第068話 硝子の神の声
「起きろ、あさひ! 起きて!」
こよいは、あさひの肩を必死で揺すった。
あさひは一瞬で目を覚まし、反射的に枕元の剣の柄に手を伸ばした。
布団の上で身を起こすだけで、部屋の空気が鋭く動く。
「……なんだ、敵襲か」
「違うよ。でも、もっと大変なことが起ころうとしてる。久遠が……あの薬屋の子が、一人で戦おうとしてるんだ」
こよいは手短に事情を伝えた。
月の神が観測者に電池のように貶められようとしていること。久遠が実験の犠牲者であり、神を見るための硝子を体に埋め込まれたこと。
そして今夜、その計画を叩き潰そうとしていること。
「なるほどな……月の神を、か」
あさひは眠気を振り払って立ち上がった。
「あいつの目が妙だったのは、そういう理由か。……全く、とんだ厄介ごとに首を突っ込むことになっちまったな」
口では不満を漏らしながらも、手は迅速に旅装束を整えていく。
足袋の紐を締め、剣を背中に固定する。迷いはなかった。
「行くぞ。神様が人間のおもちゃにされるのを黙って見過ごせるほど、俺の寝覚めは良くねえんだ」
あさひは障子を滑らせた。
冷たい夜気が流れ込む。
こよいは巾着を押さえ、あさひの背中を追った。
深夜の町は静まり返っていた。
提灯の灯は消え、長い影が石畳に伸びている。
二つの影は建物の隙間を縫い、久遠が待つ薬屋の裏口へ滑り込んだ。
「婆さんは深い眠りについている。起こさないように、気配を殺せ」
久遠が、錆びた鍵を音もなく回した。
蝶番が微かに鳴ったが、奥の間からは老婆の安らかな寝息が聞こえている。
老婆はきっと、何も知らない。今夜、店の「守り神」が連れ出されることを。
久遠は一瞬だけ奥の間の方角を見つめ、唇を噛んだ。
店内は薬草の匂いが凝縮されて満ちていた。
干し草の束がカサカサと鳴り、棚の影が長く伸びている。
迷うことなく、最奥のガラス棚へ向かった。
闇の中で、硝子の瞳だけが青い光を宿している。
月光を吸い込んでいるのに、その奥には微かな温度が揺らめいていた。
やはり、見ている。こよいの姿を。
「……ビードロ」
こよいは、そっとその名を呼んだ。
硝子の瞳が、応えるように輝いた。
『……こよい。まって、いたよ』
声が、頭の中に響いた。
昼間よりもはっきりと。硝子が擦れ合うような、繊細な声。
長い孤独の中で、残された力を振り絞って紡いだ言葉だと分かった。
『……わたしを、ここから連れ出して。あの日、奪われた自由を、もういちど』
『……あの忌まわしい、空を焼く赤い光を。わたしの体で、すべて跳ね返したいの』
赤い光。
月の神を縛り、その神聖さを汚そうとする、観測者の術式の輝き。
ビードロは、檻の中にありながら、その不吉な予兆をすべて悟っていた。
そして、ただ救われるのを待つのではなく、自ら戦う意志を、青い瞳の奥に燃え上がらせていた。
「必ず、連れて行くよ。約束する」
こよいは震える指でガラスの戸を開いた。
封じ込められた冷気が流れ出す。
手を伸ばし、青い球体に触れた。
冷たい。
氷のようだった。だがその芯には、消えない熱が脈打っている。
怒りと、渇望。そしてこよいへの、一筋の希望。
ビードロは、奪われてもなお立ち上がろうとする「生きた神」だった。
「……さあ、ぼくのところにおいで」
こよいは巾着の紐を解いた。
中では風の神が、新しい仲間のために揺り籠を作って待っている。
硝子の瞳がふわりと浮き、導かれるように巾着の中へ吸い込まれた。
チャリン。
硬質な音が夜気を震わせた。風の神と硝子の神が、初めて触れ合った音。
『……よろしくな。硝子の娘。なかなか骨のある気配だ』
風の神が、愉快そうに風を鳴らした。
『……よろしく、お願いします。風の神様。こよいを、いっしょに守りましょうね』
ビードロの透明な声が重なる。
巾着が、ずしりと重みを増した。二柱の神の重さ。
こよいは紐を固く結び直した。
「いつまで見惚れてる。行くぞ、時間は待ってくれない」
入り口で、あさひが手招きしている。
久遠は、空になったガラス棚をじっと見つめていた。
寂しさと、安堵が混ざった横顔。
彼は震える手で、棚の隅に小さな紙片を置いた。
「行ってくる。婆さん、いつまでもお元気で」
それだけだった。
こよいは何も言わず、深く頷いた。
救ってくれた老婆への恩義と、この町に縛られ続けることへの恐怖。その二つが久遠の胸を引き裂いているのが分かった。
「……これでいい。店の守り神は、もうここにはいない」
「久遠……後悔してない?」
こよいが、彼の背中に問いかけると、久遠は鼻先で小さく笑った。
自嘲気味な、けれど清々しい笑い。
「まさか。……あいつは百年もの間、あのガラスの檻の中で世界が滅びるのを眺めていた。外に出たがっていたのは、あいつの方だ」
「名前さえ忘れられて朽ちていくのは、神にとって地獄だからな」
久遠が振り返った。硝子の左目が、月光を反射して鋭く光る。
「あいつの力は『反射』だ。光も、呪いも、視線も、すべて跳ね返す」
「使いこなす覚悟はあるか?」
「……正直、まだ分からない。でも、やらなきゃいけないってことは、分かってるよ」
「なら十分だ。行くぞ」
店を出ると、風が強くなっていた。
山頂から、生温かい風が吹き下ろしてくる。鉄錆の匂いが混じっている。
雲の切れ間から、赤い月が覗いた。
遠くから、地鳴りのような太鼓の音が響いてくる。
儀式が始まったのだ。
「ついに始まったか……胸糞悪い光だ」
あさひが山頂を指差した。
赤い光の柱が天を衝くように立ち上り、月の輝きが血の色に侵食されていく。
「急げ。術式が完成する前に」
久遠が先頭を切って駆け出した。
こよいも後を追う。急な坂道を駆け上がる。
心臓が早鐘のように打つ。
怖い。
足が震える。
けれど、止まらない。
巾着の中で、二つの神気が共鳴して熱い波動を伝えてくる。
風の神と、硝子の神。その存在が、こよいの背中を押していた。
待っていて、月の神様。
ぼくらが今、あなたの檻を壊しに行くから。
三つの影が、赤い月の下を駆けていく。
草鞋が泥を跳ね飛ばし、石を踏みしめる音が夜に散る。
久遠の背中は迷いなく、あさひの足音は確かだった。
こよいは一度も振り返らなかった。赤い月だけを見据えて、山道を登る。
遠くから、月の神の悲鳴が風に乗って届いた気がした。




