第054話 泥の道
峠を越えると、嘘のように雨が小降りになった。
雷鳴も遠ざかり、雲の切れ間から薄日が差してくる。
けれど、道は最悪だった。
岩の隙間から水があふれ、道というより細い川だ。
足を置くたびに泥が盛り上がり、膝にまで跳ね上がる。
こよいは袖を絞り、冷えた指に息を吹きかけた。
風の神は小さく回り、体に張りつく水滴を少しだけ飛ばしてくれる。
粘土質の赤土が水を吸って、底なし沼のようになっている。
一歩踏み出すたびに、足首まで泥に埋まる。
引き抜こうとすると、重い音がして、体力を削り取っていく。
「……はぁ、はぁ」
こよいは、泥だらけの手で膝をついた。
草鞋はもう限界だ。紐が切れかけている。
着物の裾も泥で重く、鉄の鎖を引きずっているようだ。
「大丈夫か」
あさひが手を差し出した。
彼も泥だらけだが、足取りはしっかりしている。
「……うん。歩ける」
こよいは、あさひの手を借りて立ち上がった。
手のひらの温もりが、冷え切った体に染みる。
「無理するな。……この先に見晴らしの良い岩場がある。そこで休もう」
岩場に着くと、こよいは座り込んで草鞋を脱いだ。
足の裏がふやけて、白くなっている。豆が潰れて痛々しい。
岩陰には細い水の流れがあり、こよいは布を濡らして足を拭いた。
冷たい水が染みたが、痛みが少し和らいだ。
風の神が小さく息を吹きかけ、湿った足先を乾かしてくれる。
あさひは布切れを渡し、指の間に巻くように言った。
「短い歩幅で行け。無理に踏ん張ると、傷が深くなる」
こよいは頷き、布を巻き直した。
岩場の上から谷を見下ろすと、霧が薄く流れていた。
遠くの集落の屋根が、雲の間から一瞬だけ見える。
人の気配は小さいが、確かに生きている景色だった。
こよいは胸の奥で、そこにも風を届けたいと思った。
「これを塗れ」
あさひが、竹筒に入った軟膏をくれた。
「長にもらった薬だ。効くぞ」
緑色の、薬草の匂いがする軟膏。
塗ると、じわりと熱を持って、痛みが和らぐ。
「……ありがとう」
こよいは、新しい草鞋に履き替えた。
予備はあと一足しかない。
旅は、消耗との戦いだ。物も、体力も、気力も。
袋を覗くと、干し餅は半分ほどになっていた。
水筒はまだ重いが、雨の日が続けば火が起こしにくい。
こよいは指折りで残りの食糧を数え、胸の中で慎重な配分を決めた。
干し果物を一つだけ取り、あさひに差し出す。
あさひは一口で噛み、短く頷いた。
「食えるうちは進める。食えなくなったら、止まる」
その言葉は厳しいが、旅の現実だった。
「……ねえ、あさひ」
「ん?」
「あさひは、どうしてそんなに強いの?」
あさひは、剣を布で拭きながら考えた。
剣の刃には泥がこびりついている。
あさひはそれを丁寧に落とし、刃の曇りを確かめた。
「師匠は雨の日に稽古をさせた。剣は濡れるし、足場は滑る。だが、だからこそ体の使い方が分かる」
「嫌だった?」
「嫌いだった。でも、今は助かってる」
雨が降るたび、師匠の背中が思い出される。
「強くねえよ。……ただ、慣れてるだけだ」
「慣れてる?」
「泥道を歩くことも、雨に打たれることも、一人で寝ることもな。……ガキの頃から、そうやって生きてきた」
あさひの横顔に、影が差した。
師匠を奪われ、故郷を失い、一人で生きてきた時間。
その重みが、彼を強くしたのだ。
「……ぼくも、強くなれるかな」
「なってるさ」
あさひは、こよいを見た。
「最初にお前に会った時より、ずっといい顔をしてる」
「ほんと?」
「ああ。……目は口ほどに物を言うってな。お前の目は、もう『逃げる目』じゃない。『探す目』だ」
探す目。
神様を。真実を。神雧を。
「でも、見つけられなかったら?」
こよいは小さく呟いた。
答えを恐れている自分が、まだ心の奥にいる。
あさひは剣を布で拭き、ぽつりと言った。
「見つけられない日があっても、探し続ければ道は消えない」
「止まったら終わる。それだけだ」
こよいは胸の灯に手を当てた。
灯は小さく揺れ、けれど消えはしない。
この灯がある限り、足は前に出る。
「村にいた頃は、こんな風に歩くこともなかった」
こよいは自分に言い聞かせるように呟いた。
畑の端まで歩くだけで息が切れていた。
それでも今は、山の道を越えている。
胸の灯は、少しずつ大きくなっているのだ。
こよいは、空を見上げた。
雨上がりの空に、虹がかかっていた。
七色の橋。
その向こうに、何かが待っている気がした。
「昔、師匠に言われた」
あさひが小さく呟いた。
「目を逸らすな。怖くても、見続ければ道が見えるってな」
こよいは頷き、虹の端を目で追った。
雲の切れ間が広がり、山の稜線がはっきりと見える。
雨の向こうに、確かな地面がある。
風が濡れた髪を揺らし、こよいは肩の水気を払った。
しおりのことがふと頭をよぎる。
あの子もどこかで、同じ空を見ているのだろうか。
こよいは空に向かって小さく頷き、前を向いた。
「行こう」
こよいは立ち上がった。
足は痛い。泥は重い。でも、心は軽かった。
歩き出すと、道の先で小さな沢が行く手を塞いでいた。
雨で増水し、石の上を水が滑る。
あさひは先に渡り、腕を伸ばした。
こよいは息を止め、踏み石に足を乗せる。
滑りそうになるたび、風の神が背中を押し、体を支えた。
渡り終えると、こよいはほっと息を吐いた。
背中の荷が濡れて重くなっている。
あさひが縄を締め直し、荷を持ち上げるのを手伝った。
小さな作業でも、二人でやれば早い。
二人は、泥の道をまた歩き始めた。
虹の下を。
希望に向かって。
足元はまだ重く、痛みも残る。
それでも心の中には、先へ進む風が吹いていた。
道の先に、古い道標が立っているのが見えた。
雨に削られた文字が、かろうじて「茶屋」と読める。
休める場所が近い。
こよいは歩幅を整え、次の峠へ向かった。
鳥の声が一つだけ戻り、森の奥で短く鳴いた。その声に、こよいは少し笑った。
風の神も同じように小さく鳴き、雨上がりの匂いを吸い込んだ。




