第074話 三つの力
広場に踏み出した瞬間、重力が変わった。
立っているだけで肺から力が抜けていく。昨日穿った結界の裂け目は跡形もなく修復され、赤い光の柱は一層どす黒く燃えていた。昨日より太い。町から吸い上げた神気が、この柱を肥えさせたのだ。
鉄錆の匂いが漂う。地面が不気味に湿り、踏むと足裏に粘りつく。祭壇の周囲の草は枯れ果て、土が赤黒く変色していた。
「……懲りぬ者どもだな。昨夜の敗走を忘れたか」
祭壇の前で、黒い狩衣の男が振り返った。
白い面の奥から、侮蔑の色を帯びた視線がこよいを射抜く。
「三度目の侵入を確認。……前回の戦闘記録から、行動パターンは解析済みだ。同じ手は通じぬぞ」
男が杖を振った。地面が割れ、泥の中から次々と人影が湧き出す。
白い面に鈍い武器。昨日より数が多い。だが配置が違う。祭壇の周囲に密集し、結界への接近路を完全に塞いでいる。前回こよいが駆け抜けた道筋を、正確に潰していた。
「……配置が違う。祭壇の守りを固めやがったな」
あさひが剣を抜き、低く呟いた。
「ああ。だが、こっちも同じ手は使わない」
久遠がこよいに目配せした。作戦通りだ。
昨夜とは違う。今夜は闇雲に突っ込むのではない。ビードロの増幅反射で、天頂の焦点を射抜く。
「行くぞ! 派手にやってやる!」
あさひが叫び、敵陣に飛び込んだ。
だが昨夜のように一直線に突き進むのではない。大きく弧を描きながら右翼を蹂躙し、わざと祭壇から離れた方向へ暴れ回る。
剣閃が走り、一振りで二体を薙ぎ倒す。踏み込む度に地面が軋み、返す刀で横薙ぎに三体を崩した。
面の男たちは斬られても叫ばない。土塊が崩れるような鈍い音だけが響き、白い破片が夜気に散る。
あさひの乱戦に引き寄せられ、祭壇の守りが薄くなる。泥人形たちが隊列を崩し、脅威に群がっていく。
「今だ、こよい!」
久遠が祭壇の左手、岩場の影を縫う迂回路を駆け出した。昨夜は正面から突っ込んで鎖に絡め取られた。同じ轍は踏まない。
こよいもその背中に食らいつく。草鞋の底が焦げた地面を踏むたび、足裏に鈍い熱が伝わる。
「……小賢しい。経路を変えたところで、この術式の前では無意味だ」
男が杖の先端を地面に打ちつけた。
祭壇の足元から赤い光の棘が林立する。昨夜の鎖とは形が違う。地面から突き出す赤い槍の群れが、行く手を串刺しにしようと迫った。
「こよい、伏せろ!」
久遠が星読みの盤を操作した。歯車が噛み合い、青い光の盾が二人の前に展開される。
赤い槍が盾に激突し、火花を散らして霧散した。久遠の腕が衝撃で震え、鼻から一筋の血が垂れる。
「……防いだだと? 昨夜は防御すらできなかったはずだが」
男の声に、初めて戸惑いが混じった。
「昨夜は急ごしらえだったからな。今夜は対策を練ってきた」
久遠が血を拭いながら不敵に笑った。義眼の左目が赤い光の流れを読み取り、術式の構造を走査している。
「結界の天頂。……見えた。焦点はあそこだ」
久遠が空を指差した。赤い柱の頂点、光が最も密に集まる一点。昨夜の宿で見定めた、術式の急所。
「……貴様、あの時の観測体か。廃棄処分されたはずの欠陥品が、なぜ術式を読む」
「お前らが捨てた目だからだよ。お前らの術の隙間が丸見えだ」
久遠と男の間で、青と赤の光が激しく衝突した。術式の残骸が火花のように散り、空気が焦げる匂いで満ちる。
久遠が男の攻撃を引き受ける隙に、こよいは祭壇へ駆けた。
赤い光の柱が目の前に迫る。昨日弾き飛ばされた恐怖が蘇り、足が一瞬だけ竦んだ。
檻の奥で、月の神が微かに脈打った。助けを求める拍動ではない。ここにいるよ、と応える鼓動だ。
足が動いた。光の中心で、月の神が消えかけている。
「……待ってて! 今度こそ、ここから出してあげるから!」
こよいは火傷した掌で硝子の瞳を掲げた。痛みが走る。けれど、その痛みの奥で、ビードロの意志が確かに脈打っていた。
『……映す。歪みを、ぜんぶ映す』
『……あつめて、かえす。にせものの光、すべて跳ね返す。……こよい、手を離さないで』
硝子の瞳が赤い光を吸い込み始めた。
昨夜は結界の壁面にぶつけた。今夜は違う。天頂を狙う。
内部で凝縮されていくエネルギーが硝子を激しく震わせる。指先から腕へと高熱が伝わり、掌の皮膚が水膨れを起こした。
風の神が風で熱を散らし。支えがなければ、とうに硝子を手放していた。
腕は痺れ、膝が震える。視界が白く明滅し、自分の身体の輪郭が溶けていくような感覚に襲われた。
それでも手を放さなかった。
「……いけえええっ!」
ビードロに溜め込んだ光が、結界の天頂に向けて解き放たれた。
銀色の閃光が夜空を裂き、赤い柱の表面に無数の亀裂が走る。
背後であさひの剣が火花を散らしている。最後の泥人形を斬り伏せ、血に濡れた刀身を空へ掲げた。
久遠の星読みの盤が青い光を重ねる。義眼から放たれた計算の光が、こよいの銀閃と一つに絡み合った。
三人の意志と神々の力が束ねられていく。
「急げ、こよい! 術式が限界を超えるぞ!」
あさひの絶叫が飛ぶ。背後で剣が唸り、最後の包囲を斬り崩す音が聞こえた。
久遠が光の焦点をさらに絞った。義眼から血の涙のような赤い光が滲む。硝子の瞳の中の渦が収縮し、銀の閃光へと変わった。
結界の奥で、月の神の光が一瞬だけ強く明滅した。
ここだ。久遠が示した天頂の焦点。すべてを懸ける、たった一つの的。
風の神がこよいの背に神気を注ぎ込む。背中から翼が生えたように身体が軽くなった。
硝子の光が一本の槍になった。
こよいは震える腕を伸ばし切った。掌の火傷が裂けた。それでも。
結界が波打つ。空気が歪む。
こよいの胸の灯が、かつてないほどに燃え上がった。身体の芯が熱い。自分の中にこんな力があったことを、こよい自身が一番驚いていた。
光が、天を衝いた。




