第055話 峠の茶屋
山を下ると、次の峠に差し掛かった。
そこには、一軒の茶屋があった。
今度は雷に焼かれていない、無事な建物だ。
「……誰もいないな」
あさひが様子を窺いながら中に入った。
土間にはテーブルと椅子が並び、奥には厨房がある。
掃除が行き届いていて、埃ひとつない。でも、人の気配がない。
炉の灰はまだ温かく、湯気の匂いがほのかに残っている。
誰かがさっきまでここで働いていた。
それなのに、姿だけが見えない。
壁には帳面が吊られており、日付と簡単な走り書きが残っていた。
「雨荒ぶる。峠に近づくな」
「雷、畑焦げる」
短い文字が、ここ数日の嵐の酷さを物語っている。
こよいは帳面をそっと閉じ、持ち主の無事を祈った。
隣には旅人帳が置かれていた。
「水が甘い」「道が滑る」「雷に注意」――短い感想が続く。
最後の頁だけ、墨が滲んで読みにくい。
「山の上で、白い光を見た」とだけ書かれていた。
こよいは胸がざわつき、帳面を元の位置に戻した。
帳面の下には、山道の簡単な地図が挟まっていた。
峠の先に「旧鉱山」と小さく書かれている。
こよいは指でその文字をなぞり、嫌な予感を覚えた。
あさひもそれを見て、唇を引き結んだ。
「寄らずに通るつもりだったが、状況次第だな」
あさひの声は低く、警戒が滲んでいる。
こよいは頷き、胸の灯に手を当てた。
また観測者がいるなら、避けては通れない。
「すみませーん」
こよいが声をかけたが、返事はない。
厨房を覗くと、火が消えた竈と、洗ったばかりの食器があった。
「……また、神隠し?」
こよいは身構えた。
あの村のことを思い出したからだ。
「いや、違う」
あさひが、テーブルの上を指差した。
そこには、一枚の紙が置かれていた。
『旅の方へ。茶と団子を用意してあります。代金は箱へ』
丁寧な字で書かれている。
その横には、湯呑み → 湯呑
「……無人販売所か」
あさひが苦笑した。
「随分と不用心だな」
「でも、ありがたいね」
こよいは、急須からお茶を注いだ。
まだ温かい。
ついさっきまで、誰かがいた証拠だ。
湯呑み → 湯呑
こよいは礼を言うように、湯気に向かって小さく頭を下げた。
湯の香りはやさしく、口に含むとほのかな苦味が広がる。
こよいは目を閉じ、故郷の囲炉裏の匂いを思い出した。
旅の途中で味わう一杯は、ただの茶ではなく、心の支えだった。
団子は、よもぎの香りがした。
一口食べると、甘い餡の味が口いっぱいに広がる。
疲れが溶けていくようだ。
「……美味しい」
「ああ」
二人は、静かに団子を食べた。
窓の外には、夕暮れの山並みが広がっている。
平和な時間。
風の神が巾着の中でほっと息を吐き、火の側で丸まった気配がした。
こよいはその気配に笑い、団子を小さく割って巾着の前に置いた。
「少しだけ、どうぞ」
風がふわりと動き、団子の香りが散った。
湯呑み → 湯呑
温かさが指先から肩まで伝わり、心の緊張がほどけていく。
「こういう場所があると、旅は続けられるね」
あさひは短く頷き、残りの団子を口に運んだ。
言葉少なでも、同じ温度を分け合っている。
外の雨は弱まり、屋根を打つ音が少し静かになっていた。
茶屋の柱が軋むたびに、古い木の匂いが漂う。
湯呑み → 湯呑
ふと、こよいは気配を感じた。
茶屋の奥。住居スペースの方から。
「……誰か、いる?」
そっと近づいて、障子の隙間から中を覗いた。
誰もいない。
ただ、仏壇に線香が供えられていた。
煙が、まっすぐに立ち上っている。
その遺影を見て、こよいは息を呑んだ。
「……この人」
写真の中の老女は、優しく微笑んでいた。
その顔は、旅の途中で見かけた誰かに似ていた。
深い瞳。目元のしわの形まで。
姉妹だろうか。それとも、他人の空似だろうか。
こよいは胸がきゅっと縮み、写真の前で手を合わせた。
「……もし、この人も連れて行かれていたら」
言葉が喉で止まる。
あさひは黙って肩に手を置き、こよいの背を支えた。
こよいは懐から銭を取り出し、仏壇の前にそっと置いた。
お礼と、祈りの代わりだ。
「いつか、姉妹がまた会えますように」
静かな願いが、線香の煙に溶けていった。
「どうした」
あさひが来た。
「……ううん、なんでもない」
こよいは障子を閉めた。
見てはいけないものを見た気がした。
あるいは、知ってはいけない悲しみを。
部屋の隅に、小さな髪飾りが置かれていた。
桜の形をした簪。見覚えがある。
以前どこかで見た気がする形だ。
こよいは胸が締め付けられ、そっと髪飾りに触れた。
冷たい。そこには人の温もりだけが欠けていた。
簪のそばに、小さな包みが置かれている。
中には古い手紙が一枚だけ入っていた。
「山を越えて姉の元へ行きます。嵐が治まったら戻ります」
字は震えていて、最後の行で途切れている。
こよいはそっと手紙を戻し、仏壇に向かって深く頭を下げた。
代金を箱に入れ、茶屋を出た。
振り返ると、茶屋の窓に明かりがともっていた。
誰がつけたのかわからない。でも、その明かりはとても温かく、そして寂しげだった。
戸口の鈴が、小さく鳴った。
風のいたずらか、それとも誰かの見送りか。
こよいは一度だけ頭を下げ、静かに背を向けた。
外へ出ると、空気がひんやりとして頬を刺す。
地面の泥は乾き始め、足音が少し軽くなっていた。
茶屋の戸がゆっくり閉まり、背後で小さな音を立てた。
「……行こう」
こよいは前を向いた。
旅は続く。
出会いと別れを繰り返しながら。
山の空気が冷え、夕暮れが近づいていた。
茶屋の明かりは、背後で小さく揺れている。
こよいはその温かさを胸にしまい、次の道へと歩き出した。
峠の風は乾き、雨の匂いが少し薄くなる。
代わりに、土と鉄の匂いが混じってきた。
こよいは不思議に思い、足を止めて遠くの山肌を見た。
木々の色が途切れ、岩が露出した場所がある。
「……あそこ、景色が違う」
あさひも同じ方向を見て、眉をひそめた。
日が傾き、山影が伸びていく。
暗くなる前に峠を越えようと、二人は足を速めた。
茶屋の温かさが背中から遠ざかり、代わりに冷たい風が頬を撫でた。
道の先で、山肌の色が黒く変わっていく。木の匂いが消え、鉄の匂いが強くなる。
こよいは巾着を握り直した。あさひは一度だけ頷き、歩調を落とさず進む。
遠くでフクロウが鳴いた。その声が、峠の深さを知らせていた。




