第007話 峠の宿
足音は、村が見えた瞬間に消えた。
夕暮れの山道をずっと歩いていた。後ろからついてくる足音に慣れていた。落ち葉を踏む規則正しいリズム。距離は変わらない。ただ、ずっとそこにいた。
振り返る。誰もいない。それは、ずっとそうだった。
けれど、今度は、足音すらない。
風の音と、自分の息だけが、耳に残っている。
前を向くと、木々の間に明かりが見えた。
家だ。
複数の家。煙突から煙が立ち上り、窓に灯りがともっている。
村だった。
「……ひと、いる」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……あったかい」
祠の神の声が続く。
村の入口には、木製の門が立っていた。鳥居に似た形。その横に、看板がある。
「峠の宿」。
宿があるなら、泊まれる。屋根の下で眠れる。
足が、自然と早くなった。
村に入ると、石畳の道が続いていた。
両側に茅葺き屋根の家が並んでいる。窓から明かりが漏れ、夕餉の匂いが漂ってくる。味噌と、焼き魚と、炊きたての米の匂い。
腹が鳴った。昼から、干し餅を一つ食べただけだ。
広場に出ると、井戸があった。その脇に、女が立っていた。
五十過ぎの、小柄な女。藍染めの前掛けをして、手拭いを頭に巻いている。桶の水を、杓で掬っている最中だった。
女は、こよいを見た。
一瞬、目が止まる。何かを確かめるような視線。
けれど、すぐに表情を崩した。
「旅の子かい」
しわがれた、けれど温かい声。
「泊まるなら、うちにおいで。峠の宿だよ」
宿屋は、二階建ての古い建物だった。
土間を上がると、囲炉裏の火が赤く燃えている。女将が茶を淹れてくれた。温かい。指先から、冷えが溶けていく。
「一人かい」
「……はい」
「どこから来た」
「……霧原町」
女将の手が、一瞬止まった。けれど、何も聞かなかった。
夕食は、食堂で取った。
味噌汁と、焼き魚と、漬物と、温かい飯。久しぶりの、ちゃんとした食事だった。
他に客はいなかった。村人が数人、食事をしていた。こよいをちらりと見るが、話しかけてはこない。
「あんた、境に行くのかい」
隣の卓にいた老人が、不意に声をかけてきた。
「……はい」
「そうかい」
老人は、それだけ言って、自分の飯に戻った。
部屋は、二階の六畳間だった。
古いが、清潔な畳。押し入れから布団を出して敷く。薄い綿布団だが、昨夜の草の上よりずっといい。
窓から、村の明かりが見える。
巾着を、枕元に置いた。
「……やすめる」
「……うん」
神々の声は、穏やかだった。
こよいは、目を閉じた。
朝、目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
静かすぎる。
鶏の声がない。人の話し声がない。足音がない。
障子を開けると、朝日が差し込んでいた。いつもの朝だ。
けれど、何かがおかしい。
廊下に出た。誰もいない。
「すみません」
声をかける。返事がない。
階段を降りる。帳場に誰もいない。囲炉裏の火は消えている。灰だけが、冷たく残っている。
「……いない」
巾着が、急に重くなった。
「……きえた」
祠の神の声が震えている。
外に出た。
広場に誰もいない。井戸の釣瓶が、途中で止まっている。誰かが水を汲もうとして、途中でやめた。
道端に、草履が片方だけ落ちていた。
民家の戸が、開きっぱなしになっている。
食堂に走った。
暖簾をくぐる。
卓の上に、朝餉が並んでいた。
食べかけの飯。箸が置いてある。
味噌汁が、まだ湯気を立てている。
茶が、まだ温かい。
漬物が、一切れ齧ったまま、皿の上に残っている。
竈を見た。火が、まだ燃えている。薪がくべられたばかりだ。飯釜の蓋が開いて、湯気が立っている。
ついさっきまで、誰かがいた。
ついさっきまで、朝食を食べていた。
それなのに、誰もいない。
いや、気配はある。誰かが座っているような、空気の歪みがある。
目に見えない何かが、そこで食事を続けているような感覚。
「……にげて」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……はやく」
祠の神の声が続く。急いでいる。
何かがいる。
見えない。けれど、いる。
空気が重い。息苦しい。背中に、視線を感じる。
こよいは、走り出した。
広場を駆け抜ける。西口の門が見える。あそこを抜ければ、山道に出られる。
足が、もつれそうになる。転びそうになる。
振り返らない。振り返ったら、何かが見えてしまいそうで。
門をくぐった。
石畳が終わり、土の道になる。
上り坂。息が切れる。足が重い。けれど、止まらない。背中の視線が、肌に張り付いている。
百歩、二百歩。
村から離れる。
竹笹の音だけが、風に鳴っていた。
背後の気配は、もう感じない。
ようやく、足を止めた。
肩で息をしながら、振り返る。
村が、霧に沈んでいた。
白い靄が、村の中心から広がっている。茅葺き屋根が、ゆっくりと白に飲まれていく。井戸が見えなくなる。宿屋の二階が、霧の中に消えていく。
昨夜、温かく迎えてくれた村が。
女将の声が。老人の言葉が。囲炉裏の火が。
全部、白に溶けていく。
カチン。
金属的な音が、遠くで響いた。
聞いたことのある音だ。
霧原町が沈んだとき、同じ音がした。
「……おわった」
巾着の中から、祠の神の声。
「……また」
空き地の神の声が続く。
「……はかられた」
測られた。
村が、測定されて、固定された。
霧原町と同じだ。
村は、もう動かない。
白い霧の下で、永遠に朝食を食べ続けている。食べ終わることなく。立ち上がることなく。
こよいは、前を向いた。
涙が、頬を伝っていた。
いつ泣き始めたのか、分からない。
「……いかないと」
声が震えた。喉の奥が、熱かった。
「……うん」
「……いかないと」
神々の声が、小さく応える。
山道を、歩き始めた。
背後で、霧に沈んだ村が、朝日に照らされて光っている。
白く、冷たく、動かない光。
振り返らなかった。
ただ、歩いた。道が山道から尾根道へと変わっていく。風が強くなり、木々がまばらになっていく。足の裏に石の感触が増す。
昼前には、もう村の匂いはしなかった。




