第089話 繰り返す森
霧は白い壁ではなく、歩けば歩くほど内側から膨らむ布だった。
あさひの背中を追っているはずなのに、巨木の並びがふいに揃い、曲がった枝の角度まで同じに見えてくる。
足を上げて、置く。
置いたはずなのに、足裏の感触が同じ場所へ戻ってくる。
泥の柔らかさも、根の凹凸も、さっきと同じだった。記憶が嘘をついているのか、森が嘘をついているのか。こよいは息を吸い、巾着の結び目を確かめた。結び目の位置は変わっていない。変わっていないから、自分はまだ自分だ。
「……同じ場所だ」
こよいが言うと、あさひが苛立った声を出した。
「そんなはずはない。俺が数を刻んでる」
「刻んでるから、余計に分かる。……ずれてる」
数は進んでいる。足も動いている。なのに、景色が同じだ。数と景色が噛み合わない。噛み合わないことだけが確かで、確かなものがそれしかないのが怖い。
久遠が木の幹へ視線を滑らせた。
雨に濡れた皮の上に、短い傷が残っている。白い木肌が覗き、雨に洗われてもまだ消えていない。
「……印がある」
こよいの胸の奥が冷える。
さっき刻んだはずの場所に、戻されている。
少し先に、雷に割られたような岩があった。裂け目の角度まで同じで、岩肌を伝う水の筋まで同じだった。裂け目の縁に苔が張り、苔の色は暗い。暗いのに、雨粒が落ちると一瞬だけ光る。光った瞬間の角度まで、さっきと同じだった。
あさひの数が乱れ、久遠が義眼の縁を押さえた指に力を込める。
「……回ってる」
久遠が低く言った。
回されている。森そのものが、三人を同じ場所に押し戻している。進んでいるのに、進めない。歩いた距離が、霧の中で巻き取られている。
あさひの奥歯が鳴った。噛みしめた音が、雨の間に短く混じる。
「見えるものは捨てろ。温度と、重さと、音の沈み方だ」
こよいは草鞋の先で泥を押し、石の角を探った。
冷えが強い場所は水が深い。
冷えが遅れてくる場所は根が走っている。
視覚も記憶も信用できないなら、足裏の地図を作り直すしかない。
石の角を探す指先に泥の粒が入り込んだ。爪の間が冷たく、痛い。痛みで指の位置が分かる。こよいは痛みを手放さないまま、次の石を探した。
あさひは目を閉じ、足裏だけで前を選んだ。縄の張りが変わるたび、こよいの腰が引かれ、引かれた方向に重心を移す。目を使わない分、耳が開く。雨の音の中に、こよいは細い違いを拾い始めた。
あさひの歩幅がふいに変わった。惰けつではなく、地面の硬さが変わったことによる不整だった。こよいはその変化を足裏で拾い、耳を開いたまま、次の不整を待った。
巾着の奥が、かすかに揺れた。
『……止まってる。水が、上で止まってる』
硝子の神の声。
こよいの胸に、楔の感触がよぎる。
風を縛った石の冷たさ。あのときも、こうだった。動くはずのものが止められ、止められたものの怒りが場所を歪めていた。
「……縛りだ」
あさひが小さく吐き捨てた。
「雨が閉じ込められてるなら、怒るのも当然だ」
怒りの名前が分かると、恐怖の形が少し変わる。形が変われば、近づき方も変わる。
こよいは巾着を胸に押さえ、布越しの温もりを確かめた。風は息を潜め、月は冷たく光り、硝子は震えたまま道を探している。三柱が、こよいの呼吸に合わせて静かに脈を打っていた。
霧の白が少し薄くなる場所があった。
そこだけ雨の音が吸われ、代わりに、ぬるい湿り気が皮膚へまとわりつく。
湿り気の奥に、甘い腐りの匂いが混じる。水が長いこと動かずにいると、この匂いになる。井戸の底で忘れられた水の匂いだ。
久遠が指先で角度を示し、あさひが縄を強く引いた。
「行くぞ。……迷ってる暇はない」
「迷いを切るなら、いま」
こよいは息を吸い、三人の呼吸を合わせた。
下り坂は短く、急だった。
足を置くたび泥が吸い、抜くたび音が遅れて返る。遅れが大きくなるほど、下にあるものに近づいている。膝が泥に触れ、冷えが膝頭から太腿へ上がった。手を突いた場所の泥は柔らかく、指が深く沈む。沈んだ指先に、石ではない、滑らかな何かが触れた。
こよいは指を泥から引いた。引いたあとの窪みにぬるい水がにじみ、水はすぐに満ちて消えた。満ちた水は冷たくなく、そこだけ泥の色が薄かった。下のものが近い。こよいはその感触を手の甲に残したまま立ち上がった。
谷へ落ちるように下った先で、霧が一度、息を止めた。
木々が途切れ、黒い水面が広がっている。
雨は確かに降っているのに、水面は動かない。
雫が落ちても輪が生まれず、沈む音だけが遅れて返る。音が遅れるたび、こよいの鼓動も一拍遅れる気がして、呼吸が短くなった。
池の縁には小さな石が敷かれていた。石と石の隙間から黒い水がにじみ、水は冷たいのに、匂いだけが不思議に温い。雨の匂いの奥に、長く閉じ込められた水の匂いがある。
こよいは足を止め、草鞋の裏の冷えと胸の灯の震えを重ねた。
「……ここだ」
足元は泥ではなく、敷かれた石だった。
踏むとわずかに沈み、石の間から黒い水がにじむ。
こよいは膝を落とし、池の縁に手を置いた。冷たい石の表面に、微かな振動がある。振動は水から来ている。水は動いていないのに、震えている。動けないものが震えるのは、動きたいからだ。
振動の速さはこよいの鼓動の半分で、揺れ幅は変わらなかった。止まっているものが震えるのは、外から押されているからだ。こよいは手を石に置いたまま、その一定さを呼吸に刻み込んだ。
あさひが一歩前に出かけて、すぐ止まった。
「触れるな。……ここは境だ」
久遠の義眼が水面の奥を覗く。
蒼光が黒い水に入り、入った光が戻ってこない。飲まれたように消え、消えた場所だけが一瞬、深い藍色に沈んだ。
「入口だ。踏み外したら、止まる」
こよいは巾着を胸に抱え、頷いた。
静けさが、重い。
重いのに、その下に、確かに誰かがいる。
胸の灯が、それだけを伝えていた。




