第053話 雷鳴
雷鳴は、朝まで続いた。
空を引き裂くような轟音と、眼球を焼くような閃光。
こよいは一睡もできなかった。
「……止まないね」
「ああ。異常だ」
あさひは、お堂の入り口で腕組みをしていた。
その目は、雨の向こう側を睨みつけている。
「普通の嵐なら、通過すれば終わる。だが、こいつは居座っている」
「まるで、この山全体を閉じ込めようとしているみたいにな」
「閉じ込める……」
こよいは、山吹宿での「見えない壁」を思い出した。
あれと同じことが、ここでも起きているのだろうか。
『……あつい』
風の神が言った。
『……かみなりの、ねつが、つたわってくる』
雷の神。
どこかにいるのだろうか。
怒り狂って、雷を落とし続けているのだろうか。
「……行こう」
あさひが決断した。
「ここにいても埒が明かない。雨の中だが、進むぞ」
「うん」
二人は、再び雨の中へと飛び出した。
泥道はさらにぬかるみ、川のようになっている。
足を滑らせないように、慎重に歩く。
衣は重く、草鞋は水を含んで足に貼りつく。
雨粒が頬を叩くたび、冷えが骨まで染みてくる。
こよいは息を吐き、風の神に頼んで足元の水を少しだけ押し流してもらった。
薄い風の筋が、ぬかるみの表面を撫でる。
それでも泥は深く、歩くたびに脚が引き戻された。
頭上で、雷が鳴り響く。
バリバリッ!
すぐ近くの杉の木に落ちた。
火花が散り、焦げた匂いが漂ってくる。
「走れ!」
あさひが叫んだ。
悠長に歩いていたら、直撃を受けるかもしれない。
二人は、泥まみれになりながら山道を駆け上がった。
雷は、まるで二人を狙っているかのように、執拗に追いかけてくる。
空を見上げると、雲の奥で青白い光が絡み合っている。
こよいはその光の向きに、怒りの芯があると感じた。
あさひは耳を澄ませ、雷の落ちる間隔を測る。
短い静寂の間に、二人は斜面を駆け抜けた。
風の神が小さく鳴き、雷の衝撃を少しだけ逸らした。
雷の余波で地面が裂け、泥が跳ねる。
こよいは足を滑らせたが、あさひが腕を掴み、転倒を防いだ。
転がった石が谷へ落ち、遠くで湿った音がした。
森の鳥が一斉に飛び立ち、獣の悲鳴が風に混じる。
自然のすべてが、この怒りから逃げようとしていた。
「……なんで!」
こよいは叫んだ。
「なんで、こんなに怒ってるの!」
答えは、風の中にあった。
風の神が、怯えながらも教えてくれた。
『……とられたから』
『……たいせつなものを、とられたから』
大切なもの。
それは、神としての誇りか、自由か。
それとも、仲間か。
こよいは胸の灯を抱え、雨の音に耳を澄ませた。
怒りの奥に、寂しさが混じっている。
誰かに見つけてほしい、という声が確かにある。
それを聞いて、こよいは一層強く願った。
「必ず見つける。怒りも、悲しみも、ちゃんと受け止める」
観測者は、神々から何を奪っているのだろう。
ただ力を利用するだけではない。もっと根本的な、存在の根幹に関わる何かを、奪い続けているのかもしれない。
こよいは、水路の神と出会った時のことを思い出した。
閉じ込められ、身動きもできず、ただ泣いていた小さな神様。
あの時はまだ知らなかった。
奪われる痛みが、こんなにも大きいことを。
こよいの胸に、怒りと決意が同時に灯る。
『……かなしい』
風の神が小さく呟いた。
こよいは巾着を握りしめ、風の神に頷き返した。
「……許せない」
こよいは、雨に濡れた顔を拭った。
怒りが湧いてきた。
神様を泣かせ、怒らせ、こんな嵐を起こさせるなんて。
峠の頂上が見えてきた。
木々の背が低くなり、風が強くなる。
古い石碑が道端に倒れており、雷に焦げた跡が黒く残っていた。
こよいはそれを跨ぎ、足を止めずに進む。
一歩ごとに、雨の重みが肩から落ちていくようだった。
そこには、小さな茶屋があった。
雨戸が閉ざされ、ひっそりとしている。
「あそこまで行けば!」
あさひが指差した瞬間、茶屋の屋根に雷が落ちた。
ドォォォン!
屋根が吹き飛び、炎が上がる。
「……っ!」
雨の中なのに、火は消えない。
神の怒りの炎だ。
熱が一瞬、顔を焼いた。
湿った空気の中で炎だけが乾いている。
こよいは袖で口元を覆い、煙を避けた。
風の神が短い風を起こし、火の粉を遠ざける。
茶屋の梁が崩れ、火花が雨に散って消えた。
「迂回するぞ!」
あさひが進路を変える。
茶屋には近づけない。
炎と雷の結界が、そこにあるかのようだった。
裏手の獣道に入ると、木々が一層濃くなった。
枝が風に揺れ、濡れた葉が顔を打つ。
こよいは袖で目を拭いながら、足場の安全を確かめた。
「……これ、いつまで続くのかな」
「雷の神が収まれば、終わる」
「収まるって、どうすれば……」
あさひは答えず、前を見た。
答えは、まだ見えていない。
獣道は狭く、片側は急な崖になっていた。
足を踏み外せば、そのまま濁流へ落ちる。
こよいは息を整え、足裏で地面の硬さを確かめながら進む。
あさひは先を歩き、危ない場所では手を伸ばした。
「焦るな。雷は落ち続けるが、落ちる場所は選べる」
あさひの言葉に、こよいは頷く。
怒りの中でも冷静でいること。
それが、神の怒りを鎮めるための第一歩なのかもしれない。
風の中に、かすかな匂いが混じる。
雨の匂いに、焦げた金属の匂いが重なっていた。
こよいは眉をひそめ、観測者の気配を探す。
遠くの谷に、白い光が点滅しているのが見えた。
耳を澄ますと、低い機械音が山肌を震わせている。
ここからでは近づけない。
あさひは視線で谷を指し、後で戻ることを示した。
こよいはその光を目に焼き付け、必ず止めると心に刻んだ。
「……いる」
「今は相手にできない。抜けるぞ」
二人は尾根へと登った。
岩肌を伝う雨が冷たく、手が痺れる。
それでも上へ進むと、雲の厚みが少しだけ薄くなっていく。
雷鳴はまだ止まないが、音が遠くへずれていくのが分かった。
「向こう側なら、雨が弱いかもしれない」
こよいは頷き、最後の急斜面をよじ登った。
峠の風が背中を押し、二人は雲の縁へ飛び込んだ。
背後で雷が落ち、轟音が尾を引く。
前方には、薄い光の帯が見えた。
雲の向こうに、別の空気が待っている。
こよいは一度だけ振り返り、荒れた空に向かって小さく手を合わせた。
あさひはその手を軽く引き、無言で先へ促す。
こよいは頷き、雲の境目に足を踏み入れた。
雨粒が少しだけ細くなった気がした。
湿った風が頬を撫で、雷の匂いがわずかに薄れていく。
こよいは肩の力を抜き、次の一歩を確かめるように踏み出した。
あさひは前を指差し、小さな岩陰に身を寄せるよう合図した。
嵐の中心から離れつつあることを、二人は肌で感じた。
それでも後ろには怒りの気配が残り、雷鳴が追いかけてくる。
こよいは立ち止まらず、ただ前を見た。
風の神が小さく鳴き、進むべき方向を確かめるように回った。
こよいはその合図を頼りに、濡れた岩を越えた。
手のひらが冷え切っていたが、心だけは熱かった。
二人はその熱を頼りに、峠を越えていった。




