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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第088話 縄と数と刻み傷

挿絵(By みてみん)


黒い獣の気配が(きり)へ溶けたあとも、森は許したふりだけして、足元の(ことわり)を薄く薄く削っていた。

 獣の足跡が泥に残っている。深い(くぼ)みに雨水が溜まり、黒い小さな鏡になって空を映していた。映った空には色がなく、白い(きり)だけが続いている。

 こよいは足跡を避けて歩いた。踏めば何かが始まりそうで、避ける。避けた分だけ泥に沈み、草鞋(わらじ)の裏にまとわりつく重さが増した。


 あさひが縄を取り出し、こよいの腰へ回した。

 雨を吸った麻は重く、結び目が皮膚の上に冷たい円を作る。


 「離れるな」


 「うん。……結び目、覚えた」


 結び目の段差が腰骨に当たり、歩くたび小さく痛む。痛みがあるから、身体の位置が分かる。

 縄は三人を繋いでいた。あさひが先頭、こよいが真ん中、久遠(くおん)が最後尾。あさひが一歩進むたび縄が引かれ、引かれた分だけこよいの腰が前へ出る。後ろでは久遠(くおん)が張りを調整し、三人の間隔が崩れないよう保っている。

 縄の湿りは冷たいのに、引かれる感覚だけは温かかった。ここに繋がっているものがあるという安心が、冷えの中に残る。


 久遠(くおん)が前を見たまま言う。


 「()るな。足元は(わな)になる。縄の張りと、音を見ろ」


 こよいは頷き、結び目へ指を添えた。

 ざらつきがある。

 痛みがある。

 痛みがあるうちは、まだ戻れる。


 あさひが数を刻み始めた。


 「ひとつ……ふたつ……みっつ……」


 声は低く、雨に削られて細いのに消えない。消えないのは力があるからではなく、声を出し続けることがここでは道標(みちしるべ)だからだ。

 その声が雨に削られて細くなると、(きり)の白さが胸の内側へ入ってくる。

 数字がほどけそうになる。

 こよいも口の中で同じ数を繰り返した。

 息の幅をそろえ、足裏の硬さだけを探す。数が合っているうちは、まだ同じ場所にいる。


 久遠(くおん)は巨木へ小刀の先を当て、短い傷を刻んだ。

 刃が湿った皮に入ると、きゅ、と鳴って甘い樹の匂いが立つ。傷は浅いが、白い木肌が(のぞ)き、雨粒に洗われても完全には消えない。

 三本目の木に刻んだところで、久遠(くおん)は刃先の樹液を拭い、(ふところ)へ戻した。


 「……戻ったら、これを追う」


 「戻る?」


 こよいの声に、久遠(くおん)は答えない。

 答えないのが答えだった。

 戻る道が要るということは、進んだ先に戻れなくなる場所がある。こよいはその沈黙を飲み込み、結び目の痛みに意識を戻した。


 足首まで水がたまる場所があった。

 踏み込んだ瞬間、冷えが骨を噛んだ。

 草鞋(わらじ)(ひも)が冷たく締まり、体温を奪われる速度だけが異様に速い。足裏が石を踏んでいるのか根を踏んでいるのか、冷えのせいで判別がつかない。水は濁り、足元の形も色も分からなかった。


 「止まるな」


 あさひが縄を引く。

 引かれた腰が前へ出る。前へ出ると水が(ひざ)の下まで跳ね、着物の(すそ)が重くなった。

 こよいは石の列を月光で拾い、吸いつく水膜(すいまく)の抵抗に引かれないよう、置いて抜く。

 石を踏み外したのは一度だけだった。

 身体が横へ傾いた瞬間、視界が回り、(きり)の白が天地を失う。縄が腰へ食い込み、あさひが力任せに引き戻した。引き戻された衝撃が(あばら)に来て、息を無理やり押し戻された。


 久遠(くおん)の手が背中に当たり、声になる前の息が喉の奥で止まった。

 (てのひら)の温度は低いのに、触れた場所だけが確かで、確かさが身体の軸を戻す。


 「大丈夫?」


 「……うん。まだ歩ける」


 水から上がると、足の裏がふやけていた。感覚が遠い。遠いのに、巾着(きんちゃく)の重みだけは胸の上で変わらない。


 巾着(きんちゃく)の底で、硝子(びいどろ)の神がかすかに震えた。


 『……こっち。ここは、まだ、ながれてる』


 声というより、冷えた指先で胸の(ともしび)をそっと撫でられたような合図。

 流れている。まだ、ここは水が動いている。

 「まだ」が重い。流れていない場所が、この先にある。

 こよいは一度だけ立ち止まり、雨と(こけ)の匂いを吸って吐いた。

 吐く息の温度がすぐ(きり)に奪われる。


 進んだはずなのに、同じ角度の枝がまた頬をかすめた。

 同じ形の根が、足元を横切った。


 「……同じ森を、踏んでる」


 こよいは目を閉じた。似た枝を見分けようとするほど、森の形に捕まる。ならば形を捨てる。腰の縄を握り、あさひの引く向きではなく、雨音のわずかな違いを選ぶことにした。

 右は葉を打つ音が近い。左は土へ沈む音が深い。正面だけ、落ちた(しずく)の返事が遅れている。


 「次は、まっすぐ。音が沈む方へ」


 あさひの数が一拍だけ遅れた。遅れを取り戻すように、次の数を強く刻む。声に怒りが混じった。森に向いているのか、自分に向いているのか。

 久遠(くおん)の背がわずかに硬くなり、小刀を握る手が白い。さっき刻んだ傷を探しているのだ。まだ見つからない。見つからないのが、答えだった。


 こよいは雨の音の底を探った。

 ある一点だけ、叩く響きが薄い。

 足音を落としても返りが遅れる。

 音が遅れるのは、そこに空間があるからだ。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)(ふち)を押さえ、指先で角度を示した。


 「……下だ」


 巾着(きんちゃく)の奥が、わずかに温い。

 温いのに、胸の(ともしび)が小さく震える。

 温もりと震えが同時に来るのは、近いからだ。何かに近づいている。


 『……におい。みずの、ふるい、におい……』


 硝子(びいどろ)の神の声が細く揺れた。

 古い水の匂い。長いこと動かずに溜まっていた水が吐く匂いだ。

 噂の「動かない湖」。


 こよいは巾着(きんちゃく)を押さえた。


 「雨の神……そこにいるの?」


 返事はない。

 でも、流れない水の匂いがした。雨が落ちているのに、水面の返事だけが聞こえない匂い。古い水が、長い時間を抱えたまま息を止めている。

 鼻の奥がぬるく湿り、舌の裏に鉄の味が薄く残った。


 あさひが縄を強く引いた。引きに合わせて、こよいの腰の結び目がきつく締まる。


 「揃えろ。……迷うな」


 久遠(くおん)が短く言う。


 「迷うな。足を止めた分だけ、戻される」


 こよいは頷き、呼吸を同じ幅に切りそろえた。

 止まった水の匂いが、少しずつ近づいてくる。

 近づくほど、空気が重い。重い空気の中を、雨だけが変わらず落ちてくる。

 その雨音を頼りに、こよいは一歩、もう一歩と、匂いの源へ足を運んだ。

 胸の(ともしび)が、静かに応えた。

 消えない。

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