第491話 祭壇の氷片
こよいは根の上に座った。
歩き疲れたのではない。座らなければ、この場所を正しく感じられないと思ったのだ。立ったままでは、足裏からしか振動が届かない。座れば、腰と太腿と掌の全部で、根の呼吸を受け取れる。
根の表面はざらついていて、温かかった。乾いた木肌のようでいて、どこか生きた皮膚に似た弾力がある。こよいの体重を受け止めて、わずかに沈み、また押し返してくる。呼吸している、とこよいは思った。根そのものが、一つの大きな肺のように動いている。
巾着を膝の上に置いた。写本を隣に広げた。
三十七の名前が紙の上に並んでいる。最も古い名前と、最も新しい名前。壊れかけていたものと、自分で歩いてきたもの。どれも今は同じ紙の上で、同じ速さで脈を打っている。
名前のない場所に座っているのに、名前たちは消えない。むしろ、ここに来てから脈が強くなった気さえする。名前のない土地が、名前を拒んでいるのではない。迎えているのだ。
こよいは掌を地面に当てた。体温と同じ温度。境界のない温度。触れているのに触れていない感覚。自分の手がどこで終わり、根がどこから始まるのか、分からなくなる。風もないのに、髪が微かに揺れた。地面から立ち上る空気が、こよいの頬を撫でて上へ抜けていく。
だが、さっきとは違うものが伝わってきた。
根の振動の奥に、もう一つの律動がある。根よりも深い場所で、根よりも遅いリズムで、何かが動いている。根を動かしている力そのものの脈。
「久遠」
「聞こえてる」
久遠も地面に膝をついていた。裸眼の右目だけで地面を見つめている。義眼はとうに消してあった。蒼光では捉えられないものがあると、久遠は自分の肌で知ったのだ。
「根の下に、もう一層ある。根を育てている土壌のようなものだ。義眼でも写本でも観測できない。だが、確かにある」
あさひは立ったまま、周囲に目を配っていた。敵がいないと分かっていても、姿勢は崩さない。だが声は穏やかだった。
「こよい。泣いてるぞ」
こよいは頬に手を当てた。濡れていた。いつから泣いていたのか分からない。悲しいのでも嬉しいのでもなかった。ただ、名前のない場所に名前を抱えて座っていることが、身体の奥にある何かを揺さぶっていた。
「泣いてるんじゃない。……滲んでるだけ」
「同じだろ」
あさひは笑わなかった。ただ黙って、こよいの頭上に自分の影を落とした。日差しはないのに、あさひの身体がつくる影だけが地面にあった。名前のない場所でも、身体があれば影はできる。
こよいは涙を拭わず、写本を膝の上に載せ直した。涙が紙の上に一粒落ちた。墨の文字が滲むかと思ったが、名前は濡れた場所をそっと避けて光を保っていた。
「ここに来て、分かったことがある」
久遠が顔を上げた。
「名前って、生まれるものだと思ってた。誰かが付けて、誰かが呼んで、それで初めて名前になるって。でもここは違う」
こよいは地面を撫でた。指の下で、名前のない振動が脈打っている。
「名前になる前の何かが、ずっとここにいたんだ。名付けを待ってるんじゃない。名付けがなくても、最初からいた。名前は、後からこの子たちに着いたものだった」
久遠は長く息を吐いた。その息が白くならないことに、こよいは気づいた。名前のない場所には、温度がない。寒くも暑くもない。ただ、在る。
「目録は名前を記録するものだ。記録されていないものは、目録には存在しない。だが、ここにいる。記録の外にも、世界はある」
「観測者も、設計者も、ここまでは管理できなかったってことだ」
あさひが言った。
「名前のないものは、消せない。漂白も凍結も効かない。名前がないから」
こよいは巾着を持ち上げた。中の神々が穏やかに脈打っている。名前のない場所の振動と、名前を持つ神々の振動が、布を挟んで静かに重なっていた。
対立ではない。対話だった。こよいの膝を通して、二つの振動が緩やかに溶け合っている。
名前のある者と、名前のない場所が、こよいの膝の上で初めて向き合っている。長い時間をかけて離れてしまった二つが、旅の果てにようやく隣り合った。
こよいは立ち上がった。
「行こう。この先に、まだ何かある」
久遠が頷き、膝の土を払った。
あさひが先に歩き出す。布包みの剣が背で揺れ、刀身の鳴る音が布越しに地面へ吸い込まれた。振り返ったあさひの目が、一瞬だけこよいと久遠の位置を確かめた。名前のない場所は、音さえも静かに飲み込んでいく。
三人は名前のない場所を横切った。足跡は残らなかった。踏みしめた地面はすぐに元の姿に戻り、三人が通ったことさえ記憶しない。根の振動だけが、三人の歩みを静かに見送っていた。
歩いた証が地面に残らないぶん、こよいは一歩ごとの感触を覚えようとした。柔らかく沈む場所、乾いた木肌に似た場所、深い律動が強くなる場所。名を付けず、順番だけを胸に置く。振り返ればどれも同じ地面に見えたが、足裏には違いが残っている。それで十分だと、こよいは思った。
琥珀の光が消えた先に、低い祭壇があった。中央には名前のない氷片の原型が置かれ、干潟の灯籠で示された座標と完全に一致している。おたまが祭壇を一周すると、氷片は目録、写本、巾着の三つへ同じ空の拍を返した。
こよいは持ち去らず、氷片の空白へ三十七の脈を一度だけ通した。原型は名を奪う器ではなく、名を受け止めて元帳へ渡す入口だった。観測者はその入口を閉じ、空白を削除へ使っていたのだ。祭壇の下のもう一層とは、元帳へ続く根だった。こよいの通した三十七の脈が、閉ざされた入口を、もう一度、名前を受け止める側へと開いた。




