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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第077話 忘れられた祠

挿絵(By みてみん)


月見台(つきみだい)の町を背にして二日。

 道は柔らかな土を失い、()き出しの岩肌に変わっていた。

 草鞋(わらじ)の底が尖った石に当たるたび、乾いた音が山肌に跳ねる。こよいは無意識に歩幅を小さくした。


 標高が上がるにつれ、空気は剃刀(かみそり)のように冷たくなった。息を吐くたびに白い筋が口元に残る。

 唇はひび割れ、鼻腔(びこう)の奥には腐葉土(ふようど)の匂いが満ちていた。


 朽ちた道標(みちしるべ)が一本、倒れかけて残されていた。

 墨の文字は風雨に(かす)れ、指先でなぞると(すす)のような汚れが皮膚に張り付いた。


 「経蔵(きょうぞう)へ三里」


 溝の奥に指先が落ち、湿った木の冷えが爪の端から()み渡って、こよいは弾かれたように手を引いた。

 指の汚れを袖口で拭い、腰の巾着(きんちゃく)を強く押さえた。

 布越しに、月の神の冷えがあり、風の神の軽やかさがあり、ビードロの硬質さがある。

 三柱(みはしら)の重みが、一歩ごとに腰骨のあたりで揺れた。


 「この山を越えれば盆地(ぼんち)が見える。日が落ちる前に(ふもと)へ着くぞ」


 久遠(くおん)は足を止めず、懐から地図を広げた。

 黄ばんだ紙の上を、硝子(ガラス)の左目が静かに追っている。

 あさひは最後尾で、背後の気配を測り続けていた。


 「……静かすぎる。山全体が息を止めている」


 (ささ)の葉が揺れても、鳥の羽ばたきは聞こえない。

 鼓膜に届くのは、草鞋(わらじ)が砂利を噛む音と、杉の枝を撫でる風の音だけだ。


 巾着(きんちゃく)の底で、ビードロが(おび)えるように小さく鳴った。

 こよいの胸が一瞬、温かくなる。助けた神様たちがまだここにいてくれる。その手応えだけが、凍てついた山の中でこよいを支える芯になっていた。


 「観測者(かんそくしゃ)の連中、全然追ってこないね。……もう諦めてくれたのかな」


 風の神が、巾着(きんちゃく)の中で「ヒュルル」と短く否定した。

 こよいは守り紐に指を添えた。月の神の冷えが、指先から胸へと落ちていく。


 背負子(しょいこ)(きし)む音が、静寂を叩き割った。

 (きり)の中から、腰の曲がった老人が現れた。柴束(しばたば)を背負い、濁った瞳で三人を見据えている。


 「……旅の衆か。命が惜しけりゃ、今すぐこの山を降りろ。土地の神々が、ひどく機嫌を損ねていなさる」


 「嵐が来るのか」


 老人は答えず、空を見上げた。節くれだった指を折って何かを数えている。

 風が一瞬、止んだ。


 「雨の神が泣き出せば、鳥は歌を忘れる。獣も穴から出なくなる。……この沈黙は、嵐の前触れじゃない。もっと根源的なものだ」


 それだけ言い捨てると、老人は(きり)の向こうへ消えた。

 煙草の()えた匂いだけが残った。


 三人は岩陰に身を潜め、瓢箪(ひょうたん)の水を分け合った。

 空の鉛色(なまりいろ)は一刻ごとに厚みを増している。

 水を一口飲むたび、巾着(きんちゃく)の奥で月の神が微かに震えた。風の神と同じリズムに呼吸を合わせようとする、健気(けなげ)な震えだった。


 「奴らが手を引くわけがない」


 久遠(くおん)は座らず、崖下の闇を見つめていた。


 「追跡はしない。先回りして網を張る。経蔵(きょうぞう)への道には神気の結節がいくつもある」


 「網……。じゃあ……」


 こよいの背筋に冷えが走った。

 胸の(ともしび)が警鐘のように一度だけ熱く脈打つ。


 そのとき、別の視線が肌に触れた。

 観測者(かんそくしゃ)の悪意ではない。もっと弱々しく、何かに(すが)るような悲しみを(たた)えた視線。


 「……ねえ。そこに、誰かいるの?」


 あさひの手が剣の(つか)にかかり、久遠(くおん)の星読みの盤がキチリと鳴った。

 だが杉林の奥にいたのは、黒い(こけ)に埋もれた小さな石の(ほこら)だった。


 屋根は崩れ、内側は空洞になっている。古い(すす)の跡だけが残り、柱に貼りついたお札の文字はもう読めない。

 こよいが膝をつくと、泥の冷たさが布越しに骨まで沁みた。


 石の表面に触れた。芯まで凍りついている。

 何十年、何百年と、誰にもその名を呼ばれなくなった時間が、この場所に(おり)のように溜まっていた。


 「なんだ、ただの空き家か。……神の抜け殻だな」


 あさひは警戒を解いた。

 けれど、こよいはその場を離れられなかった。空っぽのはずなのに、ここに確かに「いた」者の気配が残っている。


 「……神様。もう、どこかへ行ってしまったの?」


 巾着(きんちゃく)の奥で、ビードロが消え入りそうな声で答えた。


 『……いってしまったよ。もう、どこにも、いないの』


 『……なまえを、よばれなくなって。おもいだされなくなって。……さびしくて、きえてしまったの』


 こよいは喉の奥が痛くなった。

 敵に負けることより、誰にも知られず消えることの方が、遥かに恐ろしい。

 冷たい泥の上で両手を合わせた。


 足元の小石を一つ拾い、(ほこら)の内側にそっと置いた。

 ただの石でも、置いた瞬間だけは、ここに誰かがいた事実を覚えた印になる。


 「名を失い、記録を失うということは……こういうことか」


 あさひが低い声で言った。

 久遠(くおん)(ほこら)を見つめたまま答えた。


 「名だけじゃない。呼ぶ声と、残そうとする意志。両方が途切れた時、神は消える」


 「だから経蔵(きょうぞう)を目指す。正しい記録さえあれば、いつか誰かが名を呼び直せる」


 こよいはもう一度だけ頭を下げ、立ち上がった。

 空を覆う雲はどす黒く、山の稜線(りょうせん)を飲み込むように垂れ込めていた。


 「……行くぞ。日が暮れる」


 「うん。……行こう」


 久遠(くおん)が道端の折れた竹を拾い、(がけ)(ふち)に突き刺した。後から来る者のための、無言の道標(みちしるべ)

 何も語らずにそれを行うあたりが、いかにも彼らしかった。


 背後から湿った風が吹き抜けた。大気に雨の匂いが混じり始める。

 遠い山の向こうで雷鳴(らいめい)(とどろ)き、空気が一瞬、張り詰めた。


 腰の巾着(きんちゃく)の重みが、今は何よりも頼もしい。

 風が鳴り、月が冷え、硝子(びいどろ)が硬い返答を返す。三柱(みはしら)の鼓動を胸の(ともしび)で束ね、こよいは前だけを見据えた。

 この先にいかなる嵐が待とうとも、歩みが止まることは二度となかった。

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