第490話 琥珀の名
匂いが変わった。
それまでの、乾いた紙と古い革の混じった空気が、ふいに途切れた。代わりに鼻の奥を撫でたのは、雨が降る直前の土に似た匂いだった。湿り気を帯びているのに重くない。むしろ透き通るような、若い匂い。長い間乾いた空気の中を歩いてきた三人の鼻には、その匂いはやけに鮮烈に届いた。
こよいは足を止め、鼻で息を吸った。
「……何だろう、この匂い」
「俺も拾った。金属でも紙でもない。植物に近いが、花じゃない」
あさひが剣の柄から手を離し、掌を上に向けた。空気の湿度を確かめている。指の腹が空気を掬うように動き、見えない粒子を捕まえようとしていた。
久遠は目録を開かなかった。開いても、もう座標は出ない。代わりに義眼だけを点灯させ、周囲を見回した。蒼光は相変わらず何も映さないが、光の散り方がさっきまでと違う。蒼い筋がまっすぐ進まず、途中で微かに曲がっている。何かに屈折させられている。
「散乱が変わった。光が何かに当たってる。だが形状は読めない」
「見えないのに、ある」
「ああ。ここには何かがいる。いるのに、名前がない」
名前がない、という言葉に、こよいの巾着が反応した。布越しに、神々がひとつ跳ねる。痛みの脈ではない。驚きに近い鼓動だった。布が内側から押され、すぐに戻る。名前を持つ者が、名前のない存在に出会ったときの反応だった。
「神々が跳ねた。名前に反応してるんじゃなくて、名前がないことに反応してる」
こよいは巾着を両手で包み、脈の形を確かめた。これまで集めてきた三十七の名前は、すべて一度は名付けられた存在だった。忘れられたか、削られたか、摩耗したかの違いはあっても、最初に名を持っていたことだけは共通している。
ここは違う。
足元の地面が柔らかくなっていた。踏むとわずかに沈む。水気を含んだ土に近い感触だが、靴底に泥は付かない。沈んだ分だけ地面が押し返し、足を上げると元の高さに戻る。
こよいは屈み、指先で地面に触れた。
冷たくない。温かくもない。ちょうど体温と同じ温度。境界のない温度だった。指先と地面の間に、温度差がない。触れているのに触れていないような、不思議な感覚だった。
「根だ」
久遠が静かに言った。
「義眼では見えない。だが足裏から伝わる振動がある。地中に根が走ってる。太い根じゃない。細い、産毛みたいな根が密に絡んでいる」
久遠が片膝をつき、掌を地面に当てた。義眼の蒼光が消え、裸眼だけで地面を見つめている。見えないものを、見る以外の方法で感じ取ろうとしていた。
こよいは掌を地面に当てたまま、目を閉じた。
振動がある。微かで、一定ではない。呼吸のように膨らんだり縮んだりしている。
「生きてる」
「生きてるなら、起点がある。根にはどこかに始まりがあるはずだ」
あさひが前方を指した。鼻先を上げ、匂いの濃い方角を探っている。
「あっち。匂いが濃い」
三人は匂いを辿った。
歩くごとに、足元の感触が変わっていく。硬い地面から、柔らかい土のような層へ。やがて足の裏に、根の存在がはっきりと伝わり始めた。靴底を通して、細い脈動が指先まで上がってくる。
空気の匂いが濃くなった。土と水と、名前のない植物が混ざったような、古いのに新しい匂い。呼吸するたびに、肺の奥まで匂いが染みる。
こよいの目に、何かが映った。
地面から、薄い光が滲んでいる。金色ではない。銀でもない。色の名前がつけられない光だった。根が地表に近い場所で密集し、その接触点から光が漏れている。
「これが……根脈の起点?」
久遠が膝をつき、裸眼で地面を見た。義眼を補助にせず、自分の目だけで見ている。
「断定はできない。だが、ここの根は他のどの場所よりも細く、密度が高い。末端ではなく、中心の構造だ」
こよいは写本を膝の上に広げた。三十七の名前が並ぶ頁の端が、微かに揺れている。風はないのに。根の振動が、紙に伝わっているのだ。紙の繊維が根の脈動を受け取り、文字の一つ一つが微かに震えていた。
「写本の名前たちが、この場所を知ってる」
「知ってるんじゃねえ。覚えてるんだ。身体で」
あさひの声は低かった。
こよいは頁に指を置いた。三十七の名前のうち、最も古い名が微かに光っている。地面の根と同じ、名前のない色の光。
「この名前、ここから来たのかもしれない」
「名前のない場所から、名付けられた世界へ出て行った」
久遠が静かに立ち上がった。膝に付いた土を払わずに、まっすぐ前を見ている。
「漂白で消されたのではない。削られたのでもない。ここにあるのは、最初から名前がなかった場所だ。名前という概念が生まれる前の場所」
こよいは地面に掌を当てたまま、目を開けた。
名前のない場所。名付けの始まる前。すべての根が、ここから伸びていった。
巾着の中の神々が、静かに脈打っていた。跳ねるのではなく、深い場所で、ゆっくりと。根の振動と同じリズムで。
「怖くないよ」
こよいは掌を地面から離し、立ち上がった。
「名前がないって、何もないってことじゃなかった。名前になる前の何かが、ここにはある」
あさひが剣の柄に手を戻した。戦いの構えではなく、杖のように体重を預ける姿勢。
「先に行くか」
「行く」
こよいは頷いた。
三人は名前のない場所を歩いた。
足元の根が脈打ち、匂いが道を示し、名のない光が足跡を照らす。記録できない場所を、記録を抱えたまま歩いている。
こよいは写本を胸に抱えた。白紙の頁が、根の振動を受けて小さく震えている。
まだ書かれていない名前が、紙の向こう側で待っている気がした。
そのとき、おたまの髭の先に琥珀色の光が灯った。文字にならず、写本にも入らない。名付け以前の存在が、猫の輪郭を借りてこちらを見ている光だった。こよいは文字を与えず、頁の端を指でなぞるだけにした。「記録がないってことは、失われてもいない」。光は三十七の名を琥珀色に包み、根のさらに先へ進む方角を示した。




