなった。

 圧が来る。

 巨人が立つだけで、耳の奥が詰まり、呼吸が浅くなった。吐いた息が戻ってこない。戻ってこない分だけ、胸が詰まる。


 代わりに、水そのものが垂直に立ち上がってくる。

 巨人の表面を雨が伝い落ちるはずなのに、伝い落ちない。雨粒は巨人の身体に触れた瞬間に吸い込まれ、吸い込まれた分だけ巨人が膨らんだ。


 久遠(くおん)が短く息を()んだ。


 「決して剣を抜くな」


 あさひの声は荒い。


 「斬っても、怒りを立てるだけだ」


 こよいは頷いた。

 腰の結び目が痛い。

 痛みだけが、自分の輪郭(りんかく)を守っている。


 巨人の内側が見えた。黒い水の(まく)の奥に、もう一つの流れがある。怒りの形をした水の中を、もっと細い水が走っている。助けを求めるように。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)(ふち)を押さえ、巨人の中心を見た。


 怒りの(まく)の奥。


 「……中心だ。刺さってる」


 黒い一点。

 釘みたいに真っ直ぐで、そこだけ雨粒の沈む音が硬い。

 巾着(きんちゃく)の奥で、月の神が淡く光った。

 硝子(びいどろ)の神の欠片(かけら)が、視界の端を一瞬だけ白くする。


 『……怒ってる。けど、怒りだけじゃない』


 硝子(びいどろ)の神の声。

 こよいは胸の(ともしび)を小さくし、息を数えた。

 怖さを先に出せば、巨人が寄ってくる。怖さを殺すのではなく、怖さの後ろに回る。怖さが前にいるうちは動けない。後ろに回れば、向こう側が見える。


 巨人の腕が振り下ろされた。


 落ちる前に、圧が降りる。

 圧が降りた場所から、(きり)が薄い(まく)みたいに裂けた。裂けた隙間から冷たい風が吹き込み、こよいの頬が一瞬で(しび)れた。

 あさひが(さや)のまま剣を盾にし、身体を斜めに入れて受け流した。

 水が音もなく弾け、飛沫(しぶき)の一部が針みたいに散る。散った水粒が石の上で止まり、弾けたはずの水が動かない。止まった水の上に次の雨粒が落ち、沈んで、また止まる。


 こよいの頬を冷たいものが(かす)め、熱が奪われた。

 掠めた場所が白く(しび)れ、(しび)れが消えるまでの間、皮膚の感覚がなくなった。感覚が戻ったとき、そこだけが冷たい。止まった冷たさだ。

 怖さが身体の内側から立ち上がる。


 「……こよい。見るな」


 久遠(くおん)が短く言った。


 「見たら、固定(こてい)される」


 固定。あの言葉だ。町を固定した観測者(かんそくしゃ)と同じ。

 あさひは剣を引かず、(さや)の表面を巨人の方へ向けたまま、足の位置を一つずらした。ずれた分だけ、止まる場所を避けている。

 こよいは唇の内側を噛み、血の味で意識を戻した。血は温かい。温かいものがまだ身体の中にある。


 「雨の神さま……聞こえる?」


 声は雨に吸われる。でも、言わないと自分が壊れる気がした。


 巨人の胸の内側で、細い流れが一瞬だけ速くなった。

 すぐに止まり、また静けさが厚くなる。


 「反応した」


 こよいが言うと、久遠(くおん)が頷いた。


 「いる。……奥に押し込められてる」


 押し込められている。怒りの(まく)の内側で、本当の雨の神が動けずにいる。怒りは神のものではなく、縛りが生んだものだ。縛りの怒りが巨人の形を取り、本当の神を(おお)い隠している。こよいはその仕組みを思いつめ、胸の(ともしび)の下で、(くさび)と縛りの線を結ぼうとした。結ばないうちに、次の震えが来た。


 巨人の腕が、もう一度上がる。

 そのとき、黒い粒がぱらぱらと降った。

 水じゃない。

 粒が落ちた場所から、音が遅れる。落ちた石の表面が白く変わった。凍ったのではない。止まったのだ。石の上の水膜(すいまく)が動かなくなり、雨粒がその上で弾けずに沈む。


 久遠(くおん)が歯を食いしばった。


 「停止の種だ。……落ちた順に、(ことわり)が凍る」


 止まった場所が増えるほど、逃げ場が狭くなる。こよいの足元に一つ落ちかけた黒い粒を、あさひが縄を引いて避けさせた。縄が腰に食い込み、痛みで足が動く。痛みがなければ、避けられなかった。

 狭くなった隙間の中で、三人は背中を合わせた。


 あさひが縄を張り直し、こよいの腰を支える。


 「中心へ行けるのは、おまえだけだ」


 こよいは息を吸った。

 雨と(こけ)の匂いが肺に入って、すぐ冷える。

 中心。あの黒い一点。(くさび)が刺さっている場所。そこまで行って、(くさび)を抜く。風の(くさび)を抜いたときと同じだ。でも、今度は水の巨人がいる。巨人の腕が振り下ろされるたびに、止まる場所が増える。


 「……行く」


 言い切ると、怖さが形になりそうで、こよいは続けて息を吐いた。

 吐いた分だけ、胸の(ともしび)が整う。

 怖い。でも、怖いまま行く。怖さがなくなるのを待っていたら、足元が全部止まる。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を押さえ、わずかに首を振って合図した。


 「次の振り下ろし。その一瞬だけ、道ができる」


 振り下ろしの直後、巨人の腕は戻る。戻る間に中心が開く。開いた道は一瞬で、次の振り下ろしが来る前に辿り着かなければ、止まる。


 あさひが背を低くし、こよいを影に入れる。


 「縄は離すな。引いたら戻れ」


 こよいは頷き、縄を握り直した。麻のざらつきが(てのひら)に刺さる。ざらつきが手の震えを止めてくれる。

 久遠(くおん)が巨人の腕の軌道と、停止の種の落ちる間隔を同時に数えている。数える目が義眼(ぎがん)(ふち)を押さえ、声にならない計算を続けている。

 巾着(きんちゃく)の中で、三柱(みはしら)が同時に脈を打った。月が冷え、風が息を吸い、硝子(びいどろ)が光を集めた。


 巨人の腕が高く上がった。

 雨音が遠のく。

 硝子(びいどろ)の神が、薄い光の欠片(かけら)を一つだけ前へ投げた。

 風の神が息を吐き、(きり)を薄く裂く。


 久遠(くおん)が短く言う。


 「次だ」


 こよいは頷き、息の数をそろえた。

 足の裏の硬さだけを確かめる。

 次の一瞬に、全部を乗せる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ