第076話 新しい重み
山頂の広場に、音が戻ってきた。
赤い柱が消えたあとの空は思ったより暗く、月明かりが石畳を薄く白くしている。
耳の奥ではまだ小さな耳鳴りが残っていて、静かなぶん、それが余計に目立った。
焦げた匂いがまだ鼻に残り、風が遅れて吹いて、煤と湿った土の匂いを混ぜて下へ運んだ。
髪に落ちた灰が指先にざらりと触れ、払うと冷たい粒が夜へ散る。
どこかで小石が転がり、音が一度だけ跳ねて消えた。
こよいは息を吐いた。
吐いた白い息が、すぐ夜へ薄く散っていく。
胸の灯が小さく揺れて、それでも消えなかった。
「……本当に、終わったんだね」
膝が笑って、その場にへたり込んだ。
土の冷たさが布越しに膝へしみて、遅れて指先が痛む。
口の中に焦げの粉が残っていて、唾を飲むと喉がひりついた。
掌の中のビードロは、さっきまでの熱が嘘みたいに消えて、ただの硝子の硬さだけが残っている。
こよいはその丸みを確かめるように握り直し、巾着へ入れた。
結び目を引く指が小さく震えて、紐がきし、と鳴った気がした。
「大丈夫か、こよい」
あさひの声が近い。
肩に置かれた手は温かく、剣を握っていた硬さがそのまま残っていた。
血の匂いも混じっていて、戦いが終わったことを逆に思い出させる。
袖口が湿っていて、触れたところだけ冷える。
「……うん。立てる。ちょっと、腰が抜けただけ」
言いながら、息が震えた。
こよいは呼吸を整えようとして、喉の奥の乾きに気づく。
舌先が冷えて、言葉がひっかかる。
足先の感覚が鈍くて、わらじの中の小石がどこにあるのかも分からない。
目の前に、銀の光が浮いていた。
月の神だ。
球の輪郭は澄んでいて、近づくほど冷たい。
けれど中心には、火種みたいな小さな熱がある。
こよいが指先を伸ばすと、月の神は自分から寄ってきて、手のひらに触れた。
表面は硝子みたいに滑らかで、冷たいのに濡れない。
ひんやりした温度が皮膚を鎮め、同時に胸の灯が静かに脈打った。
『……ありがとう』
『……こわかった。あかいひかりが、わたしを削っていた』
「もう、大丈夫だよ」
こよいは月の神へ視線を置いたまま、短く息を吸った。
泣きそうになるのを喉の奥で押さえ、言葉を落とす。
「ここには、もう檻はない」
久遠が後ろで鼻を鳴らした。
星読みの盤を懐にしまい込み、指先で縁を一度だけ叩く。
その音は小さいのに、静かな山頂ではやけに響いた。
左目の硝子が月光を拾って一瞬光り、久遠はそれを隠すみたいに瞬きをした。
「礼はいらねえよ。俺はただ、あいつらの記録を汚したかっただけだ」
あさひが笑う気配がした。
笑いながらも、息が少し苦しそうだ。
「素直じゃない。……助かったのは事実だろ」
久遠は返事をしない。
けれど横顔の棘は、少しだけ丸くなっている。
こよいはそれを見て、巾着を握った。
布の中で、風の神が小さく回る気配がした。
「……神様。これから、どうしたい?」
月の神は迷わなかった。
冷たい光が、こよいの指をそっと撫でる。
『……いく。あなたたちと』
『……ここは、傷が深い。わたしの光だけじゃ、守れない』
『……また、くる。かんそくしゃは、きっと』
『……だから、あなたの道の光になりたい』
巾着が淡く光った。
風の神と、ビードロが、同じ場所で息を合わせるように鳴る。
『……おいで』
『……いっしょに』
「分かった。一緒に行こう」
こよいは巾着の口を開いた。
指先に触れる紐は冷たく、結び目の硬さが旅の癖になっている。
月の神はふわりと浮き、吸い込まれるみたいに巾着の暗がりへ消えた。
中が一瞬だけ銀に満ちて、それから静かな温度へ落ち着いた。
腰に、新しい重みが増える。
ずしり、と確かな重さ。
けれど足を止める重さじゃない。
むしろ背骨のあたりが支えられるみたいで、呼吸が少しだけ楽になった。
「……夜が明ける。今のうちに離れよう」
あさひが東の空を見て言った。
黒の端が薄くなり、冷たい風の匂いが変わり始めている。
久遠も短く頷いた。
「賛成だ。もうこの山に、俺の用はない」
下り道は硬かった。
石が足裏へ噛み、足裏がじんと痛む。
砕けた小枝が踏まれて乾いた音を立て、風がその音をすぐ奪っていく。
肩の力が抜けた途端、背中が重くなって、息が浅くなるのが分かった。
途中で湧き水をすくい、手と顔を洗った。
水は氷みたいに冷たく、指が一瞬痺れる。
その冷たさが、頭をはっきりさせた。
遠くで夜鳥が一度だけ鳴いて、森がまだ眠っていることを教える。
町へ戻るころ、空が薄く染まった。
一番鶏の声が遠くで響き、眠っていた家の匂いが少しずつ立ち上がる。
焚き木の残り香と、土の湿りと、人の気配の匂い。
こよいは深く息を吐き、巾着を抱え直した。
布越しに月の神の冷えがあり、風の神の軽さがあり、硝子の硬さがある。
三つの違う重みが、ひとつの腰の位置で揃っていた。
宿の引き戸を押すと、板が小さく鳴った。
指先に木のささくれの感触が残る。
女将が顔を上げる。
目の下に疲れがあるのに、声は震えた。
「……ああ。無事で、よかった」
こよいは頷いた。
言葉にすると崩れそうで、ただ呼吸だけが熱い。
女将の手が一度だけ宙で迷って、それからこよいの肩のあたりへ触れかけ、そっと引っ込んだ。
台所の方から湯が沸く音がして、湿った木の匂いがふっと混じる。
あさひは無言で肩の布を締め直し、久遠は行灯の火を小さく落として、影を薄くした。
畳へ座ると、冷たさが背中に回った。
湿った畳の匂いがして、ようやく安心が来る。
こよいは巾着を膝へ置き、指先で口を撫でる。
月の神の温度が、布越しに静かに伝わってくる。
「……もう、大丈夫だよ。ゆっくり休んでね」
巾着の底で、風が小さく鳴いた。
硝子がかすかに返事をした気がした。
月の神の呼吸が、それに重なる。
こよいは目を閉じた。
息を吐くたび、体の芯の硬さがほどけていく。
まぶたの裏に、銀の月がゆっくり浮かび、赤い色の残りが潮の引くみたいに薄くなっていった。
隣の部屋では、久遠がまだ起きている気配がした。
盤に触れる指先の音が、時々、畳を通して薄く聞こえる。
迷いを噛みしめる音。
こよいはそれを聞きながら、眠りの底へ沈んだ。
朝。
格子窓から淡い光が差し、空は薄い青だった。
身体の節々が重く、起き上がると畳が軋む音がした。
伸ばした腕の内側がつっぱり、昨日の熱が抜けていくのが分かる。
鳥が二度鳴き、町が起きる音が遠くで混ざる。
こよいは巾着に手を当てた。
冷たい。
確かに、そこにある。
「……一緒に行こう。新しい世界を見に」
廊下に出ると、あさひと久遠の足音が交差し、荷をまとめる音がしていた。
木の板がきしみ、紐が擦れる音が朝の静けさを塗り替える。
こよいは胸の灯へ手を当て、揺れを整える。
戸を開けると、朝の空気が頬を撫でた。
霧の匂いに、炊き出しの湯気の匂いが混じる。
冷えた空気を吸って、吐く。
息が白くなる。
頬の皮膚がきゅっと縮むのに、胸の灯は温かいままだ。
あさひが近づき、短く言った。
「……行こう。道が待ってる」
久遠は無言で頷き、こよいも頷いた。
巾着の重みを握り直し、石畳へ一歩を刻む。
石は夜の冷えをまだ溜めていて、足の骨へ冷たさが上ってくる。
遠くで桶を置く音、店の戸を開ける音、人の朝の声が重なり、町が生きているのが分かった。
冷たい朝の中に、胸の奥の熱が小さく残っている。
それだけで、歩けた。
巾着の奥で、月の呼吸が耳の奥で鈴みたいに静かに続いた。




