第008話 先人の日記
歩き続けた。
泣きながら。
涙が乾いても、足は止めなかった。
村が霧に沈んだ。
女将の顔が、頭から離れない。「旅の子かい」と言ってくれた声が、耳の奥で繰り返される。
あの人たちは、今もあの中にいる。食べかけの朝食の前に座ったまま。永遠に食べ終わることなく。
「……だいじょうぶ?」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……ない」
正直に答えた。大丈夫じゃない。でも、止まれない。
昼前、尾根に出た。
道が細くなり、両脇が開けた。風が吹き抜ける。冷たい風が、涙の跡を乾かしていく。
振り返ると、北東の方角に、白い塊が見えた。
霧に沈んだ村だ。朝日の下で、動かない白い島のように浮かんでいる。
目を逸らした。見ていられなかった。
尾根道を歩く。
足元は岩混じりの土で、木の根が露出している。何度も躓きそうになる。
疲れていた。昨夜はちゃんと眠ったはずなのに、体が重い。心が重い。
「……やすんで」
祠の神の声。
「……もうすこし」
休んだら、動けなくなりそうだった。
昼過ぎ、大きな岩を見つけた。
岩がせり出していて、下に空間がある。雨を凌げそうだ。
足が止まった。もう、限界だった。
岩の下に潜り込む。地面は乾いていた。背中を岩に預ける。冷たい。でも、座れる。それだけで、ありがたかった。
目を閉じようとしたとき、視界の端に何かが見えた。
草の間。岩陰の奥。
何かが、落ちている。
近づいた。
鞄だった。
古い革の鞄。黒ずんでいて、紐が切れている。穴が開いている場所もある。何年もここにあったようだ。
中身が、半分散乱している。
竹の水筒。乾燥してひび割れている。
着物の切れ端。藍染めの、女性の着物の袖。
そして。
小さな巾着。空っぽの、赤い巾着。
こよいは、息を呑んだ。
「……これ」
「……いた」
祠の神の声。
「……まえに、だれか」
空き地の神の声が続く。
誰かが、ここにいた。
誰かが、こよいと同じように、巾着を持って、旅をしていた。
そして、ここで。
鞄の中を、そっと探った。
指先に、紙の感触があった。
取り出す。
黄ばんだ和紙。破れた一枚。日記の切れ端だった。
墨で書かれた、細い字。女性の字だ。
「……境まで、あと三日……」
最初の一行を読んで、心臓が跳ねた。
境。この人も、境を目指していた。
「……測られてはいけない……」
「……光を見たら、隠れろ……」
「……彼らは、固定しようとしている……」
「……逃げろ。どこまでも……」
「……ぼくの巾着には、まだ三柱……」
三柱。
この人も、神々を集めていた。
こよいと同じように。
こよいは、無意識に自分の巾着を押さえていた。二柱。まだ二柱しかいない。この人は三柱まで集めたというのに。指先から伝わる微かな温度だけが、自分と神を繋いでいる。
紙を裏返した。
裏にも、文字がある。
「……名前は、最後まで与えるな……」
「……名前を持てば、記録される……」
「……記録されれば、測定される……」
「……測定されれば……」
そこで、紙が破れていた。
続きは、読めない。
こよいは、紙を握りしめた。
手が震えていた。
この人は、どうなったのだろう。
境にたどり着いたのだろうか。
それとも。
巾着が、わずかに重くなった。
「……しらない」
「……でも、いた」
「……たしかに、いた」
神々の声は、静かだった。悲しみと、敬意が混じっている。
こよいは、日記の切れ端を、自分の鞄に入れた。
捨てていくことはできなかった。
この人が残した言葉を、持っていきたかった。
和紙は薄くて脆く、折り目のところが今にも千切れそうだった。丁寧に鞄の底に忍ばせる。この言葉が、いつか自分を助けてくれるかもしれない。
しばらく、岩陰で休んだ。
干し餅を一つ食べた。水を飲んだ。
体は、少し楽になった。心は、まだ重い。でも、前よりはましだった。
一人じゃない。
前にも、誰かがいた。同じ道を歩いた人がいた。
鞄の紐を、もう一度固く結び直した。干し餅の残りを確かめる。三つ。一日一つなら、あと二日は持つ。水筒を揺すって中の量を確かめる。半分を切っている。足の裏の痛みを奥に押し込んで立ち上がった。
午後、再び歩き始めた。
日記の言葉が、頭の中で繰り返される。
「測られてはいけない」
「光を見たら、隠れろ」
霧原町が沈んだとき、観測者たちがいた。
消えた村が沈んだとき、何も見なかった。でも、きっと、どこかにいたのだ。
夕暮れ前、見晴らしの良い岩場に出た。
尾根の突端。三方が開けていて、遠くまで見渡せる。
西の空が、赤く染まり始めている。
夕日を見ながら、こよいは息をついた。
そのとき、視界の端で、何かが光った。
東の方角。山の斜面。
白い光が、点滅している。
一つじゃない。三つ。いや、四つ。五つ。
ゆっくりと動いている。規則正しく点滅しながら。
「……あれ」
巾着が、急に冷たくなった。
「……はかる、もの」
祠の神の声が震えている。
「……にげないと」
空き地の神の声が続く。
日記の言葉が、頭の中で響いた。
「光を見たら、隠れろ」
あの光は、観測者たちだ。
機械を持って、山を登っている。
こよいを、探している。
光は、ゆっくりと動いている。
こちらに向かっているのか、別の方向なのか、分からない。でも、遠くない。二キロもないかもしれない。
明日には、追いつかれるかもしれない。
尾根の上では、自分の輪郭が空に浮いてしまう。暗くなるまでに、もう一段低い場所へ降りなければ。谷の影に身を潜めれば、あの光は見つけられないかもしれない。
こよいは、岩場を離れた。
急がなければ。
境に着く前に、測られてしまう。
測られたら、固定される。
固定されたら。
日記の続きを、こよいは知らない。でも、想像はできた。
女将の顔が、頭に浮かぶ。食べかけの朝食。湯気の立つ味噌汁。
あれと、同じことになる。
走り出した。
まだ明るいうちに、少しでも先へ。
後ろで、光が点滅していた。




