第066話 硝子の瞳
山を越え、谷を渡り、いくつもの峠を越えた先に、その町はあった。
「月見台」
すり鉢状の盆地に広がる、古くからの宿場町だ。
山の斜面に黒い瓦屋根の家々が幾重にも重なり、段々畑のように並んでいる。
夕暮れ時。
窓には灯りがともり始め、湖の水面に揺れていた。
「賑やかだな」
あさひが言った。
峠の上から見下ろす町は、活気に満ちていた。
街道を行き交う荷車の車輪が石畳を叩く音。
馬のいななき。
商人の呼び込み声。
風に乗って煮炊きの匂いが漂ってくる。
醤油の焦げる匂い、焼き魚の香ばしい煙。
「……うん」
こよいは、眩しそうに目を細めた。
久しぶりの人里だった。
観測者に追われ、誰もいない森や荒れ地ばかりを歩いてきた身には、人の営みが放つ熱気が少しだけ強すぎるように感じられた。
人混みの安心感と、自分が異物であるという居心地の悪さ。
巾着の中の風の神が、不安そうに身じろぎをするのが分かった。
「行くぞ。薬と食料を補充しないとな。それに、少し情報も集めたい」
あさひが先に立って歩き出した。
こよいも、巾着をしっかりと握りしめて後に続いた。
町に入ると、通りの両側には様々な店が軒を連ねていた。
旅籠、茶屋、古道具屋、呉服屋。
軒先には色とりどりの暖簾が揺れ、行き交う人々の話し声が絶え間なく響いている。
着物を着た町人、旅装束の行商人、網笠を被った巡礼者。
様々な人々が行き交う中で、こよいは周囲を警戒しながら歩いた。
こんなに人が多い場所には、観測者の目が紛れ込んでいるかもしれない。
誰かと目が合うたびに、背筋がひやりとする。
路地の陰からこちらを見ているのではないか。
そんな妄想に取り憑かれそうになる。でも、あさひがいる。
彼は剣を背負い、堂々と歩いている。
その足取りには迷いがない。
「ここだ」
あさひが足を止めたのは、賑やかな表通りから一本入った、路地裏にある一軒の古い店だった。
『薬』と書かれた看板が、風雨に晒されて文字が薄くなっている。
引き戸は半ば開け放たれていて、中から独特の匂いが漂ってくる。
乾燥した草の匂い。
煎じた根の苦い匂い。
どこか甘い果実の匂い。
店に入ると、中は薄暗かった。
天井から吊るされた干し草の束が、のれんのように視界を遮る。
壁一面の棚には、無数の壺や木箱が所狭しと並べられている。
「マムシの黒焼き」
「竜の髭」
「万能膏」
といった札が貼られているが、どれも怪しげだ。
「ごめんください」
あさひが声をかけると、奥から老婆が出てきた。
腰が「く」の字に曲がり、顔中が深い皺だらけの老婆だ。
着ている着物は継ぎ接ぎだらけだが、清潔に洗濯されている。
その目は、子供のように澄んでいて、訪れた客を値踏みするような悪戯っぽい光を宿していた。
「おやまあ、若いお客さんだねえ」
老婆は、しゃがれた声で笑った。
笑うと、さらに顔の皺が深くなる。
「旅の薬かい? それとも、心の薬かい?」
「傷薬と、毒消しをくれ。あと、体力がつく丸薬も」
あさひが慣れた口調で注文する。
こよいは、そのやり取りを聞きながら、店の中を見て回った。
不思議なものがたくさんあった。
蛇の干物。
巨大な松ぼっくり。
虹色に光る石。
これらは本当に薬なのだろうか。
それとも、おまじないの道具なのだろうか。
埃を被った棚の隅には、古い書物や、錆びた天秤も置かれている。
ふと、店の最奥にある、ガラス戸の付いた小さな棚に目が留まった。
そこだけ、空気が違う気がした。
静かで、冷たくて、張り詰めている。
埃っぽさがない。
磨き上げられたガラスの向こうに、何かが鎮座している。
引き寄せられるように近づいた。
棚の中には、真綿が敷き詰められ、その上に一つの「球体」が置かれていた。
それは、目玉だった。
硝子で作られた、義眼。
大きさは、子供の拳ほどもある。
透明度の高い硝子の中に、青い虹彩が精緻に描かれている。
本物の目のように見えるが、硝子の球体だ。
「……きれい」
こよいは、思わず呟いた。
不気味なはずなのに、目が離せない。
硝子の瞳は、どこまでも深い青色をしていた。
その時。
視線を感じた。
こよいが見ているのではない。
硝子の瞳が、こよいを見ている。
『……みて』
声が聞こえた。
耳ではなく、頭の中に直接響くような声。
硬質で透き通っているのに、どこか寂しげだ。
『……わたしを、みて』
こよいは、息を呑んだ。
巾着が、かすかに震えた。
中で眠っていた風の神が、気配に反応して目を覚ましたのだ。
神様だ。
この硝子の中に、神様がいる。
『……ずっと、まってた』
『……あなたがくるのを、まってた』
硝子の瞳が、微かに光った気がした。
店内の薄暗い灯りを反射して、青い光の筋がこよいの顔を撫でる。
冷たい感触。
こよいは、無意識に手を伸ばしていた。
ガラス戸に触れようとした、その瞬間。
「……おい」
冷たい声が、横から飛んできた。
氷の刃のような鋭さを持った声。
「触るなよ」
ビクリとして、手を引っ込めた。
振り返ると、いつの間にか少年が立っていた。
店の奥の暗がりから、湧き出てきたかのように。
こよいと同じくらいの歳だろうか。
整った顔立ちだが、表情が薄い。
能面のように冷ややかだ。
着ている服は、この辺りの子供たちとは違う、飾り気のない灰色の服だった。
そして、何より目を引いたのは、その瞳だった。
左目が、あの硝子の瞳と同じ色をしていた。
透き通った、硝子のような青。
生気のない、作り物めいた美しさ。
右目は普通の焦げ茶色なのに、左目だけが、異質な輝きを放っている。
義眼だ。
あの棚の中にあるものと、同じものが埋め込まれている。
「……それは売り物じゃない」
少年は、淡々と言った。
こよいを睨んでいるわけではない。
ただ、観察している。
実験動物を見るような目で。
「店の守り神だ。余所者が気安く触るな」
「……ご、ごめんなさい」
こよいは後ずさった。
少年の目が怖い。
怒っているのではない。
感情が薄いのだ。
「久遠、客人に失礼だよ」
老婆が、あさひとの商談を終えてこちらを見た。
困ったような、でも慣れたような口調で言う。
「孫なんですよ。少し愛想が悪くてねえ。……ほら、久遠。挨拶くらいおし」
久遠と呼ばれた少年は、ふんと鼻を鳴らした。
老婆の言葉など聞こえていないかのように、こよいから目を離さない。
「客じゃない。……『運び屋』だ」
その言葉に、こよいの心臓が跳ねた。
運び屋。
集め手のことだ。
この少年は、気づいている。
巾着の中身に。
久遠は、こよいの腰の巾着をじっと見た。
その左目が、微かに回転したように見えた。
瞳孔の奥で、何かが動いている。
「中身が漏れ出してるぞ。……しっかりと蓋をしておけ」
「え……」
「匂いがするんだよ。神気の匂いがな」
それだけ言うと、久遠は店の奥へと消えていった。
やはり足音がしない。
「……行くぞ、こよい」
あさひが、こよいの肩を叩いた。
その表情は険しい。
彼もまた、久遠の異質さを感じ取ったのだろう。
剣士としての勘が、警戒を告げている。
「……うん」
店を出るとき、こよいはもう一度だけ棚を振り返った。
硝子の瞳が、じっとこよいを見送っていた。
『……たすけて』
最後にかすかに聞こえた声。
それは、硝子の檻に閉じ込められた神の悲鳴だったのかもしれない。
外に出ると、夕日が町を赤く染めていた。
こよいは胸の奥に、不吉な夜の気配を感じた。




