第090話 動かない水面
水面の静けさに近づくほど、雨の音だけが遠くなった。
こよいは足元の石の冷たさを拾い、石の間からにじむ黒い水が指先の温度を吸うのを確かめながら、縄の張りを一つずつ辿る。
雨粒は頬を叩くのに、水面の上では跳ね返らず、落ちた場所だけが暗く沈む。
沈む音が遅れて返り、その遅れが胸の奥の鼓動と噛み合うたび、こよいの呼吸は勝手に短くなる。
あさひの背は動かない。
久遠の義眼が水面の奥を見て、痛みをこらえるように瞬きを減らした。
池の縁の石は滑りやすく、踏みしめると薄い水膜が吸いついて、遅れて離れる。
こよいはその遅れに引っぱられないよう足首を固め、衣の袖で指先の冷えを揉み消した。
縄の湿りは重いのに、引かれる感覚だけは鋭く、ひとつでも合図を落とせば、この静けさに飲まれると分かっていた。
「触れるな。見えるものほど罠だ」
「……でも、行かないと」
あさひの息が一つだけ深くなった。
縄が濡れて重くなる。
「行く。……でも、剣は抜くな」
久遠が短く頷き、義眼の縁を押さえた。
「中心だけを見る。余計なものは捨てろ」
こよいの返事は小さく、雨に混じって消えた。
水面は動かないのに、そこから立つ湿り気だけが、皮膚の上を撫でてくる。
冷たいはずなのに、どこか温かく、胸の内側だけが先に熱を持つ。
その熱が恐怖なのか、雨の神の気配なのか、判別する前に、巾着の奥で月の神が淡く光った。
こよいは巾着に触れ、布越しの温度を確かめる。
温い。
けれど、その温さの下に、凍るような冷えが隠れている。
境目が見えないということは、どこからが縛りで、どこまでが神なのかも、見分けがつかないということだ。
こよいは胸の灯を小さくし、息を数え、怖さだけが前へ出ないように喉の奥で押さえた。
月の光は水面へ落ちず、水際の石の縁で止まる。
硝子の神がその止まった光を受け取り、砕いた光の欠片として前へ投げると、黒い水の上に薄い道が浮いた。
道は橋ではなく、呼吸の幅くらいの細さで、雨粒が落ちるたびに消えそうになり、消える前にまた生まれる。
光の欠片は水面の上で震え、雨粒が触れた瞬間だけ濁り、次の瞬間に澄む。
澄むたび、こよいの目の奥へ冷たい白さが刺さり、刺さった白さが、足を置くべき位置を一瞬だけ決める。
風の神が息を吹くと霧が揺れ、硝子の欠片も揺れる。
揺れた分だけ道はずれる。
こよいはずれを見ず、縄の張りと自分の足裏の硬さだけを信じ、光が消える前に、足先の重みを置いては引いた。
『……踏んで。重く置かないで。水は、いま、怒ってる』
巾着の奥から届く声は、冷えた雫が胸へ落ちるみたいに静かだった。
こよいは言われた通り、足を置くというより、触れてすぐ抜くように重心を渡した。
濡れた草履の底が水膜に吸いつき、遅れて離れる、その一瞬の抵抗が怖い。
吸いついたまま引けば、静けさに引かれる。
だから、引く前に息を吐き、吐き終えるより先に足を抜く。
呼吸のタイミングまで、ここでは縛りになる。
あさひは前へ出るとき、縄をわずかに緩めて、こよいが自分で立てる余白を残す。
余白があるから、こよいは転ばずに済む。
けれど余白があるせいで、怖さも入ってくる。
こよいは怖さを入れないために、目を半分だけ伏せ、光の欠片だけを追った。
久遠は後ろで、足音が同じ位置に重ならぬよう間合いをずらし、義眼の痛みに眉を寄せながらも、触れてはいけない場所を、沈黙の角度で知らせ続けた。
水面の上に、温度の違う筋があった。
雨の冷えが届かず、指先を近づけると、薄い湯気のようなものが上がる。
そこだけ水の匂いが甘い。
甘さは人の甘さではなく、岩の奥に溜まった水が、長い時間を抱えたまま息を吐く匂いだった。
こよいは胸の灯を小さくしながら、その筋の上を選ぶ。
硝子の神が下から、こちら、と押す。
押される感覚は冷たいのに、押された先は温い。
その矛盾が、雨の神の近さを示していた。
風の神が霧を押すが、霧は池の上だけ薄く震えて戻る。
戻るとき、霧の表面が一瞬だけひきつり、見えない壁があることが分かる。
池の中心へ近づくほど空気が重くなって、息が短くなる。
吐いた息が戻ってこない。
戻ってこない息の分だけ、胸の中に溜まる圧が増え、こよいは肋を少し内側へ締めて、灯が揺れないように守った。
「……ここに、刺さってる」
久遠が呟いた。
義眼の縁が赤く滲み、声がかすれる。
それでも指先は迷わず、黒い水の一点を指した。
そこだけ、雨粒が沈む音が硬い。
水面が動かないのに、底の硬さだけが返事をする。
こよいは足を止め、巾着を胸に抱え、布越しの温度を確かめた。
温い。
けれど、その温さの下に、凍るような冷えが隠れている。
黒い一点の下には、細い影がある。
釘のように真っ直ぐで、周りの水より黒い。
影の周囲だけ水が微かに渦を巻き、渦は広がらず、すぐ戻って止まる。
止まる動きが何度も繰り返され、止まるたび、池の静けさが厚くなる。
こよいは喉の奥で唾液を飲み込み、湿った空気の重さに負けないよう、肩を落とした。
久遠の義眼がその影に合わせて微かに震え、影の手前で指が止まる。
視えているのは影そのものではなく、刺さったものが奪っている時間の穴だと言わんばかりに、久遠の唇がわずかに歪んだ。
こよいはその歪みを見て、胸の灯をさらに小さくし、怖さの熱を外へ漏らさぬように息を整えた。
あさひは剣の柄に手を置き、抜かずに構えた。
抜けば水が反応する。
反応すれば、怒りが立つ。
こよいはそれを分かっていて、分かっているのに、足裏が勝手に一歩分だけ前へ滑りそうになるのを、縄の張りで止めた。
縄が腰へ食い込み、結び目の痛みが一瞬だけ強くなる。
その痛みが、まだここが地面だと教える。
こよいは痛みに合わせて呼吸を整え、光の欠片が消える前に、足先の重みを引き戻した。
底の影が水を押し上げるように、水面がゆっくりと持ち上がった。
輪も波も作らず、ただ黒い塊が膨らみ、雨粒を飲み込んだまま高さだけを増していく。
増す高さに合わせて空気の重さも増し、耳の奥で雨音が遠のいて、代わりに、深い水の底から響くような低い唸りが生まれた。
こよいは息を吸い、吐く息を喉の奥で止め、縄の張りに身を預けた。
水面の奥で、怒りが目を開く気配がした。
黒い塊の表面が、布のように滑り、腕の形に寄っていく。
指の輪郭ができる前に、こよいは胸の灯を押さえた。
怖さを先に出せば、怒りがそれに寄ってくる。
寄ってきた怒りは、雨の神ではなく、縛りの怒りだ。
こよいはそう思い、巾着に触れ、月の冷たい光を喉の奥へ通した。
雨粒が頬を叩く。
叩かれているのに、涙の熱が分からない。
水の腕の内側に、もう一本、細い流れが見えた。
腕そのものは怒りの形をしているのに、その内側を流れる水だけは、助けを求めるように震えている。
こよいはその震えに耳を澄ませ、怒りの奥に隠れた「誰か」を探した。
怒りが全部ではない。
怒りの下に、縛られて動けない静けさがある。
水の腕が持ち上がり、池の中心の黒い一点を守るように、ゆっくりと三人の方へ向いた。
指の形ができるたび、霧が薄く鳴り、雨粒がその周りで一瞬だけ止まって見えた。
止まった雨はすぐ落ちるのに、落ちるまでの間が長く、こよいはその長さに、楔の冷えを見た。
あさひが半歩前へ出て、こよいを背に隠すように肩をずらし、縄を短く張って動きを縛る。
久遠が短く息を吐き、義眼が一瞬だけ白く濁った。
黒い腕が迫った。
伸びるたび、池の静けさが厚くなり、呼吸の音まで遅れて返った。
逃げ場がない。
それでも、こよいはもう一歩、踏み出した。
腕の先が、雨粒を弾かずに届く距離に来ていた。




