第052話 古い社
雨は、夜になっても止まなかった。
お堂の中は、焚き火の明かりで薄ぼんやりと照らされている。
壁に映る影が、炎のゆらめきに合わせて踊っている。
「……このお堂、何だろう」
こよいは、お堂の中を見回した。
奥には祭壇のようなものがあるが、仏像も神棚もない。
ただ、石で作られた小さな台座があるだけだ。
「古い社だな」
あさひが言った。
「山岳信仰の名残だろう。……神様はもういないみたいだが」
こよいは、台座に近づいた。
手を触れてみる。
冷たい。ざらざらとした石の感触。でも、どこか懐かしい感じがする。
『……いたよ』
風の神が言った。
『……ここにも、ともだちがいた』
「友達?」
『……ちいさな、つちのかみさま。……でも、もういない』
「……どこへ行ったの?」
『……かえった。……つちのなかに』
土に還った。
それは、死を意味するのだろうか。
それとも、眠りについただけなのだろうか。
「……寂しいね」
こよいは呟いた。
この世界には、忘れ去られた神様の痕跡が溢れている。
誰も祈らず、誰も思い出さず、ただ静かに消えていく神々。
「だから、集めるんだろ」
あさひが言った。
「お前が忘れないでいれば、神様は消えない。……神雧の場所まで連れて行けば、また会える」
「……うん」
こよいは、台座に向かって手を合わせた。もし、まだここに魂の欠片が残っているなら。
どうか安らかに。
そしていつか、神雧の場所で。
祭壇の脇に、煤で黒くなった木札が倒れていた。
こよいが起こしてみると、かすれた文字が見える。
「土守」「畑守」――短い名が、いくつも彫られていた。
「これ、名前かな」
「土地の神だな。昔は畑ごとに名を付けて祀っていたんだろう」
木札の裏には、小さな指の跡が残っていた。
祈りのたびに触れられた痕だ。
こよいは布でそっと拭い、もう一度台座の脇に立てかけた。
風の神が巾着の中で静かに回り、懐かしそうな気配が流れた。
「……忘れられた神様は、眠ってるだけなのかな」
「眠ってるのもいる。……けど、起こすには誰かが呼ばなきゃならない」
「呼ぶって……名前を覚えること?」
「そうだ。名前が消えれば、形も消える」
こよいは頷いた。
名前を覚えることは、命を繋ぐことだ。
神雧の場所へ連れて行くための道しるべでもある。
外では雨が竹を叩き、山が低く唸っていた。
屋根を流れる水は途切れず、床には薄い水溜まりができ始める。
あさひは入口に布を詰め、風の神は小さな風で雨粒を押し返した。
お堂の中には、焚き火の煙と湿った土の匂いが混じり合う。
その時。
ゴロゴロ……と、遠くで音がした。
雷だ。
「……近づいてくるな」
あさひが天井を見上げた。
雨音に混じって、雷鳴が次第に大きくなってくる。
光った。
一瞬、お堂の中が昼間のように明るくなる。
『……ひゃっ!』
巾着の中で、風の神が跳ねた。
怯えている。
「大丈夫だよ」
こよいは巾着を撫でた。
「ただの雷だよ」
『……ちがう。……ただの、かみなりじゃない』
風の神の声が震えている。
『……あれは、いかりだ。……かみさまの、いかり』
怒り。
雨の神の悲しみ。雷の神の怒り。
この嵐は、神々の感情が暴走しているものなのかもしれない。
「……観測者の仕業か」
あさひが剣に手をかけた。
「面倒なことになりそうだぞ」
バリバリバリ!
近くで雷が落ちた。
地面が揺れる。
お堂が軋み、埃が舞い落ちてくる。
「梁が持つか……」
あさひは天井を見上げ、柱の揺れを確かめた。
こよいは焚き火の側に土を寄せ、火の粉が飛ばないように囲った。
風の神が薄い壁を作り、火が消えないように護っている。
雷鳴が続いた。
一度光るたびに、こよいの影が壁に大きく伸びる。
影の縁が揺れて、どこか別の世界が覗いた気がした。
「……雨の神、ここにいるのかな」
「いるなら、近い」あさひは短く答えた。「雷は山の向こうに落ちている。中心はあっちだ」
こよいは目を閉じ、雨の音に耳を澄ませた。
叩きつける音の奥に、すすり泣くような細い響きがある。
誰かが怒り、誰かが悲しんでいる。
それが重なり合って、この嵐になっている。
「……ごめん」
小さな声が、雨に混ざって聞こえた気がした。
こよいは巾着を胸に抱き、ただ頷いた。
夜は長く、雷は弱まる気配がない。
あさひは入口で見張りを続け、こよいは火の側で身を縮めた。
夢と現実の境で、こよいは何度も雨の神の名を呼んだ。
火が小さくなると、こよいは薪を足した。
湿った木はなかなか燃えず、風の神が息を吹きかけてようやく火が立ち上がる。
赤い光が揺れるたび、祭壇の陰に何かが映った。
それは石の欠片で、小さな鈴が埋まっていた。
こよいはそっと掘り起こし、鈴を掌に載せた。
錆びていたが、振ると微かな音が鳴る。
「まだ、聞いてくれるかな」
こよいは鈴を揺らし、土の神の名を心の中で呼んだ。
返事はない。
けれど、風が鈴の余韻を大事そうに守った。
あさひが背中越しに言った。
「雷は怖いか」
「……うん。でも、それ以上に悲しい」
「俺は雷が嫌いだ。あの日、師匠の家が落雷で燃えた」
あさひは淡々と語った。
「それ以来、空が光ると体が勝手に固くなる」
こよいは黙って火を見つめた。
炎の揺れに、あさひの過去が重なって見える。
誰も守れなかった夜。
だから今は、守るために立っている。
雨が少しだけ弱まった瞬間、こよいは外へ出ようとした。
あさひが腕を掴む。
「危ない」
「……少しだけ。雨の匂いを確かめたい」
戸を開けると、冷たい風が顔を打つ。
山の向こうで、青白い光が渦を巻いているのが見えた。
雲がそこに吸い寄せられている。
こよいは胸が締め付けられ、思わず一歩踏み出した。
その瞬間、雷が落ち、空が裂けた。
あさひが引き戻し、二人は再びお堂の中へ倒れ込んだ。
「……近い。雨の神は、きっと近い」
こよいは息を切らし、巾着を抱いた。
風の神が小さく鳴き、同意するように回った。
火の側に戻ると、あさひが水筒を差し出した。
こよいは一口だけ飲み、喉を潤す。
冷たさが胸の奥まで落ち、心が落ち着いた。
「あした、峠を越える」あさひが言う。「雨が止まなくても、動くしかない」
こよいは頷いた。
雨の神の気配は確かに近づいている。
このまま留まれば、怒りの中心を見失う気がした。
焚き火の火がゆらぎ、煙が天井に溜まる。
外の雨はなお激しく、お堂の屋根を叩き続けていた。
こよいは炭を一本取り、木札の裏に小さく名を書いた。
土守、と。
掠れた文字は頼りないが、忘れないという印だ。
あさひはそれを見て、無言で頷いた。
「記したなら、残る」
その言葉が、こよいの胸に静かに落ちた。
こよいは火の側に身を寄せ、あさひは入口に立ったまま夜を見張る。
短い交代の約束だけ交わし、二人は静かに嵐をやり過ごした。
雨音が一瞬だけ弱まり、遠くの山がぼんやりと見えた。
すぐに雷が空を裂き、また闇が戻る。
こよいはその闇に目を慣らし、朝の匂いを待った。
嵐の夜は、まだ始まったばかりだった。




