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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第087話 獣の赤い目

挿絵(By みてみん)


霧の奥から、低い唸(うな)りが続いていた。

 雨音に紛れない。

 腹の底を擦る息の音で、聞くだけで喉が乾く。

 唸(うな)りは一つじゃなく、重なっている気がした。


 大きいものが一度息を吐き、その吐息が森の湿りにぶつかって、遅れて返ってくる。

 返りが来るたび、胸の灯(ともしび)が小さく跳ね、跳ねた熱がすぐ冷えに押し戻される。

 こよいは足を止め、巾着(きんちゃく)を胸へ押さえた。

 濡れた布の冷えが皮膚に貼りつき、結び目の段差が指に当たって痛い。


 その痛みで、いま自分がここにいることだけは分かった。

 指先は痺(しび)れ、掌(てのひら)の中で巾着(きんちゃく)が重い。

 重いのに、放せない。

 匂いが来る。


 湿った毛皮。

 泥と獣臭が混じり、鼻の奥へ重く残る。

 雨の匂いのはずなのに、鉄の苦さが舌に張りつき、喉の奥がざらつく。

 霧(きり)の粒が肌にまとわりつき、頬が冷たいのに、息だけが生ぬるく戻ってくる。


 吐いた息が笠(かさ)の内側で一度溜まり、ぬるい膜(まく)になって頬へ触れ、その膜(まく)がすぐ冷える。

 冷えると、呼吸が浅くなる。

 浅くなると、唸(うな)りがもっと近くなる気がした。

 次の瞬間、枝が割れた。


 影が出る。

 黒い塊が、雨を滝みたいに落としながら歩いてくる。

 角はない。

 けれど肩が高く、背が厚い。


 鹿(しか)にも猪(いのしし)にも見えるのに、目だけが赤い。

 赤い目が霧(きり)の中で揺れず、こちらを捉える。

 眼に見つめられるというより、座標(ざひょう)を測られている感じがした。

 足が踏み込まれるたび、泥が沈み、地面が一拍遅れて震えた。


 震えが靴底から脛(すね)へ上がり、骨の奥で止まる。

 止まった震えが腹へ回り、胃が少しだけ浮く。

 獣の背に張りついた泥が鎧(よろい)みたいに盛り上がり、そこを雨が流れて細い筋を作る。

 その筋が、血の跡に見えて、こよいは目を逸らしかけた。


 あさひが前へ出る。

 声は低く、短い。

 踏み込む足の置き方が変わり、泥に沈まない場所だけを選ぶ。

 剣はまだ抜かない。


 抜かないのに、柄(つか)に置いた指の関節が白い。


 「俺が引きつける。こよい、影から出るな」


 こよいは「うん」とだけ返し、あさひの背へ身を寄せた。

 背中の熱は雨に削られて薄い。

 薄いのに、その薄さがありがたい。

 熱があるというだけで、ここがまだ人の場所だと分かる。


 こよいは息を一度吐き、吐いた息が白くなって消えるのを見ないようにした。

 見たら、消えるほうへ引っ張られそうだった。

 久遠(くおん)は一歩下がり、硝子(ガラス)の目を細めた。

 盤は出さない。


 ここでは見えるものが多すぎる。

 雨粒の反射の中で、硝子(びいどろ)が一度だけ青く瞬(まばた)く。

 瞬(まばた)いた光が霧(きり)の粒に砕け、こよいの視界の端で小さな輪になって揺れた。

 輪はすぐ消える。


 消えるのに、消えた場所だけが気になる。

 久遠(くおん)の呼吸が短くなり、肩が一拍だけ上下する。

 痛みを押し殺す呼吸だ。


 「……繋がってる」


 久遠(くおん)の声が少しだけ掠(かす)れた。

 こよいは喉の奥で息を整え、巾着(きんちゃく)の硬さを押さえる。

 結び目の段差が爪に当たり、痛みで指の位置が戻る。

 風は息を潜め、月は冷え、硝子(びいどろ)は震えたまま黙る。


 黙るのは怖い。

 けれど黙れるのは、まだ息があるからだ。

 獣が鼻を鳴らした。

 吐いた息が白く広がり、霧(きり)が一段濃くなる。


 その息の奥に、怒りが混じっている。

 獣の怒りじゃない。

 外から押し込まれた怒りだ。

 それに、怖さもある。


 自分の身体が自分のものじゃない怖さ。

 歯を剥(む)くたびに、喉の奥で何かが引きつっているのが見える気がして、こよいは胸が痛んだ。

 痛いのに、目が離せない。


 「雨の神の意志が流れ込んでる。……深い。切れば楽だが、切るほど荒れる」


 久遠(くおん)が言う。

 あさひは剣を抜いたまま黙り、こよいの返事を待っている気配だけを出した。

 剣先が雨を切り、落ちた雫(しずく)が泥へ吸われるまでの間が長い。

 長いのに、音が薄い。


 薄い音が続くほど、ここが境い目の中だと分かる。

 こよいは獣の赤い目を見た。

 見られている。

 けれど、見返せる距離にいる。


 逃げたい。

 逃げたら、雨の神のところへ届かない。

 こよいは唇を濡らし、鉄の味を飲み込んでから、声を出した。

 声を出す前に、息を吸う。


 吸うと胸が冷える。

 冷えた胸のまま、吐く息に言葉を乗せる。


 「……怖いよね。本当は、こんなことしたくない」


 声は雨に削られる。

 削られるのに、届くところまで届けばいい。

 こよいは両手を胸の前で握り、近づかない。

 触れない。


 触れれば、獣は驚いて暴れる。

 だから距離で寄り添う。

 手のひらには巾着(きんちゃく)の布の湿りが残っていて、その湿りが少しずつ冷えていく。

 冷える前に、もう一つ言う。


 「ぼくたちは敵じゃない。君を苦しめるものを、ほどきに来た」


 巾着(きんちゃく)の中で月が微かに光った。

 光は薄い輪郭(りんかく)だけを作り、獣の影を縁取る。

 硝子(びいどろ)の神が雨粒の光を拾って返し、赤い目の光だけを弱める。

 風が一息だけ動き、霧(きり)の筋が少し割れた。


 獣が足を止めた。

 止めた瞬間、泥の上の水が揺れ、次に静かになる。

 赤い目が一度だけ瞬(まばた)き、瞬(まばた)きの間に、赤じゃない何かが見えた気がした。

 疲れた目。


 眠れない目。

 唇の端が震え、獣の喉がごくりと鳴った。

 鳴った音が、雨より近い。

 近いからこそ、ここに「心」が残っているのが分かる。


 あさひが剣先を少し下げる。

 下げても構えは崩さない。

 久遠(くおん)が息を吐き、こよいはそれに合わせて吐く。

 呼吸の拍が揃うと、胸の灯(ともしび)が少しだけ落ち着いた。


 「……お願い。あの子のところへ行かせて」


 こよいが言うと、獣は低く唸(うな)り、首を振った。

 否定じゃない。

 迷いの揺れだ。

 次の瞬間、獣の鼻先がゆっくり森の奥を向いた。


 地面の匂いを深く吸い、雨と泥の中から「道」を嗅ぎ分ける。

 鼻先が止まった方角は、雷の低い気配が集まっている場所だった。

 獣はそのまま横へ退いた。

 進路を開けるみたいに。


 退くとき、泥が深く沈み、沈んだ音が遅れて返った。

 獣が遠ざかるだけで、霧(きり)の流れが少しだけ戻る。

 去り際、こよいを一度だけ見た。

 赤い目の奥の赤が薄くなり、そこに残ったのは疲れだった。


 こよいはその疲れを胸に置き、息を吐いた。

 倒すべき敵じゃない。

 迷いの中で縛られている番人だ。

 だから、ほどく。


 あさひがこよいの肩へ掌(てのひら)を置く。

 濡れた手の温度が短く残る。

 温度が消える前に、こよいは頷いた。


 「行けるな」


 こよいは頷いた。

 久遠(くおん)も短く頷く。

 三人は獣が示した方へ足を向けた。

 雨はまだ落ちる。


 霧(きり)もまだ濃い。

 けれど、いまは「道」がある。

 こよいは巾着(きんちゃく)を抱え直し、結び目の硬さで手を落ち着かせてから、泥を踏んで一歩進んだ。

 獣が去ったあとの地面には、深い足跡が残っていた。


 足跡の縁に雨水が溜まり、黒い小さな池になる。

 池の表面が時々だけ震える。

 風が戻ったというほどじゃない。

 けれど、震えがあるというだけで、さっきまでの止まりかけた世界よりはましだった。


 こよいは足跡を避けて歩く。

 避けながらも、足跡の「向き」だけは見失わない。

 向きが分かれば、迷いが少しだけ薄くなる。

 あさひは息を整え、剣を鞘(さや)へ戻さないまま歩いた。


 柄(つか)を握る手の節が白く、雨で滑るのを嫌って何度も握り直す。

 久遠(くおん)は硝子(ガラス)の目で霧(きり)の粒を追い、霧(きり)が不自然に溜まる場所を避ける。

 溜まる場所には、理(ことわり)の綻(ほころ)びがある。

 綻(ほころ)びは足を取る。


 こよいは二人の動きに合わせ、呼吸を小さく保った。

 吐く息の白が見えるときは、見えないふりをする。

 見えたら、自分が消えるみたいだから。

 巾着(きんちゃく)の中で、硝子(びいどろ)の神がようやく息を吐いた。


 小さく、震える息だ。

 月の冷えが掌(てのひら)へ回り、風が背中を軽く撫でる。

 撫でるだけの風は、まだ弱い。

 弱いから、守れる。


 こよいはその弱さを胸に置き、雨の神のいる方角へ、もう一歩だけ重心を預けた。

 胸の灯(ともしび)が、静かに応えた。

 消えない。

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