第092話 楔に触れる手
腕が振り下ろされる、その直前の薄い間に、風の神が霧を一息で裂き、硝子の神が光の欠片を一段深く投げた。
こよいはその欠片の上へ足を置き、置いた瞬間に抜く。
水膜が吸いつく抵抗に逆らわず、抵抗が生まれる前に重心だけを先へ渡す。
縄が腰を引き、あさひが背中で盾を作り、久遠が義眼で「落ちる場所」を読んで、声にならない合図を送る。
落ちる水は音を立てないのに、圧だけが先に降りる。
圧が降りた場所から、霧が薄い膜みたいに裂け、雨粒の軌道が一瞬だけ見え、次の瞬間にはまた消える。
こよいは消える前の一瞬を足裏へ焼き付け、石の硬さと水の冷えを同じ呼吸の中で数え、数え終える前に身体を滑らせた。
「いま」
「……行け」
短い声の間に、こよいの呼吸が一つ入った。
水の巨人の腕が落ちる。
落ちた水が砕け、黒い粒が散り、散った粒が空気の動きを奪う。
その奪われる前の細い隙間へ、こよいは身体を滑り込ませた。
肩が水飛沫に触れ、触れた場所だけ冷えが深く入り込み、皮膚が薄く硬くなる。
泥ではなく石の上を走る足音が、遅れて耳へ返り、その遅れに引かれないよう、こよいは息を吐いてから足を置いた。
黒い一点は、近づくほど冷たかった。
冷たいのに、触れる前から皮膚が熱を持つ。
熱は痛みの前触れで、痛みはまだ来ていないのに、指先が勝手に縮む。
こよいは縮みそうな指を開き、巾着を胸で押さえ、雨の神へ向けて声を作る。
水面は動かない。
動かないのに、指先の汗だけが先に冷え、掌の内側がかさつく。
乾いた感覚と濡れた空気がぶつかり、喉がひきつる。
こよいはそのひきつきを「怖い」と呼びそうになり、呼ぶ代わりに、膝の裏の筋を意識して、身体を静かに落とした。
「雨の神さま。……触るね」
言い訳みたいな言葉だった。
それでも言わずに触れれば、こよいの方が壊れる気がした。
こよいは片膝をつき、濡れた石の冷えが膝へ刺さるのを受け止め、指先を黒い影へ伸ばす。
影は水の下にあるのに、指先の方が先に凍る。
凍ったまま、触れた。
触れた瞬間、雨の音が一段遠のいた。
遠のいた代わりに、縄が擦れる音と、自分の心臓の音が大きくなる。
大きくなる音を、こよいは邪魔だと思い、邪魔だと思ったことに驚いて、もう一度息を吐いた。
吐いた息が冷たいのに、口の中だけが熱い。
硬い。
石でも鉄でもない硬さで、触れた瞬間、指先から腕、肩、胸へ冷えが走り、胸の灯が一息で暗くなる。
次いで熱が追いかけてきて、皮膚の内側が焼けるように痛み、痛みの奥で、雨の匂いが一段甘くなった。
こよいは歯を食いしばり、声が漏れそうになるのを喉の奥で噛み、代わりに、指を離さない。
指の腹が痺れ、感覚が薄くなるのに、楔の輪郭だけは妙にくっきりと触れる。
ざらり、とした冷えが爪の根へ入り、爪が浮き、浮いた隙間に痛みが差し込む。
痛みは鋭いのに、泣きたい気持ちは遅れてくる。
遅れてくる間の方が怖くて、こよいは泣かないまま、ただ触れていることに集中した。
黒い楔は、ただ刺さっているのではなく、周りの水を縫い止めていた。
動こうとする流れを止め、止めた分だけ静けさを増やし、増えた静けさで怒りを育てる。
こよいはその仕組みを、指先の痛みで理解した。
痛みの中に、雨の神の記憶が混じる。
縫い目は見えない。
けれど、指先の奥で、細い糸が何本も引かれている感覚がある。
糸は水の流れへ刺さり、刺さった先で時間を止め、止めた時間の重みで水を押し潰す。
押し潰された水が怒りの形を取り、怒りの形が外へ出る。
こよいはその循環に息が詰まり、詰まりそうな息を、縄の張りでどうにか保った。
暗い谷の底。
長い季節。
呼ばれて降り、感謝され、次に忘れられ、静けさの中で楔が刺さる。
刺さる瞬間、雨は止まり、止まった水面の上に怒りだけが浮く。
こよいはその映像を見た気がして、見た気がするだけで涙が出た。
涙が雨と混じって冷え、頬の筋が分からなくなる。
焚き火の匂い。
濡れた米の匂い。
掌を合わせる人の温度。
雨が降るたびに笑い、乾いた季節には見上げ、祈りを結んで帰っていく。
次の季節、その祈りが途切れ、代わりに白い布が森を踏み、濡れた地面に硬いものを打ち込む。
打ち込むときの音は雨に消え、消えた代わりに、雨そのものが沈黙する。
雨が沈黙したあとに残るのは、怒りの濁りと、誰にも届かない静けさだけだった。
「……離すな」
あさひの声が背後から落ち、縄が短く張った。
こよいの腰が引かれ、身体が楔に近づきすぎないよう支えられる。
久遠は義眼を押さえ、震える指で光の欠片を水面へ落とし、巨人の腕の注意を一瞬だけ逸らした。
水の巨人の内側の細い流れが揺れ、怒りの形が遅れる。
その遅れの間に、こよいは両手で楔を掴んだ。
布越しでは足りない。
皮膚で触れないと引けない。
こよいは指の腹を押しつけ、ざらりとした冷えに爪が浮くのを感じ、息を吐いてから、引いた。
引くたび、指の皮が裂けそうになる。
裂ける前に、楔がこちらの温度を吸い、吸われた分だけ指先が白くなる。
白くなるのに、痛みだけは赤いままで、こよいはその赤さを、まだ戻れる印だと思い込んだ。
動かない。
動かないのに、痛みだけが増える。
増える痛みの奥で、雨の神の気配が小さく震え、震えが「やめて」ではなく「続けて」に似ているのを、こよいは感じた。
こよいはもう一度息を吸い、吸った息を胸の奥へ溜め、引く手に体重を預けた。
楔が、きぃ、と鳴いた気がした。
音は空気ではなく骨に響き、こよいの歯の根が震える。
黒い一点の周囲の水が一瞬だけ渦を巻き、渦が広がる前に止まる。
その止まり方が、ほどける前触れに見えた。
水の巨人の腕が、怒りの形のまま一瞬だけ遅れた。
遅れの奥で、細い流れが震え、震えが「痛い」ではなく「届いた」に似ている。
こよいは震えに答えるように、もう一度、両手に体重を乗せた。
楔が、ほんの紙一枚ぶん、浮いた。
浮いたのか、こちらの指が削られたのか分からないほど僅かな変化だったのに、池の空気が一段軽くなり、遅れていた雨音がほんの少しだけ近づいた。
近づいた雨音に混じって、底の方から、水が動こうとして止められる音がした。
こよいはその音に耳を澄ませ、動こうとしているのが怒りではなく、閉じ込められていた流れだと感じた。
あさひが縄をさらに短く張り、こよいの腰を支える。
支えられると、楔へ体重を預けられる。
預けると、痛みが増える。
こよいは痛みの増え方で、動いている、と確かめた。
指先の皮が裂け、雨がそこへ染みて、冷たいのに熱い。
こよいは声を出さず、歯の根を噛み、呼吸の数だけで自分をつなぐ。
久遠が義眼を押さえたまま、硝子の光を水面へ落とした。
水の巨人の怒りの腕がそちらへ引かれ、引かれた分だけ、楔の周りの渦が一瞬、ほどける。
ほどけた隙間へ、こよいは指を深く入れた。
ざらり、と冷えが骨へ刺さり、刺さったところで、胸の奥に、声にならない「やっと」が落ちた。
こよいはその「やっと」を握り、もう一度引いた。
楔はまだ抜けない。
抜けないのに、確かに戻ろうとしている水の温度が、指先の奥で脈を打った。
あと少し。
こよいはそう思い、思った瞬間に怖さが戻ってくるのを押さえ、怖さごと楔を掴み直した。
指先が震えても、離さない。
水の巨人の腕が戻ってくる気配がした。
戻ってくる前に、こよいは楔の根元へ体重を落とし、抜ける瞬間の音を待つ。
雨の音が近づいた。
近づいた雨の中で、静けさだけが最後まで抵抗していた。




