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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第089話 繰り返す森

挿絵(By みてみん)


(きり)は白い壁ではなく、歩けば歩くほど内側から膨らむ布だった。

 あさひの背中を追っているはずなのに、巨木の並びがふいに揃い、曲がった枝の角度まで同じに見えてくる。

 足を上げて、置く。

 置いたはずなのに、足裏の感触が同じ場所へ戻ってくる。

 泥の柔らかさも、根の凹凸も、さっきと同じだった。記憶が嘘をついているのか、森が嘘をついているのか。こよいは息を吸い、巾着(きんちゃく)の結び目を確かめた。結び目の位置は変わっていない。変わっていないから、自分はまだ自分だ。


 「……同じ場所だ」


 こよいが言うと、あさひが苛立(いらだ)った声を出した。


 「そんなはずはない。俺が数を刻んでる」


 「刻んでるから、余計に分かる。……ずれてる」


 数は進んでいる。足も動いている。なのに、景色が同じだ。数と景色が噛み合わない。噛み合わないことだけが確かで、確かなものがそれしかないのが怖い。


 久遠(くおん)が木の幹へ視線を滑らせた。

 雨に濡れた皮の上に、短い傷が残っている。白い木肌が(のぞ)き、雨に洗われてもまだ消えていない。


 「……印がある」


 こよいの胸の奥が冷える。

 さっき刻んだはずの場所に、戻されている。

 少し先に、雷に割られたような岩があった。裂け目の角度まで同じで、岩肌を伝う水の筋まで同じだった。裂け目の(ふち)(こけ)が張り、(こけ)の色は暗い。暗いのに、雨粒が落ちると一瞬だけ光る。光った瞬間の角度まで、さっきと同じだった。


 あさひの数が乱れ、久遠(くおん)義眼(ぎがん)(ふち)を押さえた指に力を込める。


 「……回ってる」


 久遠(くおん)が低く言った。

 回されている。森そのものが、三人を同じ場所に押し戻している。進んでいるのに、進めない。歩いた距離が、(きり)の中で巻き取られている。

 あさひの奥歯が鳴った。噛みしめた音が、雨の間に短く混じる。


 「見えるものは捨てろ。温度と、重さと、音の沈み方だ」


 こよいは草鞋(わらじ)の先で泥を押し、石の角を探った。

 冷えが強い場所は水が深い。

 冷えが遅れてくる場所は根が走っている。

 視覚も記憶も信用できないなら、足裏の地図を作り直すしかない。

 石の角を探す指先に泥の粒が入り込んだ。爪の間が冷たく、痛い。痛みで指の位置が分かる。こよいは痛みを手放さないまま、次の石を探した。


 あさひは目を閉じ、足裏だけで前を選んだ。縄の張りが変わるたび、こよいの腰が引かれ、引かれた方向に重心を移す。目を使わない分、耳が開く。雨の音の中に、こよいは細い違いを拾い始めた。

 あさひの歩幅がふいに変わった。(たい)けつではなく、地面の硬さが変わったことによる不整だった。こよいはその変化を足裏で拾い、耳を開いたまま、次の不整を待った。


 巾着(きんちゃく)の奥が、かすかに揺れた。


 『……止まってる。水が、上で止まってる』


 硝子(びいどろ)の神の声。

 こよいの胸に、(くさび)の感触がよぎる。

 風を縛った石の冷たさ。あのときも、こうだった。動くはずのものが止められ、止められたものの怒りが場所を(ゆが)めていた。


 「……縛りだ」


 あさひが小さく吐き捨てた。


 「雨が閉じ込められてるなら、怒るのも当然だ」


 怒りの名前が分かると、恐怖の形が少し変わる。形が変われば、近づき方も変わる。

 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押さえ、布越しの温もりを確かめた。風は息を潜め、月は冷たく光り、硝子(びいどろ)は震えたまま道を探している。三柱(みはしら)が、こよいの呼吸に合わせて静かに脈を打っていた。


 (きり)の白が少し薄くなる場所があった。

 そこだけ雨の音が吸われ、代わりに、ぬるい湿り気が皮膚へまとわりつく。

 湿り気の奥に、甘い(くさ)りの匂いが混じる。水が長いこと動かずにいると、この匂いになる。井戸の底で忘れられた水の匂いだ。


 久遠(くおん)が指先で角度を示し、あさひが縄を強く引いた。


 「行くぞ。……迷ってる暇はない」


 「迷いを切るなら、いま」


 こよいは息を吸い、三人の呼吸を合わせた。

 下り坂は短く、急だった。

 足を置くたび泥が吸い、抜くたび音が遅れて返る。遅れが大きくなるほど、下にあるものに近づいている。(ひざ)が泥に触れ、冷えが膝頭(ひざがしら)から太腿(ふともも)へ上がった。手を突いた場所の泥は柔らかく、指が深く沈む。沈んだ指先に、石ではない、滑らかな何かが触れた。

 こよいは指を泥から引いた。引いたあとの(くぼ)みにぬるい水がにじみ、水はすぐに満ちて消えた。満ちた水は冷たくなく、そこだけ泥の色が薄かった。下のものが近い。こよいはその感触を手の甲に残したまま立ち上がった。


 谷へ落ちるように下った先で、(きり)が一度、息を止めた。


 木々が途切れ、黒い水面が広がっている。

 雨は確かに降っているのに、水面は動かない。

 (しずく)が落ちても輪が生まれず、沈む音だけが遅れて返る。音が遅れるたび、こよいの鼓動も一拍遅れる気がして、呼吸が短くなった。

 池の(ふち)には小さな石が敷かれていた。石と石の隙間から黒い水がにじみ、水は冷たいのに、匂いだけが不思議に温い。雨の匂いの奥に、長く閉じ込められた水の匂いがある。


 こよいは足を止め、草鞋(わらじ)の裏の冷えと胸の(ともしび)の震えを重ねた。


 「……ここだ」


 足元は泥ではなく、敷かれた石だった。

 踏むとわずかに沈み、石の間から黒い水がにじむ。

 こよいは(ひざ)を落とし、池の(ふち)に手を置いた。冷たい石の表面に、微かな振動がある。振動は水から来ている。水は動いていないのに、震えている。動けないものが震えるのは、動きたいからだ。

 振動の速さはこよいの鼓動の半分で、揺れ幅は変わらなかった。止まっているものが震えるのは、外から押されているからだ。こよいは手を石に置いたまま、その一定さを呼吸に刻み込んだ。


 あさひが一歩前に出かけて、すぐ止まった。


 「触れるな。……ここは(さかい)だ」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)が水面の奥を覗く。

 蒼光(そうこう)が黒い水に入り、入った光が戻ってこない。飲まれたように消え、消えた場所だけが一瞬、深い藍色(あいいろ)に沈んだ。


 「入口だ。踏み外したら、止まる」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱え、頷いた。

 静けさが、重い。

 重いのに、その下に、確かに誰かがいる。

 胸の(ともしび)が、それだけを伝えていた。

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