第083話 浅瀬を越えて
川下へ進むほど、音が変わった。
気づけば、足も同じ調子で動いていた。
岩を殴る太い音が少し減り、かわりに砂利が擦れる細い音が混じり始める。
こよいはその違いを耳の奥で拾い、胸の灯が小さく熱を持つのを感じた。
浅い場所があるかもしれない。
雨は相変わらず降って、笠の縁から落ちた雫が顎を打つ。
顎を伝う水が襟へ落ち、首筋がひやりと冷えた。
冷たさが骨に届く前に、こよいは息を吐き、もう一度吸った。
吸い込む空気は湿って重く、喉を通ると鉄の味が残る。
あの橋の拒絶がまだ背中に残っていて、歩くたび肩が少し重い。
肩が重いのに、足だけは止まらない。
道は獣道みたいに細く、片足を置く場所を探して進む。
濡れた石は滑り、踏むと「かつ」と乾いた音がする。
乾いた音が増えるのは、地面が戻っている証だ。
けれど戻りきってはいない。
泥はまだ柔らかく、草鞋を吸って離さない。
抜くたび「ずぶ」と音がして、足が遅れる。
遅れた分だけ雨の冷えが追いつき、腿の内側がじわりと冷たくなる。
こよいは巾着を胸へ押さえ、結び目の段差を指で確かめる。
段差の硬さが、手の震えを止めてくれる。
久遠の歩く速さは一定で、あさひはその少し前で岩の角を拾い、危ない場所だけを避けていく。
久遠は時々、爪で木の皮を小さく削り、目印を残した。
湿った皮が指に貼りつき、冷たさだけが残る。
「……ここだ」
久遠が立ち止まり、川の縁を指さした。
霧の向こう側に、白い泡が薄く広がっている場所がある。
流れが一気に細くなる。
水の色も、ほんの少しだけ明るい。
久遠は足元の枝を拾い、先を折って川へ差し入れた。
枝先が押され、揺れ、けれど折れずに戻る。
流れが太い場所では枝はすぐ持っていかれるはずだ。
ここは、まだ耐えられる。
あさひが目を細める。
「浅瀬か。……踏めるか」
久遠は盤を出さずに、硝子の目だけで水面を追った。
雨粒が跳ねる位置、泡が溜まる位置、流れが引っかかる位置。
見えない線を見ている顔だった。
硝子の目が時々、青く瞬き、雨粒の向こうの奥行きまで測っているように見える。
「踏める。……ただし、底が動く。止まるな」
あさひは縄を取り出し、腰へ結ぶ。
濡れた縄が肌に貼りつき、冷えがそこから広がる。
久遠も同じように結ぶ。
こよいは最後に結び目を受け取り、指先で固さを確かめてから結んだ。
縄のけばが指に刺さり、痛みで感覚が戻る。
結ぶとき、指が滑ってほどけそうになり、こよいは歯を噛んで結び目を二度締めた。
解けたら終わる。
だから締める。
水際に立つと、冷気が足首を噛んだ。
流れの匂いは鉄の苦さを残し、舌の上が渋い。
こよいは草鞋の紐を締め直し、足裏の皮膚が湿ってふやけているのを感じた。
嫌な感触ほど、判断を誤らせる。
だからこそ確かめる。
掌に残る縄のけばの痛みも、いまは味方だ。
痛みがあるから、指がどこにあるか分かる。
あさひが先に入った。
水が膝へ跳ね、着物の裾が重くなる。
石を踏むたび、足元が「ずる」と動き、流れが足を引く。
あさひは重心を落とし、動く石には乗らず、沈む砂利を踏みしめる。
踏みしめるたび砂利が鳴り、その音が一拍遅れて返る。
久遠が後ろで縄の張りを保ち、揺れを小さく抑える。
縄が張るたび、腰骨に引きが伝わり、身体の位置が戻される。
戻される感覚があるから、恐怖が少しだけ薄くなる。
「こよい。置け。踏み込むな」
あさひの声は雨に削られた。
こよいは頷き、冷たい水へ足を入れた。
足首が一瞬で痺れる。
水の冷えが骨へ届く前に、次の石へ足を置く。
置く。
踏み込まない。
流れの力を受けて、身体がずれる。
縄が腰を引き、戻す。
戻されたとき、巾着の結び目が肋に当たり、硬さが痛みに変わった。
痛みで息が浅くなるのを感じ、こよいは意識して長く吐く。
吐けば、次が吸える。
巾着の中で風が鳴いた。
背中が軽くなる。
月の冷えが掌へ回り、硝子が震えながら息を整える。
三つの気配が重なって、こよいの呼吸の拍に寄り添ってきた。
『……いま。ここ、ふれる……』
硝子の神の声が細く届く。
触れている。
怒りの水に触れている。
こよいは唇を噛み、足を止めない。
止めれば、流れが勝つ。
中ほどで一度、足元が抜けた。
砂利が崩れ、冷たい水が膝へ食い込む。
こよいの喉が鳴り、息が乱れた。
水が着物の内側へ入り、腿の皮膚を直接冷やす。
けれど縄が張り、あさひが腕を伸ばして引いた。
濡れた布越しに伝わる熱は短い。
それでも、その短さで十分だった。
こよいは足を置き直し、崩れた砂利のかわりに、沈んでいる石の角を探す。
角は冷たく硬く、触れた瞬間に安心が来る。
「大丈夫だ。前だけ見ろ」
こよいは「うん」とだけ返し、岸を見た。
対岸の土は黒く柔らかく、草が伏せている。
踏めば沈む。
けれど、いまはそこに上がるしかない。
最後の一歩で、泥が足首を掴んだ。
重い。
引くほど重い。
こよいは膝を折りそうになり、歯を噛んで足を抜く。
抜けた瞬間、泥が「ぬちゃ」と音を立て、冷たい塊が皮膚に残った。
こよいはその重さを振り払い、息を整える。
岸の内側は森だった。
雨に濡れた葉が光り、霧が木の間に溜まっている。
踏み入れた途端、匂いが変わった。
土と水の匂いに、焦げたみたいな渋さが混じる。
雨の音も変わる。
葉を叩く音が薄く、どこか遠い。
代わりに自分の足音だけが目立ち、世界の中で自分たちが浮いている気がした。
久遠は森の奥を見据え、動かないまま言った。
「……理が崩れてる匂いがする。ここから先は、迷う」
あさひが縄を握り直し、こよいの腰の結び目を確かめる。
縄は濡れて重い。
けれど、この重さが道標になる。
「離れるな。目が見えなくても、手で分かる距離にいろ」
こよいは頷き、巾着を押さえ直した。
霧は濃く、木の幹はどれも似ている。
それでも足元には、まだ土の感触がある。
土の冷え、縄のけば、結び目の硬さ。
その三つを数えながら、こよいは森へ一歩、踏み入れた。
踏み入れた途端、音が薄くなった。
雨は降っているのに、葉を叩く音が遠い。
かわりに、自分たちの足が泥を押す音と、縄が擦れる音だけが近い。
息を吸うと、腐葉土の湿った匂いの奥に、焦げた渋さが混じる。
喉の奥が乾き、舌に鉄の味が戻る。
こよいはその味に、観測者の暗い服と冷たい目を思い出してしまい、胸の灯を押さえるように巾着を抱えた。
木の幹はどれも太さが似ている。
枝の折れ方も似ている。
視線を少し逸らすだけで、さっき見た幹がまた出てくる気がする。
こよいは縄の張りに意識を置く。
あさひが一歩進むたび、腰の結び目が引かれ、引かれた分だけ自分も前へ出る。
久遠が後ろで張りを調整し、揺れが急にならないよう抑えているのが分かる。
『……ここ、いやな におい……』
硝子の神の声が、巾着の底でかすれる。
こよいは「大丈夫」と口の中でだけ返し、息を長く吐いた。
雨の神の気配はまだ遠い。
けれど、遠いからこそ迷いが来る。
迷いを切るために、こよいは足元を見た。
泥の上に落ちた葉は濡れて冷たく、踏むと音がしない。
その静けさが、いちばん怖かった。
あさひが小さく「一、二」と数を数え始めた。
声は低く、雨に溶けそうで、それでも縄の張りと一緒にこよいの耳へ届く。
数が続くあいだは、道が続く。
こよいはその声に呼吸を合わせ、巾着の重みを確かめながら、同じ一歩を繰り返した。
吐いた息が白くほどけ、霧に混じって消える。
消えるたびに、自分の輪郭をもう一度だけ確かめる。
胸の灯が小さく応えた。
消えない。




