第067話 星読みの少年
宿の布団に入っても、こよいはなかなか眠れなかった。
目を閉じると、瞼の裏にあの硝子の瞳が浮かび上がってくる。
透き通った、けれど何も映さない青色。
助けを求める掠れた声。
そして、その瞳と同じ色を湛えた、久遠の左目。
階下からは、安酒の饐えた匂いと野草の湿った香りが、薄い障子の隙間を縫って這い入ってくる。
客たちの笑い声はもう遠く、代わりに古い梁が夜気に冷えて軋むミシリという音だけが、断続的に響いていた。
静けさが深まるほど、胸の奥の不安が揺らめく。
『運び屋』と言い放たれた時の、あの視線が消えない。
彼は一体、何者なのだろうか。
ただの薬屋の孫などではない。
久遠の周りの空気は、観測者の気配に近い、不自然なほど澄んだ匂いがする。
歩幅は子供のそれと変わらないのに、月光に落ちる影は微塵も揺れない。
少年らしい幼さを残した声の中に、刃のような冷徹さが同居している。
そのちぐはぐさが、こよいの胸をざわつかせた。
寝返りを打つと、乾いた畳がザラリと肌を擦った。
隣の布団では、あさひが規則正しい寝息を立てている。
その安らかな呼吸だけが、この夜の唯一の錨だった。
ふと、障子の向こう側が、不自然に明るんだ気がした。
月明かりにしては、青白すぎる。
山の稜線が黒い切り絵のように夜空を分断し、その向こうで、巨大な何かが胎動している気配があった。
こよいは静かに起き上がり、息を殺して障子を滑らせた。
宿の小さな庭には、松の枝が黒々と広がり、石灯籠が沈黙を守っていた。
虫の声ひとつしない。
風さえも止まっている。
その庭の中央。
月光を真っ向から受ける平らな石の上に、一つの人影が鎮座していた。
少年だ。
久遠だった。
彼はあぐらをかき、膝の上に奇妙な機械を載せていた。
真鍮色の歯車が幾重にも組み合わさった箱。天球儀のようでもあり、羅針盤のようにも見える。
その中心から、細い青色の光線が天に向かって真っ直ぐ伸びていた。
近づくと、歯車がカチ、カチと噛み合う音がした。焦げた油の匂いと、機械の不自然な熱が鼻を突く。
「……月が、歪んでいる」
久遠の独り言が、夜気に乗って聞こえた。
こよいは引き寄せられるように、縁側から裸足で庭に降りた。
草を踏む音に、久遠がゆっくりと首を巡らせる。
驚きの欠片もなかった。
最初から、こよいが来ることを知っていたかのような沈黙。
「……お前か」
「何をしてるの?」
こよいは、膝の上で不気味に脈動する機械を指差した。
そこから伸びる青い光線は、天球の支配者のように君臨する満月を、正確に射抜いている。
「星読みの盤だ」
久遠は短く答えた。
細い指でダイヤルを微調整すると、カチリと音が鳴り、光線の密度が増した。
金属の冷たい匂いが、夜の土の匂いと混ざる。
月の満ち欠けの裏に潜む神気の流れを引き摺り出すための道具。銀色の月をまっすぐ貫くその光線に、こよいは背筋が冷えた。
「星の配置、月の満ち欠け、そこで大気に溶けた神気の澱みを測る。……観測者が、神を捕らえるために作り上げた、忌々しい知恵の結晶だ」
観測者。
その言葉に、こよいは息を呑んだ。
やはり、彼は、あの連中と。
「やっぱり……あなたは、観測者の仲間なの?」
「仲間だと?」
久遠は、自嘲気味に口の端を歪めた。
「冗談じゃない。俺は、奴らの歪んだ欲望が生み出した、最高傑作の『作品』だ」
「作品……?」
久遠は、左目に指先を這わせた。
月光を閉じ込めた義眼が、怪しい光を放つ。
「この目は、神気の色を見るために硝子と術式を眼窩に埋め込まれた義眼だ。……俺は物心つく前に親から引き離され、奴らの実験台の上で育った」
久遠の声は淡々としていた。
だが、機械を握る拳が白くなるほど強く震えているのを、こよいは見逃さなかった。
「毎日、針とメスが俺の身体を刻む。……神の姿をより鮮明に捉えるために、人間の部分を少しずつ削ぎ落とされていく。痛みを感じる神経さえも、観測の邪魔だと言われた」
「ひどい……そんなの、あんまりだ……」
「ああ。……だが、俺はそこから逃げた。地下の研究施設で爆発事故が起きた時にな。死にかけていたところを、あの婆さんに拾われた」
久遠は、星読みの盤を再び空へ向けた。
青い光が月を貫く。
「だが、逃げたところで終わりじゃない。この目は俺の身体に根を張って離れない。奴らが刻んだ烙印だ」
「そして今、奴らが再びこの地に現れ、動き出している。……この月見台を囲む、あの山頂の社で」
「……そこで、何をする気なの?」
「月の神を、高高度から地に堕とすつもりだ」
月の神。
こよいは弾かれたように空を見上げた。
満月が、どす黒い赤色を帯び始めている。
「月光に宿る神気を、制御可能なエネルギーに強制置換する実験だ。神の意志を剥ぎ取り、ただの電池にする。……成功すれば、この一帯の夜は死ぬ。月の神は二度と輝かない」
「そんなこと……そんな酷いこと、絶対にさせない!」
こよいは叫んだ。
巾着の中で、風の神が激しく身悶えするのが分かった。
神様を、道具として使い潰す。見過ごせるはずがなかった。
「当然だ。止めるぞ」
久遠は、音もなく立ち上がった。
星読みの盤を懐にしまう。
「俺は、奴らを許さない。奴らの未来をこの手で灰にする。……それが、この目とともに生きる唯一の理由だ」
その瞳の奥で、冷たい硝子越しに青い炎が揺らめいていた。
冷酷で、けれど熱い、命を懸けた怒り。
「……お前はどうする?」
久遠の視線が、こよいを射抜いた。
「集め手なんだろう。神が汚されるのを黙って見るのか? それとも踏み込むのか?」
「見捨てない……見捨てられるわけないよ!」
こよいは、震える声で即答した。
裸足のまま一歩前に出て、久遠の青い目を真っ直ぐに見つめ返す。
「ぼくも行く。神様が、あんな風に壊されていくのは……もう嫌なんだ」
「それに、ビードロも助けたい」
「ビードロだと?」
「あの硝子の瞳のことだよ。……あの子も、ずっと暗い檻の中で助けてって言ってた。ぼくには、あの子の悲鳴が聞こえたんだ」
「……ふん。そうか。あいつ、そんな名前で呼ばれたがっていたのか」
久遠は、一瞬だけ表情を緩めた。
初めて見せる、人間らしい顔だった。
「なら、すぐに準備をしろ。……あいつを、この檻から連れ出す」
「連れて行くって……ビードロを?」
「ああ。あいつはただの義眼じゃない。あらゆる光を意志で『反射』し、増幅させる力を持った神の欠片だ」
反射。
それがどう役に立つのか、今のこよいには分からない。
けれど、久遠の目には計算がある。
「あの剣の男も呼べ。術式の突破は無理だろうが、囮くらいには使える」
「囮だなんて……あさひに失礼だよ!」
「文句を言う暇があるなら足を動かせ。使えるものは全部使う。……それが、人間が観測者に勝つ唯一の方法だ」
厳しい言葉の裏に、覚悟の重みがあった。
一人で戦い続けてきた少年が、初めて他者に背中を預けようとしている。
「うん! すぐに呼んでくるよ!」
こよいは縁側を蹴って部屋へ走った。
あさひを起こさなければ。
天を仰げば、赤黒く変色した月が輝いている。
裸足の裏に冷たい板の感触。心臓が激しく打つ。
胸の灯が揺れていた。もう、昨日には戻れない。




