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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第084話 壊れた森の奥

挿絵(By みてみん)


森の雨は、音の層が多かった。

 広い葉を叩く乾いた音、幹を伝って落ちる湿った音、腐葉土(ふようど)へ吸われる重い音。

 それらが重なっているのに、なぜか耳は空いたままで、自分たちの足音だけが浮く。

 こよいは縄の張りに身を預け、泥を踏む感触を確かめながら進んだ。


 泥は冷たく、踏むと吸いつき、抜くときだけ「ずぶ」と音がする。

 音のない歩き方はできない。

 だから音を小さくする。

 あさひは前を行き、低い声で数を数え続けた。


 数は呼吸の合図で、歩幅の合図で、迷いの刃を少しだけ鈍らせる。


 「一、二……三」


 こよいはその数に息を合わせた。

 吸って、吐いて、次の足場へ置く。

 置く、と心の中で言う。

 踏み込まない。


 泥に捕まったときは縄を頼る。

 縄が腰を引き、身体が戻る。

 戻る感覚があるだけで、胸の(ともしび)は消えにくくなる。

 盤は出さない。

 出しても星は見えない。

 代わりに、雨粒の落ち方と霧の流れを見ている。

 霧は木の間を通るはずなのに、時々、同じ場所へ()まって動かなくなる。


 動かない霧は、固定(こてい)された水の匂いがした。


 「……同じ木が増えてる」


 久遠(くおん)がぽつりと言う。

 こよいは思わず横を見た。

 太い幹。

 (こけ)の筋。


 折れた枝。

 さっき見た形に似ている。

 似ているだけかもしれない。

 けれど、似ているという感覚が怖い。


 怖いから、目を逸らす。

 逸らして、足元へ戻す。

 雨の匂いはまだ鉄の苦さを残している。

 舌に渋い味が張りつく。


 口を動かすと唇が裂けそうで、こよいは一度、舌先で唇を濡らした。

 濡らしたところへ風が当たり、ちりっと痛む。

 寒さじゃない痛みは、まだ動ける証みたいで、こよいはその痛みを捨てずに持っていく。

 足元の水が増えた。


 小さな水たまりが続き、踏むたび「ぴちゃ」と浅い音がする。

 音が浅いのはいい。

 深くなると、底が見えなくなる。

 見えない底は、迷いと同じだ。


 『……ここ、ねむってる……』


 月の神の声が、巾着(きんちゃく)の奥で震えた。

 眠っている。

 動かない(ことわり)

 こよいは巾着(きんちゃく)を押さえ、結び目の段差を指でなぞる。


 段差の硬さが、意識を縫い留める。


 「迷わない。……迷っても、戻る」


 こよいは自分に言い聞かせた。

 言葉にすると、胸の(ともしび)が少しだけ安定する。

 あさひの数が続く。

 久遠(くおん)の足音が続く。


 縄の擦れる音が続く。

 それらが続くかぎり、道も続く。

 けれど、森は優しくない。

 枝葉に()まっていた大粒の(しずく)が、突然、首筋へ落ちた。


 氷みたいな冷たさが背骨を走り、こよいは肩をすくめる。

 声は出さない。

 出せば呼吸が乱れる。

 乱れた呼吸は、(きり)(つか)まれる。


 雷が鳴り、光が一瞬だけ幹を白くした。

 その刹那に見えた先の景色は、さっきと同じようで、少し違う。

 違いが分からないのが、いちばん怖い。

 こよいは縄の張りを確かめ、前に引かれる力に身を預けた。


 「止まるな」


 あさひの声が短く飛ぶ。

 こよいは頷き、足を置いた。

 置いた足の下で、腐葉土(ふようど)が柔らかく沈む。

 沈む感触が遅れて返り、体の重さが一拍ずれる。


 ずれを縄で戻し、戻った分だけ息を整える。

 雨の音はまだ多い。

 けれど、その音のどこかで、風が一度だけ止まった気がした。

 止まったのは一瞬だった。


 けれど一瞬で十分だった。

 葉の揺れが消え、霧の流れが止まり、雨粒が真っ直ぐ落ちた。

 横から叩いていたはずの雨が、いまは定規で引いた線みたいに落ちる。

 こよいはその変化に喉が乾き、唾を飲んだ。


 飲んだ音が、やけに大きく聞こえる。

 あさひの数も、そこで途切れた。


 「……境い目だ」


 久遠(くおん)が言った。

 こよいは足元を見た。

 泥の上に落ちた葉が、風に動かない。


 落ちたばかりの雨粒が、跳ねる前に吸われる。

 吸われるのに、水の匂いが薄い。

 湿っているのに、どこか乾いた感じがする。

 (ことわり)が、きれいに拭かれてしまったみたいだった。


 あさひが縄を短く手繰り、こよいの位置を確かめる。

 縄のけばが濡れて重く、(てのひら)の皮に貼りついた。


 「何がある」


 「固定(こてい)の匂いが濃い。……ここから先は、道そのものが嘘になる」


 久遠(くおん)の声は淡い。

 淡いのに、刃がある。

 こよいは巾着(きんちゃく)を抱え、結び目の硬さを押さえた。

 胸の(ともしび)が小さく熱を持ち、すぐ冷えに押される。


 その押し返しが、いま自分が生きている証みたいで、こよいは息を吐いた。

 少し進むと、木の間に石が立っているのが見えた。

 人の背より高い石柱で、表面は(こけ)に覆われ、雨で黒く光っている。

 近づくほど冷気が濃くなり、頬の皮膚が引きつった。


 こよいが指で触れると、石は芯まで冷たく、ざらりと砂の感触が残った。

 (こけ)の湿りが指の腹に移り、そこだけ温度が変わる。

 石柱の根元には、古い縄の切れ端があった。

 紙片も、折れた枝も、泥に埋もれている。


 誰かがここを「境」として扱っていた(あと)だ。

 こよいは短く手を合わせた。

 祈りは長くできない。

 長くすれば、迷いが入り込む。


 「……経蔵(きょうぞう)は、この先だ」


 あさひが低く言った。

 声はいつもより硬い。

 久遠(くおん)は石柱の向こうを見たまま頷く。


 「近い。けど、簡単じゃない」


 こよいは巾着(きんちゃく)に指を添え、神々の気配を確かめた。

 月は冷えたまま震え、風は息を潜め、硝子(びいどろ)は小さく鳴く。

 怖さが胸に()まる。

 ()まるけれど、足は止まらない。


 止まれば、道が消える。


 「行こう」


 言うと、声が雨に薄く溶けた。

 あさひが一歩先へ出る。

 久遠(くおん)が最後尾で縄の張りを保つ。

 こよいは石柱を越えた。


 越えた瞬間、自分の足音が、さっきより一段大きく聞こえた。

 世界が静かになったわけじゃない。

 自分が、世界の中で目立つようになっただけだ。

 その先の森は、息が詰まるほど整っていた。


 雨粒は落ち続けるのに、枝はほとんど揺れない。

 葉の表も裏も同じ角度で濡れていて、光が薄く反射する。

 (きり)はあるのに流れず、濡れた空気がそこに貼りついたまま動かない。

 こよいは一歩進むたび、肩口が冷えるのに、なぜか汗だけが引かないことに気づいた。


 冷えと熱が同じ場所で擦れて、身体が落ち着かない。


 「聞こえるか」


 あさひが小さく聞いた。

 こよいは耳を澄ませる。

 川の音は遠くなった。

 雨の音は近い。


 けれど、そのどちらとも違う低い(うな)りが、どこかにある。

 (うな)りは森そのものの喉の奥から出ているみたいで、方向が掴めない。

 久遠(くおん)が首を振った。


 「音じゃない。……(ゆが)みだ。こっちを向いてる」


 こよいの背中に、見えない視線が触れた気がした。

 悪意だけじゃない。

 何かを測る、冷たい手。

 こよいは巾着(きんちゃく)を抱え、結び目の硬さで自分を縫い留める。


 風が息を潜め、月が冷え、硝子(びいどろ)が小さく鳴く。

 三つが怖れているのが分かる。

 怖れているのに、逃げようとしない。

 こよいはその気配に合わせるように、息を短く、静かに整えた。


 雨はまだ落ちる。

 落ちるたび、音が薄い。

 薄い音が続くほど、次の何かが近い。

 こよいは手の甲で頬を拭った。


 濡れた(そで)が肌に貼りつき、冷えが残る。

 鼻の奥で雷の匂いがするのに、風は動かない。

 雨粒が一つ、葉の先で膨らみ、重くなってから落ちた。

 落ちるまでの間が長い。


 長いのに、誰もそれを待っていない。

 待つ余裕がない。

 あさひがまた数を数えようとして、やめた。

 数がここでは役に立たないのが分かったからだ。


 こよいは縄の張りだけを頼りにし、土の冷えを足裏で確かめた。

 次の一歩の先で、空気がさらに固くなる。

 そこが、もっと深い境い目だと、肌が先に知ってしまう。

 胸の(ともしび)が一度だけ熱くなり、すぐ静かに収まった。


 消えない。

 まだ歩ける。

 雨が降っている限り、道はある。

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