第063話 観測者の隊長
「馬鹿な……! 固定領域内で、揺らぎが発生しているだと?」
指揮官の声に、焦りが混じった。
こよいの巾着から、緑色の風が噴き出している。
風は螺旋を描き、こよいとあさひを包み込んだ。
固定された空気の中に、薄い隙間ができる。そこだけ時間が少し早く流れているように感じた。こよいは指を動かし、あさひは膝を立てる。身体が戻ってくる。遅かった世界が、少しずつ動き始めた。
風は二人の周りに輪を作り、その輪の中だけが軽い。輪の外は重く、石のようだ。こよいは輪を維持するように意識を集中させた。風の神が疲れないように、呼吸を合わせる。
「……動ける!」
あさひが剣を引き抜いた。
錆びついていた刀身が、風を受けて輝きを取り戻す。
「風の神か。……面白い」
指揮官は杖を構えた。
「だが、所詮は小神。私の『絶対固定』には勝てない!」
男は観測者の隊長だ。白いスーツの胸元には、銀色の徽章が光っている。こよいはその徽章の形に見覚えがあった。山吹宿の観測者たちが身につけていた印と同じだ。つまり、この男がこの地域の指揮を執っている。
隊長は静かに腕を振り、固定の力を整える。自分の領域で、世界を変えることに迷いがない。こよいはその確信に寒気を覚えた。
男の足元には透明な円が広がり、足元の草が白く凍る。円が広がるたび、空気が硬くなる。こよいはその広がりに合わせて風を強め、揺らぎを守るように円の縁を撫でた。
杖から、灰色の光線が放たれた。
触れたものを瞬時に石化させる光だ。
光線は風に触れると曲がり、壁に当たって砕ける。だが一本がこよいの足元を掠め、草鞋の先が石に変わった。こよいは歯を食いしばり、足を抜こうとする。風が石を撫で、ひびを入れた。
ひびが広がるたび、こよいは足の感覚が戻るのを感じた。固定は完全ではない。揺らぎを作れば、抜け道がある。こよいはその事実に希望を見出した。
「かわせ!」
あさひがこよいを抱えて跳んだ。
光線が地面に当たり、草が一瞬で石の彫刻に変わる。
石化した草は、風に触れても揺れない。こよいはその不自然さに息を呑んだ。葉の端に残っていた水滴までもが固まり、ひび割れた石の上に小さな結晶が残る。時間を止めるというより、動きを奪う術だ。
「……すごい力」
「ああ。だが、隙はある!」
あさひは敵の動きを観察し、杖を振る瞬間の小さな間を狙う。固定を生むには、固定の核を維持する集中が必要だ。集中が揺らげば、結界も揺らぐ。あさひはその僅かな揺らぎを見逃さない。
あさひは杖の先を見る。光線を出すたび、指揮官の腕が僅かに止まる。その瞬間、固定の円が薄くなる。あそこが隙だ。あさひは剣を握り、地面を蹴った。
あさひが突っ込んだ。
風を纏った剣速は、今までより遥かに速い。
「遅い!」
指揮官が手を振ると、空中に見えない壁が出現した。
ガキン!
剣が弾かれる。
弾かれた刃が火花を散らし、あさひは後ろに滑る。足元の固定が硬く、着地が遅れる。こよいは風を送ってあさひの足元の固定を剥がし、動ける床を作った。
「空間固定か。厄介だな」
あさひは肩で息をし、剣を握り直す。「壁は一枚じゃない。何層もある」その声が低く響く。こよいは風の流れを読み、壁の薄い部分を探した。固定の結界にも揺らぎがある。風がそこを狙えば、通れる。
こよいは目を閉じ、風の流れを感じる。固定の結界は滑らかではなく、微かな乱れがある。そこが弱点。風の神にその方向を示すと、風が細く伸び、壁の隙間へ吸い込まれていった。
「こよい、風を使え!」
あさひが叫んだ。
「奴の固定を、風でかき乱すんだ!」
「うん!」
こよいは巾着を開いた。
「風、お願い! 暴れて!」
『……いいの?』
「いいよ! 全部壊して!」
『……わかった!』
風の神が飛び出した。
竜巻となって、指揮官に向かっていく。
空気が軋み、空間の固定が剥がれ落ちていく。
竜巻は壁を削り、壁の間に細い道を作る。こよいはその道に合わせ、風の流れを整えた。揺らぎの道だ。止まった世界の中に、風だけが走る道。あさひはその道を踏み、剣を振る。
あさひの剣が壁に触れるたび、火花が散る。その火花が固定された空気の中で止まり、青白い粒になって浮かんだ。こよいはその粒を見て、固定の力の強さを実感する。けれど、火花が浮いたということは、動きが生まれているということだ。
竜巻は杖の周囲を巻き、灰色の光を引き裂いた。指揮官の足元の円が一瞬だけ薄くなる。あさひはその隙に踏み込み、剣を振る。刃が杖に触れ、鈍い音がした。杖の表面に細いひびが走る。
「なっ……!?」
指揮官の目が見開かれた。初めての動揺だった。
「くっ……計算外だ!」
指揮官が体勢を崩した。
その瞬間、谷全体が揺れた。止まっていた露がわずかに落ち、鳥の羽が震える。固定の力が乱れている。こよいは風の神の気配を感じ、胸の灯が強くなるのを感じた。
揺れは一瞬だけだが、確かなひびだ。こよいはそのひびを広げるため、胸の灯をさらに強く意識した。灯は風に触れ、風は灯に応える。二つの揺らぎが重なると、固定の壁が薄くなる。
しかし指揮官もただでは倒れない。杖を地面に突き刺すと、灰色の光が広がり、再び固定が強くなる。空気が冷え、こよいの腕が重くなった。
固定が強くなるたび、こよいの体が硬くなる。風が押し返すが、壁が厚い。あさひは剣を振り続け、壁に小さな傷を刻む。傷は小さいが、傷がある限り、崩れない壁はない。
こよいはその傷に風を流し込み、傷を広げようとする。風が傷の中で暴れ、壁がわずかに震える。指揮官の顔が険しくなる。計算が狂っている。こよいはその隙を見逃さず、さらに風を送り込んだ。
「私の領域は壊れない」男は低く言った。「壊せば、この谷ごと崩れる」
その言葉に、こよいは息を呑んだ。谷の命を守りながら、固定を壊さなければならない。風の神の怒りが必要だ。こよいは巾着を握りしめ、風に「怒って」と囁いた。
風の神は小さく鳴き、渦がさらに大きくなる。空気が震え、髪が舞い上がる。嵐が生まれようとしていた。
隊長は杖を構え、最後の固定を張る。谷の中心が白く輝き、時間が再び止まりかける。だが、風は止まらない。怒りと願いが重なり、嵐が固定の境界へ突き刺さる。
こよいは目を閉じ、風の神と同じ呼吸をした。止まらない。止めさせない。次の瞬間、嵐が固定を割る音が、谷に響いた。
その音は、氷が砕けるような鋭い音だった。こよいは目を開き、光が走るのを見た。固定の壁に走ったひびが、谷全体へ広がっていく。世界が、動き始めようとしていた。
指揮官は一歩退き、歯を食いしばる。固定の壁が崩れる前兆を感じ取ったのだ。こよいはその表情を見て、風の神の怒りが届いたことを確信した。
背後の観測者たちがざわめき、装置の光が乱れる。こよいはその乱れに風を重ね、揺らぎをさらに広げた。固定が揺れるほど、あさひの動きは速くなる。勝負の時が近づいていた。
こよいは風に「もう少し」と囁き、嵐の核がさらに膨らむのを感じた。固定の壁は薄くなり、崩れる寸前まで追い詰められていた。
あさひの息が白くなり、剣先が微かに震えた。こよいは深く息を吸い、風の動きを整える。風の音が低く唸った。勝負はここからだと、こよいは強く思った。必ず、勝つ。




