第056話 忘れられた鉱山
峠を越えると、景色が一変した。
緑の山肌が削り取られ、岩が剥き出しになっている。
巨大な穴がいくつも開き、錆びたレールが地面を這っている。
土埃の中に、朽ちたトロッコが倒れていた。
車輪は歪み、木箱は空のまま散らばっている。
かつて人が暮らしていた小屋がいくつもあり、窓は板で塞がれていた。
風が吹くと、看板がカタカタと鳴り、遠い昔の声がかすかに聞こえる気がした。
坑口の脇には石積みの小さな祠があり、鉱夫たちが安全を祈った跡が残る。
供え物の皿は割れ、そこに雨水が溜まっていた。
こよいは一度だけ手を合わせ、土の神に無事を願った。
「……鉱山?」
「ああ。昔は銅が掘れたらしい」
あさひが言った。
「今はもう廃坑だがな」
「どうして閉じたの?」
「崩落が続いたって聞いた。……それと、変な光が出るようになってから人が寄り付かなくなった」
変な光。
こよいは胸の中で、その言葉を反芻した。
観測者が来てから光るようになったのか。
それとも、光が出たから観測者が来たのか。
坑道の入り口には、木の板が打ち付けられ、『立入禁止』の札が下がっている。
風が吹くたびに、板がガタガタと音を立てる。
板の隙間からは冷たい空気が漏れ、湿った匂いが鼻を刺した。
こよいは肩をすくめ、巾着を握り直す。
「……嫌な感じがする」
こよいは、巾着を押さえた。
風の神が、不安そうに震えている。
『……なか、くろい』
『……おとが、する』
「音?」
耳を澄ませると、坑道の奥から微かな音が聞こえた。
カン、カン、カン。
つるはしで岩を叩くような音。
それとも、機械が動く音だろうか。
その音に混じって、金属が擦れる甲高い響きがした。
人の話し声は聞こえない。
誰が、何のために叩いているのか。
こよいは壁に耳を当てた。
石の奥から、微かなうめきが伝わってくる。
言葉にならない声。
それは、地面そのものの痛みのように感じた。
胸の灯が震え、こよいは唇を噛む。
カン、カンという音が一定の間隔で続く。
まるで鼓動のように、地の奥が脈打っている。
こよいはそのリズムを覚え、進むべき方向を確かめた。
「誰もいないはずだよね?」
「ああ。だが、観測者なら話は別だ」
あさひは、入り口の板を剣でこじ開けた。
「調べるぞ。奴らが何か企んでいるかもしれない」
板が外れると、乾いた埃が舞い上がった。
こよいは袖で口元を覆い、咳をこらえる。
外の雨音が遠のき、坑道の中に静寂が満ちた。
中は真っ暗だった。
湿った空気と、カビの匂い。
足元には水たまりがあり、天井から雫が落ちてくる。
壁には古いランプの跡があり、煤が黒く残っていた。
坑道の脇には崩れた支柱があり、いつ崩れてもおかしくない。
こよいは息を浅くし、足音を抑えた。
水たまりの縁に、新しい靴跡が残っている。
まだ崩れていない土が、ついさっき踏まれたばかりの形だ。
こよいは目線であさひに知らせ、二人はさらに慎重に進んだ。
足跡は規則正しく並び、人ではない歩幅だった。
観測者の機械の足かもしれない。
こよいは背筋を伸ばし、息を細く整えた。
「明かりを」
あさひが松明に火をつけた。
揺らめく炎が、坑道の壁を照らす。
炎の影が大きく揺れ、壁に人影のような形が映る。
こよいは思わず背後を振り返ったが、そこには誰もいなかった。
壁には無数の傷跡があり、かつてここで働いていた人々の苦労が偲ばれる。
坑道の曲がり角には、祈祷札が貼られていた。
色褪せた札には「土守」の文字が読み取れる。
忘れられた祈りが、こんな場所にも残っていた。
足元には古いつるはしが転がり、柄は乾いてひび割れている。
木箱の中には空の飯盒があり、名を彫った印が残っていた。
誰かの生活の跡が、静かに積もっている。
こよいは指で札をなぞり、短い祈りを心の中で唱えた。
風の神が小さく応え、坑道の空気がわずかに柔らいだ気がした。
けれどその柔らかさはすぐに、機械の振動にかき消されていく。
奥へ進むにつれて、音が大きくなってきた。
カン、カン、カン。
そして、もっと低い、重低音。
ブゥゥゥン……という、発動機のような音。
振動が足裏から伝わり、地面が微かに震えている。
風の神は巾着の中で身を縮め、警戒の音を立てた。
坑道の空気は次第に乾き、鼻の奥がつんとする。
雨の匂いは消え、代わりに金属と油の匂いが強くなる。
こよいは胸がざわつき、灯を守るように袖の中で手を握った。
風の神の気配が薄くなり、風がここでは通りにくいことが分かった。
こよいは息を吸い込み、風が届かない闇に立ち向かう覚悟を固めた。
あさひは背中越しに短く「行くぞ」と囁き、こよいは静かに頷いた。
闇は濃く、前方の音だけが頼りだ。
それでも足は止まらなかった。
あさひの背が小さく揺れ、闇へ溶けていく。こよいはその背に続き、静かに足を踏み出した。
「……機械だ」
こよいは確信した。
この奥に、観測者の機械がある。
「間違いないな」
あさひは低く答えた。
「ここで何かを掘ってる。……地脈か、神か」
こよいは喉を鳴らし、巾着を胸に寄せた。
風の神は小さく震え、坑道の奥を警戒している。
二人は互いに目を合わせ、頷いた。
進むしかない。
曲がり角を抜けると、古いレールが二股に分かれていた。
一方は崩落で塞がれ、もう一方には新しい電線が伸びている。
金属の線が闇の中へと導いているのが分かった。
こよいは壁に手を当て、微かな振動を感じ取る。
脈打つような動きが、地面の奥から伝わってきた。
「……生きてる」
こよいが囁くと、あさひは頷き返した。
ここで奪われているものは、確かに命だ。
「隠れろ」
あさひが松明を消した。
暗闇の中で、二人は息を潜めた。
向こうから、光が近づいてくる。
懐中電灯のような、白い光。
そして、足音。
カツ、カツ、カツ。
金属の靴底が水たまりを踏み、冷たい跳ねが頬に当たる。
観測者だ。
ここにも、彼らはいたのだ。
あさひはこよいの肩を押し、壁の影に身を寄せた。
二人は息を殺し、松明の火種を袖で包む。
光が近づき、足音が通り過ぎる。
観測者たちは何かを運んでいるのか、低い唸り声と金属の擦れる音が混じった。
「出力、上昇」
「地脈の流速、安定」
機械的な声が坑道に反響し、耳に刺さる。
こよいはその無機質さに背筋が冷えた。
「……今だ」
あさひが口の動きだけで合図した。
こよいは頷き、風の神に頼んで足元の水を静めてもらう。
しずかな風が水面を押さえ、音が消えた。
二人は暗闇の奥へと滑り込む。
その先に、観測者の目的があると確信しながら。
背後で足音が遠ざかり、やがて坑道は再び静寂を取り戻した。
滴る水の音が戻り、心臓の鼓動だけが大きく響く。
風の神が小さく回り、暗闇の奥へ進む道を示した。あさひは剣を抜きかけ、また納めた。
二人は目を合わせ、無言で次の闇へ歩き出した。




