第071話 増幅反射の策
宿に戻った三人は、久遠の部屋に集まった。
泥と夜露に濡れた着物が重い。畳に腰を下ろすだけで、膝の裏に鈍い痛みが沈む。
部屋の隅で、あさひが黙ったまま指先の血を水で洗い流していた。その水音だけが夜の静けさを刻んでいる。
久遠は濡れた袖を絞り、卓を挟んで腰を下ろした。
こよいは巾着を胸に抱いたまま、動けなかった。月の神の悲鳴が、まだ耳の奥にこびりついている。
巾着の中で、三柱の神々の鼓動が不安げに共鳴していた。
「……あの結界は単なる壁じゃない。光を歪めて内側に閉じ込める、捕食型の術式だ」
久遠が、墨で汚れた紙に図を描きながら説明を始めた。
「外からの干渉を拒絶し、閉じ込めた神気を絞り取る。剣で斬っても、力の衝突はすべて吸収される」
紙の上に円が幾重にも重なり、中心に小さな点が打たれている。
久遠はそこへ鋭い線を伸ばし、「楔」と書き込んだ。
「多層構造だ。術式の楔が打ち込まれた特異点で、神気が渦を巻いている。その核を断ち切らない限り、裂け目を作っても瞬時に修復される」
「俺の剣で全力で斬っても、暖簾に腕押しってわけか。……癪な話だな」
あさひが腕を組んで鼻を鳴らした。腕の甲には擦り傷が走り、乾いた血が赤黒く張り付いている。
「ああ。結界は斬った端から修復する。既存の力とは違う、別の力が要る」
「猶予もない。時間をかけるほど、勝機は消える」
久遠は紙の上の円を指先でなぞった。
「結界は月の神から吸い上げた神気を防壁に転用している。放置すれば、壁はどんどん厚くなる」
「別の力……」
こよいは膝の上の巾着を見つめた。風の神と、救い出したばかりの硝子の神がいる。
「ビードロ。……ビードロなら、何かできるんじゃないかな?」
こよいは震える声を絞り出した。
「ビードロの力は『反射』だって久遠が言ってた。……あの光を跳ね返せるかもしれない」
「反射か。光を以て光を制する」
久遠が義眼の左目を細めた。
「結界の最小単位は圧縮された光だ。それを硝子の瞳で逆流させ、術式にぶつけられたなら……」
久遠は巾着を指差した。
「出せ。硝子の瞳の意志を直接確かめる」
こよいは一瞬、指先が凍った。
もし、この作戦で硝子の瞳が砕けてしまったら。
恐怖が紐を解く手を躊躇わせる。
それでも、今この壁を破れるのは、ビードロの光しかない。
こよいは息を吸い、慎重にビードロを巾着から取り出した。
僅かな明かりを吸い込み、内部に深い青を宿す球体。
「……ビードロ。聞こえる?」
こよいはその冷たい肌に呼びかけた。
「あの赤い光。……君の力で、跳ね返せるかな?」
『……できる。わたしには、みえる。光の、つなぎめが』
ビードロの返答が響いた。救出時の弱々しさはない。決意の込もった声だった。
『……わたしは、ただ見ていただけじゃない。世界の歪みも、うそも、ぜんぶ写し取ってきたの』
『……写して、返す。それが、わたしの命』
硝子の瞳が強く発光した。
行灯の火を収束させ、天井に向けて鋭い光の筋を投射する。
ただの反射ではない。光の筋が天井の木目を浮き彫りにし、空中の埃を銀色に変えていく。
こよいは目を細めた。光が「返ってくる」感覚。それは物理現象ではなく、神の意志そのものだった。
「……凄まじいな。これはただの反射じゃねえ」
あさひが唸った。
「光を吸い込んで、増幅して撃ち出してやがる。……これなら風穴を開けられるかもしれねえな」
「ああ。この増幅反射が唯一の鍵だ」
久遠の義眼に計算の光が宿った。
「ビードロに結界の光を反射させ、構造的な弱点に一点集中させる。過剰な負荷で術式を内側から自壊させる」
「弱点は、どこ?」
「結界の天頂。赤い光が最も密に集まる焦点だ」
「そこに全力を叩き込めば、結界は自らの光で焼き切れる。……だが、ビードロへの負担は計り知れない」
久遠の声が沈んだ。
「下手をすれば、硝子の瞳は砕ける。……それでも、この一手しかない」
作戦が決まった。
あさひが正面から突っ込んで囮となり、敵の注意を引きつける。
その隙にこよいと久遠が結界に肉薄し、ビードロの全力を解き放つ。
「おいおい、囮なんて不名誉な呼び方はよせ」
あさひが肩をすくめて笑った。
「俺が剣で道を切り拓く。戦士としちゃ、最高の役回りだ」
冗談めかしていたが、その瞳にはこよいたちを死なせないという覚悟が燃えていた。
久遠は頷き、星読みの盤の歯車を指先で確かめた。
「決行は明日の夜。満月が中天に掛かる時だ。神気の流動が最大になる」
久遠の指先が白く硬直している。気づいたように、素早く視線を逸らした。
あさひは黙々と愛剣の刀身を布で拭い、柄の緩みを確かめていた。
こよいは硝子の瞳を、壊れないように、けれど力を込めて握りしめた。
冷たいのに、今は頼もしい戦友の温もりを感じた。
「……お願い、ビードロ。君の力を、ぼくに貸して」
「……一緒に、月の神様を、あの暗い檻から助け出そう」
『……うん。約束、だね』
『……こよいが望むなら、わたしは、砕けても構わない』
小さな神が、命を賭して戦おうとしてくれている。嬉しくて、切なかった。
こよいは硝子の瞳にそっと頬を寄せた。
「……絶対に、君を一人にはしないから」
三人はそれぞれの戦いに備えた。
久遠は星読みの盤を調整し、あさひは研ぎ石で刀身を研いだ。こよいは巾着を抱きしめ、神々に祈った。
「……もう、眠れ」
あさひの低い声で、三人は布団に横たわった。
久遠は行灯の火を落とし、闇の中で赤い月を見つめていた。
眠りの淵で、月の神の声が聞こえた気がした。
『……まっているよ。こよい』
こよいは胸の灯を確かめた。
隣では久遠がまだ起きている気配がした。星読みの盤の金属がキチ、と微かに鳴る。
同じ夜を戦う仲間が、すぐそばにいる。
こよいは布団の中で小さく頷き、眠りの底へ沈んでいった。
赤い月の影が障子を這う。それでも、胸の灯だけは消えなかった。




