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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第090話 動かない水面

挿絵(By みてみん)


水面の静けさに近づくほど、雨の音だけが遠くなった。

 こよいは足元の石の冷たさを拾い、石の間からにじむ黒い水が指先の温度を吸うのを確かめながら、縄の張りを一つずつ辿る。

 雨粒は頬を叩くのに、水面の上では跳ね返らず、落ちた場所だけが暗く沈む。

 沈む音が遅れて返り、その遅れが胸の奥の鼓動と噛み合うたび、こよいの呼吸は勝手に短くなる。


 あさひの背は動かない。

 久遠(くおん)義眼(ぎがん)が水面の奥を見て、痛みをこらえるように瞬きを減らした。

 池の縁の石は滑りやすく、踏みしめると薄い水膜(すいまく)が吸いついて、遅れて離れる。

 こよいはその遅れに引っぱられないよう足首を固め、衣の(そで)で指先の冷えを揉み消した。


 縄の湿りは重いのに、引かれる感覚だけは鋭く、ひとつでも合図を落とせば、この静けさに飲まれると分かっていた。


 「触れるな。見えるものほど(わな)だ」


 「……でも、行かないと」


 あさひの息が一つだけ深くなった。

 縄が濡れて重くなる。


 「行く。……でも、剣は抜くな」


 久遠(くおん)が短く頷き、義眼(ぎがん)(ふち)を押さえた。


 「中心だけを見る。余計なものは捨てろ」


 こよいの返事は小さく、雨に混じって消えた。

 水面は動かないのに、そこから立つ湿り気だけが、皮膚の上を撫でてくる。

 冷たいはずなのに、どこか温かく、胸の内側だけが先に熱を持つ。

 その熱が恐怖なのか、雨の神の気配なのか、判別する前に、巾着(きんちゃく)の奥で月の神が淡く光った。


 こよいは巾着(きんちゃく)に触れ、布越しの温度を確かめる。

 温い。

 けれど、その温さの下に、凍るような冷えが隠れている。


 境目が見えないということは、どこからが縛りで、どこまでが神なのかも、見分けがつかないということだ。

 こよいは胸の(ともしび)を小さくし、息を数え、怖さだけが前へ出ないように喉の奥で押さえた。

 月の光は水面へ落ちず、水際の石の(ふち)で止まる。

 硝子(びいどろ)の神がその止まった光を受け取り、砕いた光の欠片(かけら)として前へ投げると、黒い水の上に薄い道が浮いた。


 道は橋ではなく、呼吸の幅くらいの細さで、雨粒が落ちるたびに消えそうになり、消える前にまた生まれる。

 光の欠片(かけら)は水面の上で震え、雨粒が触れた瞬間だけ濁り、次の瞬間に澄む。

 澄むたび、こよいの目の奥へ冷たい白さが刺さり、刺さった白さが、足を置くべき位置を一瞬だけ決める。

 風の神が息を吹くと(きり)が揺れ、硝子(びいどろ)欠片(かけら)も揺れる。


 揺れた分だけ道はずれる。

 こよいはずれを見ず、縄の張りと自分の足裏の硬さだけを信じ、光が消える前に、足先の重みを置いては引いた。


 『……踏んで。重く置かないで。水は、いま、怒ってる』


 巾着(きんちゃく)の奥から届く声は、冷えた(しずく)が胸へ落ちるみたいに静かだった。

 こよいは言われた通り、足を置くというより、触れてすぐ抜くように重心を渡した。

 濡れた草履(ぞうり)の底が水膜(すいまく)に吸いつき、遅れて離れる、その一瞬の抵抗が怖い。

 吸いついたまま引けば、静けさに引かれる。


 だから、引く前に息を吐き、吐き終えるより先に足を抜く。

 呼吸のタイミングまで、ここでは縛りになる。

 あさひは前へ出るとき、縄をわずかに緩めて、こよいが自分で立てる余白を残す。

 余白があるから、こよいは転ばずに済む。


 けれど余白があるせいで、怖さも入ってくる。

 こよいは怖さを入れないために、目を半分だけ伏せ、光の欠片(かけら)だけを追った。

 久遠(くおん)は後ろで、足音が同じ位置に重ならぬよう間合いをずらし、義眼(ぎがん)の痛みに眉を寄せながらも、触れてはいけない場所を、沈黙の角度で知らせ続けた。

 水面の上に、温度の違う筋があった。


 雨の冷えが届かず、指先を近づけると、薄い湯気のようなものが上がる。

 そこだけ水の匂いが甘い。

 甘さは人の甘さではなく、岩の奥に()まった水が、長い時間を抱えたまま息を吐く匂いだった。

 こよいは胸の(ともしび)を小さくしながら、その筋の上を選ぶ。


 硝子(びいどろ)の神が下から、こちら、と押す。

 押される感覚は冷たいのに、押された先は温い。

 その矛盾が、雨の神の近さを示していた。

 風の神が(きり)を押すが、(きり)は池の上だけ薄く震えて戻る。


 戻るとき、(きり)の表面が一瞬だけひきつり、見えない壁があることが分かる。

 池の中心へ近づくほど空気が重くなって、息が短くなる。

 吐いた息が戻ってこない。

 戻ってこない息の分だけ、胸の中に()まる圧が増え、こよいは(あばら)を少し内側へ締めて、灯が揺れないように守った。


 「……ここに、刺さってる」


 久遠(くおん)(つぶや)いた。

 義眼(ぎがん)(ふち)が赤く(にじ)み、声がかすれる。

 それでも指先は迷わず、黒い水の一点を指した。

 そこだけ、雨粒が沈む音が硬い。


 水面が動かないのに、底の硬さだけが返事をする。

 こよいは足を止め、巾着(きんちゃく)を胸に抱え、布越しの温度を確かめた。

 温い。

 けれど、その温さの下に、凍るような冷えが隠れている。


 黒い一点の下には、細い影がある。

 釘のように真っ直ぐで、周りの水より黒い。

 影の周囲だけ水が微かに(うず)を巻き、(うず)は広がらず、すぐ戻って止まる。

 止まる動きが何度も繰り返され、止まるたび、池の静けさが厚くなる。


 こよいは喉の奥で唾液を飲み込み、湿った空気の重さに負けないよう、肩を落とした。

 久遠(くおん)義眼(ぎがん)がその影に合わせて微かに震え、影の手前で指が止まる。

 ()えているのは影そのものではなく、刺さったものが奪っている時間の穴だと言わんばかりに、久遠(くおん)の唇がわずかに(ゆが)んだ。

 こよいはその(ゆが)みを見て、胸の(ともしび)をさらに小さくし、怖さの熱を外へ漏らさぬように息を整えた。


 あさひは剣の(つか)に手を置き、抜かずに構えた。

 抜けば水が反応する。

 反応すれば、怒りが立つ。

 こよいはそれを分かっていて、分かっているのに、足裏が勝手に一歩分だけ前へ滑りそうになるのを、縄の張りで止めた。


 縄が腰へ食い込み、結び目の痛みが一瞬だけ強くなる。

 その痛みが、まだここが地面だと教える。

 こよいは痛みに合わせて呼吸を整え、光の欠片(かけら)が消える前に、足先の重みを引き戻した。

 底の影が水を押し上げるように、水面がゆっくりと持ち上がった。


 輪も波も作らず、ただ黒い塊が膨らみ、雨粒を飲み込んだまま高さだけを増していく。

 増す高さに合わせて空気の重さも増し、耳の奥で雨音が遠のいて、代わりに、深い水の底から響くような低い(うな)りが生まれた。

 こよいは息を吸い、吐く息を喉の奥で止め、縄の張りに身を預けた。

 水面の奥で、怒りが目を開く気配がした。


 黒い塊の表面が、布のように滑り、腕の形に寄っていく。

 指の輪郭(りんかく)ができる前に、こよいは胸の(ともしび)を押さえた。

 怖さを先に出せば、怒りがそれに寄ってくる。

 寄ってきた怒りは、雨の神ではなく、縛りの怒りだ。


 こよいはそう思い、巾着(きんちゃく)に触れ、月の冷たい光を喉の奥へ通した。

 雨粒が頬を叩く。

 叩かれているのに、涙の熱が分からない。

 水の腕の内側に、もう一本、細い流れが見えた。


 腕そのものは怒りの形をしているのに、その内側を流れる水だけは、助けを求めるように震えている。

 こよいはその震えに耳を澄ませ、怒りの奥に隠れた「誰か」を探した。

 怒りが全部ではない。

 怒りの下に、縛られて動けない静けさがある。


 水の腕が持ち上がり、池の中心の黒い一点を守るように、ゆっくりと三人の方へ向いた。

 指の形ができるたび、(きり)が薄く鳴り、雨粒がその周りで一瞬だけ止まって見えた。

 止まった雨はすぐ落ちるのに、落ちるまでの間が長く、こよいはその長さに、(くさび)の冷えを見た。

 あさひが半歩前へ出て、こよいを背に隠すように肩をずらし、縄を短く張って動きを縛る。


 久遠(くおん)が短く息を吐き、義眼(ぎがん)が一瞬だけ白く濁った。

 黒い腕が迫った。

 伸びるたび、池の静けさが厚くなり、呼吸の音まで遅れて返った。

 逃げ場がない。


 それでも、こよいはもう一歩、踏み出した。

 腕の先が、雨粒を弾かずに届く距離に来ていた。

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