第085話 風の封じられた地
突如として、風が消えた。
胸の灯が一瞬だけ熱く鳴り、すぐに静まった。
まだ歩ける。
風が止んだと分かったのは、雨粒が真っ直ぐ垂直に落ち始めたからだ。
横殴りに頬を叩いていた粒が、定規で引いた線のように世界を寸断している。
周囲の葉も枝も、一ミリの揺らぎも見せず固定されていた。
霧さえ流動を止めている。
耳に残るのは、雨粒が腐葉土を叩く「と、と……」という単調な音だけだ。
こよいは足を止めた。吸い込む空気が重い。
「……大気の密度が跳ね上がってやがる。見えない壁の中に押し込められたみたいだ」
濡れた着物が肩に張り付き、体温を奪っていく。
鼻腔の奥には焦げたような渋みがこびりつき、舌には鉄錆の味が残った。
「息が……うまく入ってこない」
声は霧に飲まれ、小さく響いた。
巾着の中で、風の神が苦しげな悲鳴を上げた。いつもなら軽やかに舞っている気配が、いまは微動だにしない。
こよいは巾着を布越しに強く押さえた。月の神の冷え、ビードロの震え、風の神の溜息が、掌の上でぶつかり合っている。
『……おもい。……なにもかもが、おもい。……せかいが、だれかのてで、ぬいとめられている……』
こよいは声に出さず、息の中に祈りを込めた。
「……ここにいるよ。手は離さない」
風の神が微かに身じろぎし、遠い記憶を慈しむように笑った。
『……むかしは、このやまみちが、ぜんぶ、わたしのうただったの。……きぎをゆらして、とりたちといっしょに、どこまでもとおくへ……』
弱々しい笑い声だったが、神としての矜持が火種のように残っていた。
こよいは巾着を抱きかかえた。三柱の気配が絡み合い、この重い空気の中でもこよいを支えてくれている。
あさひが剣を試すように振った。風の抵抗がない。
布の端切れを掲げても、垂れ下がったまま動かなかった。
「……琥珀の中に閉じ込められたみたいだ。時間が止まっている」
久遠の硝子の左目が、周囲の歪みを追っている。
「境だ。風だけを抹消する境界線が引かれている」
「……抜けられる?」
久遠は短く頷いた。
「綻びを探す。生きた神を縛る術式には、必ず誤差がある」
久遠は左目を指先で押さえ、呼吸を浅くした。痛みを押し殺す呼吸だ。
こよいは一歩近づき、その背中の斜め後ろに寄り添った。
久遠の肩が一拍上がるたびに、こよいは自分の呼吸を一拍遅らせて吐いた。呼吸の乱れに引きずられないように。
雨の間隔が数学的に揃っていく中、久遠の指先は小さく震えていた。見えすぎるということは、世界の真実を魂に叩き込まれるということだ。
こよいはわざと深く息を吸い、胸の灯を呼び覚ました。この静止した世界の中で、自分の動きを刻み続けなければならない。
森のさらに奥。
暗がりの中に、一本の石柱が直立していた。雨水を吸って黒光りし、根元には割れた器の欠片と古い縄の切れ端が転がっている。
石柱には古いお札が何重にも巻き付けられていた。滲んだ墨の端に、「風」という一文字だけが辛うじて読める。
紙は雨水でふやけているのに、剥がれ落ちない。数百年もの間、誰かの願いが鎖としてここに留まり続けていた。
こよいが石の表面をなぞると、芯まで凍りついている。その冷えは、巾着の中で苦しむ風の神の温度と同じだった。
柱の前だけ、雨の軌道が残酷なほど整列している。揃いすぎた規則性は、生きた何かを閉じ込めている証だった。
あさひが奥歯を噛み締めた。
「……観測者の仕掛けか? こんな昔から神様を縛ってたのか」
久遠は首を振った。
「違う。人間だ。暮らしを守るために、神の自由を畏れて石に閉じ込めた」
祈りだったはずのものが、年月の果てに鎖になった。あの空き祠と同じ悲劇だ。
善意の残骸が、時間に磨かれて刃になっている。
あさひが剣の柄を鳴らした。
「斬るか? この石柱ごと粉砕してやってもいいぜ」
こよいは首を振った。
「……だめ。無理に壊したら、閉じ込められてた悲しみが、新しい呪いになる」
自分の声で、胸の灯が落ち着きを取り戻した。
こよいは巾着に凍えた指をかけ、風の神へ意識を伸ばした。
「……お願い。ここを越えるための、君の息を貸して」
風の神が低く唸った。弱々しいが、本物の神の音だ。
こよいはその拍動に呼吸を合わせ、すべてを吐き出した。
闇の中で、たった一枚の枯れ葉が揺れた。
垂直に落ちていた雨粒が、一瞬だけ斜めに流れた。
空間がゴムの壁のように三人を押し返してきた。
あさひが半歩前に踏み出し、体で壁を押し開く。久遠が背後からこよいの背中を支えた。
こよいは奥歯を噛み締め、一ミリずつ前へ進んだ。指先は冷えで麻痺し、巾着を手放しそうになる。痛みだけを頼りに、腕に力を込め直した。
ぱちん、と耳の奥で膜が弾けた。
肺に空気が流れ込む。冷たいのに、軽い。
髪の先がほんの少し揺れた。止まっていた世界が、再び動き出している。
戻ってきた風は弱々しかった。けれど、その弱さが今は愛おしい。傷ついた者の頬を撫でるためだけの、神聖な溜息。
こよいは濁った息を吐き切り、新しい空気を深く吸い込んだ。喉にこびりついていた鉄錆の味が、僅かに薄れた。
「……いける。道は拓けた。駆け抜けよう」
三人は石柱の横をすり抜けた。
風は戻った。けれど森の声はまだ沈黙している。鳥も虫も、この暗闇には届かない。
雨だけが銀の糸となって降り続け、雷の気配が一歩ごとに近づいてくる。
巾着の奥で、風の神が安心したように小さく鳴いた。苦しみの芯が、一度だけ軽くなった気がした。
久遠が無言でこよいの真横に寄り、あさひは前方の闇を見据えたまま歩き続けている。
風は戻った。理が、再び動き出した。
「行こう。……あの子が、向こう側でぼくたちを待っているんだ」




