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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第070話 二度目の突破

挿絵(By みてみん)


翌夜。三人は再び山頂(さんちょう)祭壇(さいだん)へ立った。

 こよいは硝子(びいどろ)の瞳を高く掲げ、渾身(こんしん)の光を放った。


 閃光(せんこう)

 世界が真っ白に染まった。

 ビードロから放たれた光が、赤い結界(けっかい)を切り裂いた。

 衝撃波(しょうげきは)が空間を揺らし、こよいは膝を突いた。


 肺を圧迫していた重さが、一瞬だけ軽くなる。

 凍り付いていた夜が、ほんの刹那(せつな)、解き放たれた。

 月光が呼吸を取り戻し、こよいの胸の冷えが溶け始める。


 「今だ! 一気に押し切れ!」


 あさひの声が爆風の向こうから響いた。

 裂け目から、純粋な銀色の光が滴り落ちる。汚れていない、本物の月光だ。

 月の神が、かすかに脈打った。


 空間が一瞬だけ、澄んだ匂いを取り戻した。

 祭壇(さいだん)を囲んでいた面の兵たちが、月光に触れて霧散(むさん)していく。

 枯れ草が青く揺れ、乾いた石が湿り気を取り戻す。

 浄化(じょうか)の光が、確かに届いたのだ。


 「やった……! 届いたんだ!」


 だが、喜びは長く続かなかった。

 黒い狩衣(かりぎぬ)の男が杖を振り下ろし、黒い鈴を打ち鳴らす。

 裂け目に向かって赤い光が集まり、傷口が縫い合わされるように復元されていく。

 結界(けっかい)は、まだ死んでいなかった。


 結び直されるたびに、月の神の呼吸が浅くなるのが巾着(きんちゃく)を通じて伝わってきた。


 「貴様らの矮小(わいしょう)な抵抗など、所詮はこの大いなる観測の(ちり)に過ぎん」


 男の声には感情がなかった。


 「月は決して返さん。これは新しき時代の、生け(にえ)となるべき(いしずえ)なのだからな」


 こよいは震える手で硝子(びいどろ)の瞳を握り直した。

 まだ熱い。(てのひら)が焼けるようだ。


 『……まだ、いける。わたし、まだ、たたかえる……』


 ビードロの声が、意識の淵で響いた。


 『……でも、このままじゃ、わたし、こわれてしまう。……こわい。ひとりは、こわいの』


 「大丈夫。一人じゃないよ。ぼくが、あさひが、久遠(くおん)が、みんながついているから」


 こよいは唇を噛んだ。

 風の神がビードロの熱を風で散らし、月の神が微かな光を送り続ける。

 風の神が緩やかに熱を引き、月の神がその瞬間に光を注ぐ。二柱(にはしら)の呼吸が噛み合い、ビードロの光が前夜(まえのよる)より一層鋭く収束していく。

 神々の気配が絡み合い、こよいの胸の(ともしび)を燃え上がらせていく。


 「くううっ……!」


 だが、修復された結界(けっかい)の反発力は先ほどの比ではなかった。

 赤い光の壁が一気に膨張し、こよいの身体を正面から弾き飛ばした。背中から地面に叩きつけられ、二度、三度と転がる。肺の空気が一瞬で抜けた。

 口の中に土の味がする。視界が明滅し、手足の感覚が遠い。

 硝子(びいどろ)の瞳から冷たい光がほとばしり、握りしめた指の間から滑り落ちそうになる。

 必死に(てのひら)を閉じた。

 掌の中でビードロの脈動が不規則に乱れた。今の全力は代償を伴う。それでも裂け目の奥で、月の神の鼓動がほんの一瞬だけ強く打ったのを、こよいの指先が感じ取っていた。


 「下がれ、こよい! これ以上は無謀だ!」


 あさひが駆け寄り、こよいを(かば)った。

 だが赤い光の鎖が剣を阻む。久遠(くおん)も星読みの盤で(ほころ)びを探るが、針が乱れて解を示さない。


 あさひの肩から血が滴る。久遠(くおん)の手が小さく震えていた。

 二人は風穴を開けるためだけに身を投げている。こよいには、その犠牲を無駄にする権利はない。


 「……今は、退()くしかない。このままでは全滅だ」


 久遠(くおん)が低い声で言った。


 「今の一撃で月の神は目覚めた。術式を内側から乱す兆しは作った。だが外側の(おり)は想像以上に強固だ」


 こよいは悔しさに歯を噛んだ。(てのひら)の火傷が脈打つように痛む。

 無力さが胸に穴を開けている。あと少しだった。あと少しで届いたのに。

 だが、ここで無理をすれば全員が呑み込まれる。

 もし次に失敗したら。ビードロが砕けてしまったら。

 恐怖が首筋を()う。それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。


 『……ありがとう。こよい』


 月の神の微かな声が届いた気がした。

 痛みの叫びではない。救いに来た者への、確かな意志が(にじ)む声。

 結界(けっかい)の中で、月がまだ力強く拍動している。


 月は、まだ、生きている。

 まだ、その光の芯は死に絶えていない。


 「待ってて。必ず、助け出すから」


 こよいは小さく(つぶや)いた。火傷した(てのひら)を、もう一度だけビードロに添えた。冷たい硝子(びいどろ)の肌が、微かに温もりを返してくれた気がした。

 三人は山道を駆け下りた。

 風の神がつむじ風で足跡を消し、追撃を阻む。

 枝をかき分けるたびに肩の傷が走り、あさひがうめき声を押し殺す。

 こよいはその背中を一瞥(いちべつ)する余裕もなく、ただ足を前に出した。

 山肌(やまはだ)を照らす赤みが、ほんの少しだけ鈍っていることに気づいた。一撃の痕跡だった。


 (ふもと)の木立の中に身を潜め、ようやく死の気配から逃れた。

 肩が重い。心臓が激しく打つ。


 あさひが傷口に布を巻く。久遠(くおん)は星読みの盤を調整しながら、術式の流れを分析していた。布の端から血が(にじ)み、久遠(くおん)は一瞥もせずに針を動かし続けた。

 こよいは巾着(きんちゃく)に耳を当てる。月の神の鼓動が、まだある。


 「あれは失敗じゃない。浄化(じょうか)の兆しだ」


 久遠(くおん)が言った。


 「結界(けっかい)の構造は理解した。天頂の結び目に光を収束させて叩く。だが焦点をもっと正確に絞る必要がある」


 「次はしくじらねえ」


 あさひが頷いた。

 久遠(くおん)山頂(さんちょう)を見据え、義眼(ぎがん)を細めた。


 「術式の焦点は星の運行で変動する。星の針と月の高度を合わせれば、内側から崩壊させる焦点が現れるはずだ」


 こよいは赤い月を見上げた。

 さっきの一撃で、赤色がほんのわずかだけ薄くなった気がした。

 幻かもしれない。でも、それが唯一の希望だった。


 「明日の夜。もう一度、あそこへ行こう」


 こよいは、震える自分の声を必死で律しながら言った。


 「今度こそ、月の神様をあの(おり)から連れ出すんだ。絶対に」


 三人は月見台(つきみだい)の町へ影を潜めて戻った。

 町は静まり返っていた。誰も山頂(さんちょう)の戦いを知らない。

 だが町の灯は頼りなく、赤い月の下で(おび)えているように見えた。

 こよいは巾着(きんちゃく)の底で微かに続く鼓動を確かめ、唇を引き結んだ。

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