第073話 光の迷彩
山道は、昨日よりも険しい空気を纏っていた。
道なき道を、久遠の先導で進む。
表の参道には、見張りが立っているからだ。
昨日の衝撃で倒れた枝が折り重なり、踏むたびに濡れた土の匂いが立つ。
夜気は冷たく、息が白くなる。
赤い月の光だけが、木々の影を鋭く切り取っていた。
「ここからは、音を立てるな」
久遠が囁いた。
「奴らは音に敏感だ。……結界の影響で、視覚よりも聴覚に頼っている可能性がある」
久遠の言葉に、こよいは喉を鳴らした。
自分の心臓の音すら大きく感じる。
三人は、獣道を進んだ。
落ち葉を踏まないように、慎重に足を運ぶ。
風の神が、こよいの周りに風の膜を作ってくれている。
衣擦れの音さえも、風の音に紛れさせてくれる。
湿った苔の上を歩くと、足裏が吸い付くように重くなる。
その重さが、今はありがたかった。
軽い足取りは、逆に音を立ててしまうからだ。
「……ありがとう、風」
心の中で礼を言うと、巾着が温かくなった。
中腹まで来た時、光が見えた。
懐中電灯のような光ではない。
赤い提灯のような、ぼんやりとした明かり。
見張りがいる。
光は霧に溶け、輪郭が揺らいでいる。
提灯の中に火があるのか、それとも術の灯なのか判然としない。
こよいは息を止め、久遠の背中だけを見た。
白い面をつけた男が二人。
木立の間に立っている。
手には杖。
「……どうする?」
あさひが目配せした。
「やるか?」
「いや、気づかれていないなら、やり過ごそう」
久遠が首を振った。
「無駄な戦闘は避ける」
久遠は、懐から小さな石を取り出した。
それを、見張りとは逆の方向へ投げた。
石は斜面を転がり、わざと木の根に当てて乾いた音を立てる。
久遠はその音の反響を確かめるように、耳を澄ませた。
カサッ。
乾いた音が響く。
見張りたちが、一斉にそちらを向いた。
「……?」
その隙に、三人は背後を駆け抜けた。
息を殺して。
影のように。
しばらく進むと、また見張りがいた。
今度は四人。
道が狭く、避けて通れそうにない。
彼らの足元には細い赤い糸が張られ、わずかな振動でも伝わる仕掛けが見えた。
その糸を踏めば、山全体に警めが走るだろう。
こよいの喉が鳴りそうになり、慌てて唇を噛んだ。
風の神が小さく震え、草を撫でるようにして音を散らす。
久遠は指を二本立て、待て、と合図した。
面の男たちが一歩動くたびに、赤い糸が小さく脈を打った。
「……ここは、やるしかないか」
あさひが剣に手をかけた。
「待って」
こよいが止めた。
「ビードロが、何か言ってる」
『……みえない』
硝子の瞳の声。
『……わたしが、みえなくする』
こよいは、硝子の瞳を掲げた。
月光を吸い込んだ硝子が、周囲の景色を歪める。
光の屈折。
こよいたちの姿が、背景の木々に溶け込んだように見えた。
視界がわずかに揺れ、手の輪郭が薄くなる。
こよいは自分の指先を見て、不思議な感覚に戸惑った。
確かにここにいるのに、ここにいないような感覚。
「……すげえ」
あさひが自分の手を見た。
透けて見える。
「迷彩か」
三人は、透明人間になって見張りの前を通り過ぎた。
男たちは、目の前を誰かが通ったことに気づかない。
ただ、風が吹いたとしか思っていないようだ。
その風に紛れて、久遠の息が小さく笑った。
緊張の糸が少しだけ緩む。
こよいは一歩ごとに足を確かめる。
土の湿り気が指先に伝わり、今いる場所が現実だと教えてくれる。
透明になっても、心までは透けていない。
胸の灯は熱いままだった。
「……すごいよ、ビードロ」
こよいは、硝子の瞳を撫でた。
冷たい硝子が、誇らしげに輝いた気がした。
山頂が近づいてきた。
赤い光が、木々を透かして見えている。
儀式は、佳境に入っているようだ。
赤い光は昨日よりも濃く、空の端まで染めている。
こよいの胸の灯が震え、月の神の声が奥でかすかに泣いた。
風が止み、鳥の影が消えた。
世界が山頂の方へと引かれていく感覚がある。
久遠は一度だけ振り返り、こよいの目を見て頷いた。
「覚悟はいいな」
こよいは小さく息を吸い、「うん」と答えた。
「行くぞ」
久遠が言った。
「ここからは、隠れていられない。総力戦だ」
こよいは深く息を吸った。
覚悟を決める。
月の神を、必ず助ける。
赤い光のうねりは、耳ではなく骨で聞こえる音だった。
山頂に近づくほど、風が薄くなり、息の白さが濃くなる。
こよいは袖口で口元を拭き、冷たい夜気を胸に吸い込んだ。
久遠は足を止め、耳を澄ませた。
「……面の男たちの数が増えている」
彼の言葉に、あさひが短く頷く。
「なら、僕が先に出る」
こよいは一歩前に出ようとしたが、久遠が掌で制した。
「今はまだ隠れて行け。焦るな」
こよいは巾着を握り直す。
硝子の神の冷たさが掌に伝わり、月の神の温度がその下で揺れている。
風の神は小さく鳴き、道の先にある危険を告げるように震えた。
「大丈夫」
こよいは心の中で言った。
「すぐに終わらせるから」
山頂から、低く、一定のリズムで響く音が届いた。
太鼓のようで、心臓のようで、どちらでもない不吉な響き。
儀式はもう始まっている。
こよいは息を吸い込み、胸の灯を強くする。
足元の土が冷たいほど、覚悟は熱くなった。
木々の隙間から、赤い光が波のように揺れているのが見えた。
空気が硬く、喉が渇く。
指先が冷たいのに、胸の奥は熱い。
「行くぞ」
久遠が小さく言い、あさひが剣を構える。
こよいは二人の背中を追い、光の中へ足を踏み出した。
石畳に足が触れた瞬間、熱が足裏から伝わった。
結界の呼吸が近い。
広場の端が見え、赤い光の柱がゆっくりと回っているのが分かった。
怖さは消えない。
けれど、怖さの奥にある「助けたい」という気持ちはもっと強い。
こよいはその赤の中に、月の神の小さな光を探した。
見つけた瞬間、胸の灯が確かな温度で答えた。
遠くで誰かの叫びが聞こえた気がした。
こよいはそれを背に、前だけを見た。
巾着の中で風が小さく回り、足音に合わせて鳴いた。




