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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第092話 楔に触れる手

挿絵(By みてみん)


腕が振り下ろされる、その直前の薄い間に、風の神が(きり)を一息で裂き、硝子(びいどろ)の神が光の欠片(かけら)を一段深く投げた。

 こよいはその欠片(かけら)の上へ足を置き、置いた瞬間に抜く。

 水膜(すいまく)が吸いつく抵抗に逆らわず、抵抗が生まれる前に重心だけを先へ渡す。

 縄が腰を引き、あさひが背中で盾を作り、久遠(くおん)義眼(ぎがん)で「落ちる場所」を読んで、声にならない合図を送る。


 落ちる水は音を立てないのに、圧だけが先に降りる。

 圧が降りた場所から、(きり)が薄い(まく)みたいに裂け、雨粒の軌道が一瞬だけ見え、次の瞬間にはまた消える。

 こよいは消える前の一瞬を足裏へ焼き付け、石の硬さと水の冷えを同じ呼吸の中で数え、数え終える前に身体を滑らせた。


 「いま」


 「……行け」


 短い声の間に、こよいの呼吸が一つ入った。

 水の巨人の腕が落ちる。

 落ちた水が砕け、黒い粒が散り、散った粒が空気の動きを奪う。

 その奪われる前の細い隙間へ、こよいは身体を滑り込ませた。


 肩が水飛沫(しぶき)に触れ、触れた場所だけ冷えが深く入り込み、皮膚が薄く硬くなる。

 泥ではなく石の上を走る足音が、遅れて耳へ返り、その遅れに引かれないよう、こよいは息を吐いてから足を置いた。

 黒い一点は、近づくほど冷たかった。

 冷たいのに、触れる前から皮膚が熱を持つ。


 熱は痛みの前触れで、痛みはまだ来ていないのに、指先が勝手に縮む。

 こよいは縮みそうな指を開き、巾着(きんちゃく)を胸で押さえ、雨の神へ向けて声を作る。

 水面は動かない。

 動かないのに、指先の汗だけが先に冷え、(てのひら)の内側がかさつく。


 乾いた感覚と濡れた空気がぶつかり、喉がひきつる。

 こよいはそのひきつきを「怖い」と呼びそうになり、呼ぶ代わりに、(ひざ)の裏の筋を意識して、身体を静かに落とした。


 「雨の神さま。……触るね」


 言い訳みたいな言葉だった。

 それでも言わずに触れれば、こよいの方が壊れる気がした。

 こよいは片膝(かたひざ)をつき、濡れた石の冷えが(ひざ)へ刺さるのを受け止め、指先を黒い影へ伸ばす。

 影は水の下にあるのに、指先の方が先に凍る。


 凍ったまま、触れた。

 触れた瞬間、雨の音が一段遠のいた。

 遠のいた代わりに、縄が擦れる音と、自分の心臓の音が大きくなる。

 大きくなる音を、こよいは邪魔だと思い、邪魔だと思ったことに驚いて、もう一度息を吐いた。


 吐いた息が冷たいのに、口の中だけが熱い。

 硬い。

 石でも鉄でもない硬さで、触れた瞬間、指先から腕、肩、胸へ冷えが走り、胸の(ともしび)が一息で暗くなる。

 次いで熱が追いかけてきて、皮膚の内側が焼けるように痛み、痛みの奥で、雨の匂いが一段甘くなった。


 こよいは歯を食いしばり、声が漏れそうになるのを喉の奥で噛み、代わりに、指を離さない。

 指の腹が(しび)れ、感覚が薄くなるのに、(くさび)輪郭(りんかく)だけは妙にくっきりと触れる。

 ざらり、とした冷えが爪の根へ入り、爪が浮き、浮いた隙間に痛みが差し込む。

 痛みは鋭いのに、泣きたい気持ちは遅れてくる。


 遅れてくる間の方が怖くて、こよいは泣かないまま、ただ触れていることに集中した。

 黒い(くさび)は、ただ刺さっているのではなく、周りの水を縫い止めていた。

 動こうとする流れを止め、止めた分だけ静けさを増やし、増えた静けさで怒りを育てる。

 こよいはその仕組みを、指先の痛みで理解した。


 痛みの中に、雨の神の記憶が混じる。

 縫い目は見えない。

 けれど、指先の奥で、細い糸が何本も引かれている感覚がある。

 糸は水の流れへ刺さり、刺さった先で時間を止め、止めた時間の重みで水を押し潰す。


 押し潰された水が怒りの形を取り、怒りの形が外へ出る。

 こよいはその循環に息が詰まり、詰まりそうな息を、縄の張りでどうにか保った。

 暗い谷の底。

 長い季節。


 呼ばれて降り、感謝され、次に忘れられ、静けさの中で(くさび)が刺さる。

 刺さる瞬間、雨は止まり、止まった水面の上に怒りだけが浮く。

 こよいはその映像を見た気がして、見た気がするだけで涙が出た。

 涙が雨と混じって冷え、頬の筋が分からなくなる。


 焚き火の匂い。

 濡れた米の匂い。

 (てのひら)を合わせる人の温度。

 雨が降るたびに笑い、乾いた季節には見上げ、祈りを結んで帰っていく。


 次の季節、その祈りが途切れ、代わりに白い布が森を踏み、濡れた地面に硬いものを打ち込む。

 打ち込むときの音は雨に消え、消えた代わりに、雨そのものが沈黙する。

 雨が沈黙したあとに残るのは、怒りの濁りと、誰にも届かない静けさだけだった。


 「……離すな」


 あさひの声が背後から落ち、縄が短く張った。

 こよいの腰が引かれ、身体が(くさび)に近づきすぎないよう支えられる。

 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を押さえ、震える指で光の欠片(かけら)を水面へ落とし、巨人の腕の注意を一瞬だけ逸らした。

 水の巨人の内側の細い流れが揺れ、怒りの形が遅れる。


 その遅れの間に、こよいは両手で(くさび)(つか)んだ。

 布越しでは足りない。

 皮膚で触れないと引けない。

 こよいは指の腹を押しつけ、ざらりとした冷えに爪が浮くのを感じ、息を吐いてから、引いた。


 引くたび、指の皮が裂けそうになる。

 裂ける前に、(くさび)がこちらの温度を吸い、吸われた分だけ指先が白くなる。

 白くなるのに、痛みだけは赤いままで、こよいはその赤さを、まだ戻れる印だと思い込んだ。

 動かない。


 動かないのに、痛みだけが増える。

 増える痛みの奥で、雨の神の気配が小さく震え、震えが「やめて」ではなく「続けて」に似ているのを、こよいは感じた。

 こよいはもう一度息を吸い、吸った息を胸の奥へ()め、引く手に体重を預けた。

 (くさび)が、きぃ、と鳴いた気がした。


 音は空気ではなく骨に響き、こよいの歯の根が震える。

 黒い一点の周囲の水が一瞬だけ(うず)を巻き、(うず)が広がる前に止まる。

 その止まり方が、ほどける前触れに見えた。

 水の巨人の腕が、怒りの形のまま一瞬だけ遅れた。


 遅れの奥で、細い流れが震え、震えが「痛い」ではなく「届いた」に似ている。

 こよいは震えに答えるように、もう一度、両手に体重を乗せた。

 (くさび)が、ほんの紙一枚ぶん、浮いた。

 浮いたのか、こちらの指が削られたのか分からないほど僅かな変化だったのに、池の空気が一段軽くなり、遅れていた雨音がほんの少しだけ近づいた。


 近づいた雨音に混じって、底の方から、水が動こうとして止められる音がした。

 こよいはその音に耳を澄ませ、動こうとしているのが怒りではなく、閉じ込められていた流れだと感じた。

 あさひが縄をさらに短く張り、こよいの腰を支える。

 支えられると、(くさび)へ体重を預けられる。


 預けると、痛みが増える。

 こよいは痛みの増え方で、動いている、と確かめた。

 指先の皮が裂け、雨がそこへ染みて、冷たいのに熱い。

 こよいは声を出さず、歯の根を噛み、呼吸の数だけで自分をつなぐ。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を押さえたまま、硝子(びいどろ)の光を水面へ落とした。

 水の巨人の怒りの腕がそちらへ引かれ、引かれた分だけ、(くさび)の周りの(うず)が一瞬、ほどける。

 ほどけた隙間へ、こよいは指を深く入れた。

 ざらり、と冷えが骨へ刺さり、刺さったところで、胸の奥に、声にならない「やっと」が落ちた。


 こよいはその「やっと」を握り、もう一度引いた。

 (くさび)はまだ抜けない。

 抜けないのに、確かに戻ろうとしている水の温度が、指先の奥で脈を打った。

 あと少し。


 こよいはそう思い、思った瞬間に怖さが戻ってくるのを押さえ、怖さごと(くさび)(つか)み直した。

 指先が震えても、離さない。

 水の巨人の腕が戻ってくる気配がした。

 戻ってくる前に、こよいは(くさび)の根元へ体重を落とし、抜ける瞬間の音を待つ。


 雨の音が近づいた。

 近づいた雨の中で、静けさだけが最後まで抵抗していた。

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