第069話 赤い結界
山頂の広場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
重い。立っているだけで体力が削られていく。
天を衝く赤い光の柱が、視界を塗り潰していた。
風は止まり、音だけが澄み渡っている。
こよいは喘ぐように息を吸い、喉が乾ききっていることに気づいた。
焦げた金属のような匂いが漂っている。
その光の暴虐の只中に、それは浮かんでいた。
淡く、けれど気高く輝き続ける、巨大な真珠のような球体。
月の神だ。
赤黒い光の檻の中に、縛り上げられている。
球体の表面は薄い霧のように頼りなく揺れていた。
かつて夜空を照らしていた月光とは似ても似つかない、弱々しい光。消えかけの命だ。
「苦しんでる……月の神様が、泣いてる……」
こよいは胸を押さえた。
月の神の悲鳴が、意識に直接流れ込んでくる。
言葉ではない。剥き出しの痛みと、消えていくことへの恐怖。
こよいの膝が震えた。胸の灯が消えそうに乱れる。
巾着の中で、風の神とビードロが同胞の苦痛に感応してざわめいた。
「ようやく姿を現したか。不法侵入者諸君」
祭壇の正面。
術式の中心で、一人の男が振り返った。
白い面は他の観測者と同じだが、装束が違う。黒い狩衣。隊長格だ。
右手に黒い杖を握っている。先端に歪な鈴が垂れ、揺れるたびに嫌な気配が広がった。
「これ以上の観測の妨害は、世界の損失に繋がる。……直ちに、彼らを排除せよ」
男が杖を振った。
周囲の地面から、次々と人影が立ち上がる。十人、二十人。
白い面に鈍い武器。呼吸も体温もない、泥人形のような兵士たち。
規則的な足音だけが広場に響く。
「ふん、数だけは揃えてきやがったな!」
あさひが剣を抜いた。
刀身が赤い光を跳ね返し、銀色の閃光が闇に走る。
「ここは俺が受け持つ。お前らは儀式を止めろ!」
あさひが敵陣に飛び込んだ。
剣閃が弧を描き、槍を受け流し、装甲を切り裂いて道をこじ開けていく。
白い面をかすめるたびに、鮮血ではなく黒い霧が噴き出す。
人間の叫びはない。土塊が崩れるような音だけが響いた。
「行くぞ、こよい! 俺に遅れるな!」
久遠が、混乱の隙間を縫って祭壇へと駆け出した。
こよいも、その背中に必死で食らいつく。
「愚かな。ネズミ一匹、逃がす必要はない」
黒い狩衣の男が指を鳴らした。
祭壇の足元から、赤い光の鎖が蛇のように這い出し、こよいの足を狙う。
触れた草木が瞬時に炭化していく。
「きゃああっ!」
避けきれなかった。灼熱の鎖が足首に巻き付く。
焼ける。激痛が走った。
「風の神様! お願い!」
こよいは悲鳴を上げた。
『……まかせな!』
風の神の声とともに突風が吹き荒れ、足首の鎖を断ち切った。
風の刃が赤い光を霧散させる。
「小癪な……神の力を使役する者か」
男が杖を構え直した。
先端に巨大な火の玉が膨れ上がる。自然の火ではない。
神の力を術式で模倣した、偽りの神火。熱く見えるのに、気配は氷のように冷たかった。
「模倣しただけの力か。反吐が出る」
久遠がこよいの前に出た。
星読みの盤を操作する。針が回転し、青い光が放射された。
久遠の左目が同じ色に共鳴する。呼吸が浅く、鋭い。
「術式の制御がお粗末だ」
盤から放たれた光線が、火の玉の「術の結び目」を撃ち抜いた。
大爆発。爆風がこよいの頬を熱く撫でる。
黒煙が晴れると、久遠が不敵に笑っていた。
「俺の目は神気の流れを捉える。お前の術の隙間は丸見えだ」
「……貴様、あの時の逃亡体か。不快な記憶が蘇るな」
男の声に、初めて驚きが混じった。
「廃棄処分された失敗作が、生き延びていたか」
「ああ。お前らを潰すためにな」
二人が対峙する隙に、こよいは祭壇へ走った。
赤い光の中心で、月の神が消えかけている。
あと少し。手を伸ばせば届く。
だが、見えない壁がこよいの手を弾き返した。結界だ。
「……待ってて! 今、ここから出してあげるから!」
こよいは硝子の瞳を掲げた。ビードロ。
『……映す。世界の歪みを、この瞳にすべて映し出す』
ビードロの声が空間を震わせた。
『……あつめて、かえす。にせものの光、ぜんぶ跳ね返す』
硝子の瞳が赤い光を吸い込み始めた。
結界のエネルギーが渦を巻いて瞳の奥へ消えていく。
球体が赤く熱を帯びる。こよいの手が焼けるように熱い。
それでも放さない。
風の神が冷たい風を送り、月の神が微かな光で支えてくれている。
三柱の神の意志が、こよいを通して一つに結ばれていく。
「……いけえええっ!」
こよいは叫んだ。
凝縮された光を、結界に向けて放つ。
青白い光の奔流が結界に突き刺さった。
赤い檻が裂け、衝撃波が吹き荒れる。
こよいは吹き飛ばされ、石の地面に背中を打った。視界が白くなる。
結界の一部は砕けた。
だが赤い光がうねり、傷口を塞ぐように結び直されていく。
「……くそっ、まだ足りないのか……」
久遠の苦悶の声が響いた。
男が杖を掲げ、詠唱する。結界がさっきより硬く再生されていく。
あさひがこよいの腕を掴み、引き戻した。
「一時退却だ! このままじゃ、奴の術式に飲み込まれるぞ!」
こよいは唇を噛んで頷いた。生きて戻ること。それが月の神を救う道だ。
久遠が星読みの盤から青い光の霧を放ち、追撃を遮る。
走り出す前に、一度だけ月の神を見上げた。
光の球体が、まだ微かに脈打っている。
『……必ず。また、助けに来るから。待ってて』
三人は闇へ駆けた。
背後で赤い光が咆哮を上げる。
山道を下り、北の廃道へ逸れたのは深夜を回ってからだった。枯れ木の根元に身を潜め、誰もが言葉も出ずに肩で息をした。夜が明けるまで、泥のように眠った。
木々の影に滑り込むと、夜の冷たさが肌に返ってきた。
「必ず戻る」
こよいは心の中で誓い、森を走った。
足が滑り、膝をつく。あさひの手がすぐに伸びてきた。
背後の赤い光がまだ追ってくる。月の神の声はもう聞こえない。
だがその静寂こそが、「待っている」という合図だった。
こよいは巾着を握りしめ、胸の灯を確かめた。
まだ消えていない。それだけが頼りだった。




