第072話 色の褪せる町
翌日、月見台の町は異様な静けさに包まれていた。
空は晴れているはずなのに、陽光が届かない。景色から色が抜け落ち、すべてが灰色に沈んでいる。
朝の市が立つ時間なのに、大通りには人影がなかった。
暖簾は動かず、煮炊きの匂いもしない。町全体が息を殺していた。
「……色が、消えてる。世界が、死んでいくみたい」
こよいは宿の窓から外を見下ろし、声を失った。
木々の緑も壁の土色も色あせ、湖の水面は光を失って澱んでいる。
昨日まで鮮やかだった染物屋の暖簾さえ、色が抜けて白茶けていた。
路地に出ると、通りの端で小さな子どもが座り込んでいた。
虚ろな目で地面の砂をなぞっている。その影が、不自然に薄い。
こよいが声をかけても顔を上げなかった。まるで声が聞こえていないように、同じ動作を繰り返している。
井戸端では女が水を汲もうとして、桶を落としたまま動かなくなっていた。目だけが赤い空を見上げている。
「土地の根源的な生命力――『神気』が、容赦なく吸い上げられているんだ」
背後から久遠が現れた。
夜通し星読みの盤と睨み合っていたのだろう、目の下に深い隈が刻まれている。
「神気が吸い上げられている。儀式が月の神だけでなく、この土地の命まで喰い始めた」
久遠の義眼が青く明滅し、大気の揺らぎを分析している。
「昨日より加速している。このままでは町が枯れる」
こよいは背筋が凍った。昨日の一撃が観測者を刺激し、儀式の出力を上げさせたのだ。
助けようとした行動が、町をさらに追い詰めている。その事実が胃の底に石のように沈んだ。
足裏から伝わる土の感触が頼りない。地面から生命が抜け落ちていく。
胸が痛む。巾着の中で風の神が怯えるように悲鳴を上げ、ビードロがカチリと不安げに鳴った。
神々の感情がこよいの意識を揺さぶり、膝が崩れそうになる。
『……いたい。こわい。からだが、ひかりに、とけていく……』
『……かなしい。だれも、いない。くらい、さむい……』
月の神の思念が、昨日より鮮明に流れ込んできた。助けを求める声ではない。もう終わりを悟った者の声だ。
『……もう、いいんだよ。こよい。……これ以上、だれかがきずつくのは、みたくない』
『……わたしは、このまま消えてしまえばいい。……だから、あなたは、にげて』
『……にげて。あさひさんと、くおんくんといっしょに。とおくへ。……しあわせな、ひかりのあるばしょへ……』
「……だめ。そんなこと、絶対に言わせない」
こよいは激しく首を振った。
「消えていい神様なんて、いないよ。……諦めないで」
涙が頬を伝い、冷たい石畳に落ちた。
こよい自身の悲しみではない。月の神が溜め込んできた孤独が、こよいの身体を借りて溢れ出している。
幼い頃、霧の夜に迷子になった自分を導いてくれたのは、あの月明かりだった。あの光が消えたら、世界は帰り道を失う。
こよいはその場にうずくまった。助けたいという願いと、死ぬのが怖いという恐怖が、胸の中で激しくぶつかり合っていた。
昨日の戦いで見た、赤い結界に弾き飛ばされたときの衝撃が蘇る。あの力にもう一度立ち向かえるのか。今度は弾き飛ばされるだけでは済まないかもしれない。
「こよい」
あさひの手が、震える肩に置かれた。
「あっちの感情に引っ張られるな。神の悲しみに飲まれたら、お前まで戻れなくなる」
その手は温かかった。傷だらけの指先なのに、体温だけが確かだった。
「……でも、あんなに悲しい声が……」
「分かってる。だから引き摺り出すんだろ。そのために、俺たちがここにいる」
こよいは袖で涙を拭い、頷いた。あさひの手の温もりが、胸の揺れを少しずつ鎮めていく。
巾着の中で、風の神がそっと震えを止めた。ビードロも静かになった。こよいが立ち上がろうとしているのを、神々が感じ取ったのだ。
「……うん。行こう。月の神様を助けに」
こよいは巾着を握り直した。中でビードロが微かに脈打っている。昨夜、砕けても構わないと答えたあの小さな神の覚悟が、冷たい硝子を通して掌に伝わってくる。あさひの体温とその熱が、こよいの胸の奥で重なった。
夜が来た。
昨日よりもさらに禍々しい赤い月が昇る。月光が触れた屋根瓦が赤く濡れ、影が歪んで壁を這った。
町の灯りが一つ、また一つと消えていく。最後まで灯っていた角の提灯が、風もないのに揺れて落ちた。
人々は戸を閉ざし、暗い畳の上で怯えていた。
「……時間だ」
久遠が立ち上がった。
「行くぞ。今夜、すべてを終わらせる」
三人は宿を出た。
石畳は氷のように冷たい。町には人影がなかった。戸の隙間から怯えた視線が覗き、すぐに閉ざされる。
宿の女将が、無言で三つの握り飯を差し出してくれた。手が震えていた。こよいは深く頭を下げ、それを懐に収めた。
こよいは草鞋の紐を固く結び直した。昨日の傷が足首に残っている。痛みが、逆に身体を醒ましてくれた。
あさひは刀の位置を確かめ、久遠は星読みの盤を胸元に収めた。
余計な言葉は要らなかった。三人の足音だけが、死んだ町に響く。
町の境を過ぎると、空気が変わった。町の中の澱んだ冷えが、ここでは粘り気のある重さに変わっている。山頂へと吸い上げられる神気の流れが、肌を這うように押し寄せてくる。こよいは襟元を押さえ、その圧に逆らうように歩を速めた。
森の入り口で、風が止んだ。風の神が嵐に備えて息を殺したのだと、こよいは悟った。
赤い月が雲を裂き、血のような光が道を照らす。
「行こう。月の神様が待ってる」
三人は山道を登り始めた。
湿った土の匂いが濃くなる。昨日と同じ道のはずなのに、木々が一回り痩せて見えた。枝先の葉が縮れ、幹を伝う樹液が赤黒く変色している。山そのものが、儀式に喰われ始めていた。
月の神の呼吸が、一歩ごとに近づいてくるのを感じた。昨日より弱い。けれどまだ確かに、鼓動がある。
巾着の中の神々が、こよいの背中を押し続けてくれている。
山頂はまだ遠い。それでも、足は止まらなかった。




