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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第064話 神の怒り

挿絵(By みてみん)


風の神が怒った。

 怒りというより、抑えきれない叫びだった。

 固定(こてい)された空気の中に(うず)が生まれ、(うず)は刃のように音を立てて広がっていく。止まっていた(つゆ)が震え、固まっていた葉が(きし)み、時間そのものがきしむ音がした。

 (うず)の中心には、風の神の小さな声があった。泣き声に似た、けれど鋭い声。こよいはその声に胸を締め付けられた。怒りは恐ろしい。だが、この怒りは誰かを傷つけるためではない。動けない世界を壊し、動く世界を取り戻すための叫びだ。


 「……来るぞ」


 あさひが剣を構える。

 こよいは巾着(きんちゃく)を両手で抱え、風の神の気配を感じる。怒りは大きい。けれど、恐怖も同じくらい大きい。こよいは胸の(ともしび)を意識し、怒りをまっすぐに向けるように風に頼んだ。


 指揮官が(つえ)を地面に突き立てる。

 灰色の光が円を描き、固定(こてい)がさらに強くなる。空気が重く、動きが遅くなる。けれど、風は止まらない。風の神の(うず)は、固定(こてい)の円の縁を削り、削った分だけ()らぎを広げていく。

 円の中で、観測者(かんそくしゃ)の足が一瞬だけ固まった。固定(こてい)の力が乱れ、彼らの動きにも誤差が生まれる。こよいはその隙を見て、風に「守って」と願った。風は(うず)を小さくして、あさひとこよいの周囲に薄い防壁を作る。怒りが、守りへと変わっていく。


 「制御不能……!」


 観測者(かんそくしゃ)たちの声が揺らぐ。

 固定(こてい)された世界に、風だけが穴を開けている。穴から入った風は、次々に空気を動かし、止まった時間を軋ませた。

 隊列の中の一人が固定(こてい)に巻き込まれ、(ひざ)を石のように固められる。観測者(かんそくしゃ)が驚いて助けようとするが、空気が硬く動けない。固定(こてい)は味方も敵も関係なく縛り、彼ら自身をも置物にしていく。こよいはその光景に身震いした。

 怒りが強すぎれば、救うべきものまで巻き込んでしまう。こよいは風の(うず)に「行きすぎないで」と願う。風の神はその声に応えるように(うず)を少しだけ細くし、味方の周りの空気を柔らかくした。怒りの中にも優しさがある。それを感じて、こよいは少しだけ安心した。


 こよいの目の前で、止まっていた鳥の羽が一枚落ちた。

 落ちるまでに長い時間がかかったが、その動きは確かに「動き」だった。こよいはそれを見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 羽が地面に触れた瞬間、風が一度だけ強く吹いた。小さな合図のように。こよいはその合図を受け取り、巾着(きんちゃく)を握りしめる。


 「風、怒っていい。だけど、壊しすぎないで」


 こよいの声は小さい。だが風の神は聞いた。(うず)が一度だけ縮み、そして、鋭い突風が指揮官の(つえ)へ突き刺さった。

 ガキン。

 硬い音。(つえ)の表面に走るひび。指揮官の表情が初めて大きく歪む。


 「貴様……小神ごときが!」


 指揮官は(つえ)を振り、空間固定(こてい)の壁を何層も重ねた。透明な壁が重なり、風の刃が鈍る。こよいは息を飲む。風の神の怒りが抑え込まれそうになる。


 その瞬間、あさひが踏み込んだ。

 壁の薄い場所を狙い、剣を突き立てる。刃が壁に弾かれる。あさひは歯を食いしばり、もう一度突く。三度目で、壁がひび割れた。


 「こよい、今だ!」


 こよいは巾着(きんちゃく)を開き、胸の(ともしび)から風に力を渡す。

 風の神の怒りが、こよいの(ともしび)と重なった。怒りと願いが一つになる。風が壁の隙間を見つけ、そこから一気に膨張(ぼうちょう)した。

 膨張(ぼうちょう)した風は、壁の内側で旋回(せんかい)し、固定(こてい)の結晶を削る。音が鳴る。氷が割れるような音。こよいは耳を塞ぎたくなるが、目は離せない。今、世界が動き出そうとしている。


 轟音(ごうおん)

 谷の空気が裂ける。

 固定(こてい)された空間が、紙のように破れていく。

 破れた隙間から、止まっていた時間が溢れ出す。流れ出した時間は、風に混じって谷全体へ広がる。固定(こてい)が崩れ、鳥が羽ばたき、葉が落ちる。川が流れる。音が戻る。空気が生きる。

 動き出した音は、最初は小さく、やがて大きなうねりになる。石の上を水が走り、草が波のように揺れる。こよいはその音を聞き、目の奥が熱くなる。止まっていた命が返ってくる。その瞬間に立ち会えたことが、こよいの胸をさらに強くした。


 指揮官の(つえ)が砕け、灰色の光が散る。光が散った瞬間、固定(こてい)が崩れ、空気が一気に動き出した。止まっていた水が落ち、落ちていた葉が地面に触れ、鳥が羽ばたき、木々が揺れた。


 「撤退!」


 観測者(かんそくしゃ)の隊長――指揮官が叫ぶ。

 彼は(つえ)残骸(ざんがい)を握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。だが、固定(こてい)が崩れた谷では、観測者(かんそくしゃ)の優位は続かない。風が吹き、視界が揺れる。隊列は乱れ、次々に谷の外へ走っていく。


 指揮官はこよいを睨みつけた。


 「()らぎは、いずれまた固定(こてい)される。忘れるな」


 その言葉だけ残し、白いスーツは霧の中へ消えた。

 彼の背中が霧に消える直前、(つえ)残骸(ざんがい)が光を失い、灰に崩れた。固定(こてい)(かく)が砕けた証だ。こよいはその灰を見つめ、巾着(きんちゃく)を静かに握った。


 谷に風が戻った。

 重かった空気が軽くなり、こよいは(ひざ)から力が抜けるのを感じた。あさひが腕を伸ばし、こよいを支える。こよいは息を吐き、巾着(きんちゃく)を抱きしめた。

 手のひらに残る風の温度が、今までの恐怖をゆっくり溶かしていく。風の神は疲れている。けれど、まだ生きている。それだけで十分だった。

 あさひは肩を回し、剣の刃を確かめた。刃は少し欠けていたが、光は残っている。「まだ使える」とあさひは(つぶや)く。こよいは頷き、旅は続くのだと自分に言い聞かせた。


 風の神は、怒りの(うず)を静め、ゆっくりと巾着(きんちゃく)に戻った。

 小さな震え。疲れと、まだ残る興奮。こよいは巾着(きんちゃく)に頬を寄せ、そっと「ありがとう」と(ささや)いた。


 止まっていた世界は動き出した。

 水が流れ、鳥が飛び、草が風に揺れる。こよいはその動きを胸に刻む。動きこそ、生きている証。奪われた時間は、取り戻せる。

 動き出した世界は、少しだけ眩しい。止まっていた分だけ、動きが強く感じられる。こよいはその眩しさに目を細め、風の匂いを深く吸った。乾いた土の匂いと、少し冷たい雨の匂いが混じっている。

 その匂いの中に、薄い鈴の音が混じった気がした。精霊(せいれい)たちが解放された喜びを小さく鳴らしているのだろう。こよいは耳を澄ませ、胸の中で「よかった」と(つぶや)いた。助けられた声が風に乗っていく。


 だが、こよいの(ひざ)は震えていた。戦いの緊張と解放の反動で、体の力が抜けていく。あさひが肩を貸し、こよいはその温もりに支えられる。守るためには、まず自分が倒れないことだと、こよいは改めて思った。


 「……行けるか」


 あさひが聞いた。

 こよいは頷いた。足は震えているが、止まりはしない。

 固定(こてい)された谷を抜け、二人は再び西へと歩き出した。

 背中には風がある。胸の(ともしび)はまだ揺れている。怒りも、願いも、ここに残っている。こよいはその揺れを抱え、次の町へ向かった。

 谷の出口でこよいは一度だけ振り返った。そこには動き出した木々があり、鳥が空を切っている。風の神の怒りが、命の動きに変わった。こよいはその光景を心に刻み、歩みを進めた。

 その背中に、遠くから鳥の鳴き声が追いかけてきた。こよいは小さく笑い、風の匂いに「またね」と答えた。


 足元に落ちた羽が風に転がり、谷の出口へ流れていく。こよいはその羽を見送った。

 その揺れは怒りではなく、安堵(あんど)の揺れだった。風は戻り、怒りは静まっていく。冷たい夜風が頬を撫でた。

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