第492話 祭壇の炎
地面の温度が変わった。
名前のない場所では体温と同じだった地面が、一歩ごとにわずかに冷たくなっていく。靴底を通して伝わる温度の降下が、こよいの足裏に距離を教えていた。名前のない場所から、離れている。
根の振動も薄くなった。産毛のような細い根の気配が、指先から引いていく。巾着の布を通して伝わっていた脈が、遠くなる。根が支えてくれていた温もりを、一歩ごとに手放している感覚だった。代わりに、地面そのものの硬さが戻ってきた。鋼ではない。石でもない。何でできているのか分からない、乾いた硬さ。
空気が澄んでいた。匂いがない。名前のない場所にあった土の匂いも、根の匂いも、ここにはない。清浄を通り越して、空虚な空気だった。吸い込んでも肺が満たされた気がしない。空気はあるのに、空気の質感がない。呼吸をしているという実感だけが薄くなっていく。
「薄くなってる」
久遠が足を止めた。裸眼で前方を見ている。
「何が」
「全部だ。地面も、空気も、光も。情報の密度が極端に下がっている。ここは世界の最も外側に近い」
こよいは足元を見た。地面に模様が刻まれていた。円と直線を組み合わせた幾何学的な文様。だがその線は太く始まり、進む方向に向かって細くなっている。線の先端は霞のように薄れ、やがて地面の色と見分けがつかなくなっていた。
「道の終わりが見える」
あさひが前方を指した。
地平線ではなかった。空と地面の境が、ただぼやけている。遠くに行くほど輪郭が曖昧になり、世界の縁が溶けるように消えていく。境界線が消えると、距離の感覚も消える。あと何歩で端に届くのか、十歩なのか千歩なのか、目だけでは判断できなかった。
「端だ」
久遠が静かに言った。
こよいの胸で、巾着が小さく脈打った。名前のない場所を通り抜けてきた神々が、ここで再び反応している。だが脈の質が違った。警戒でも歓喜でもない。確認するような脈。ここがどこなのかを、名前たちが身体で測っている。
「怖い?」
あさひがこよいを見た。
「……怖くない。でも、寂しい」
「寂しい?」
「だって、ここまで来たら、もう誰もいない。名前のない場所には、名前になる前の何かがいた。でもここは、それすらいない。本当に何もない」
声が空気を揺らした。だが揺れた空気がどこにも当たらず、ただ広がって薄くなっていく。反響がない。壁も天井も地面すらも、音を返す力を持っていない。こよいの声は、投げた石が水面に沈むように、静寂の底へ落ちた。
久遠が歩きながら言った。
「何もないのではない。世界が始まる前の場所だ。何もないのではなく、まだ何も始まっていない」
こよいは写本を胸に抱えた。三十七の名前が、紙の上で静かに光っている。この光が、ここに存在する唯一の名前だった。
あたりは静まり返っていた。自分の呼吸すら遠く感じる。声を出せば届くのだろうか。声が空気を震わせ、空気が耳に届くまでの、あの当たり前の物理が、ここでも機能しているのかどうか分からなかった。
「久遠」
こよいは小さく呼んだ。
「ここにいる」
声は届いた。近くで、はっきりと。
「あさひ」
「聞こえてるよ」
あさひの声は低く、温かかった。
三人の声だけが、この場所に色を落としている。声は名前を運ぶ器だから。名前を持つ者が声を出せば、その声は名前の力で空気を震わせる。何もない場所でも。
こよいは足を止めなかった。地面の文様が完全に消え、つるりとした面だけが続いている。足裏の感覚が薄い。歩いているのか、滑っているのか、境が分からない。靴底が地面に触れる音すら頼りなく、一歩を踏み出したという手応えが、踏み出すたびに減っていく。
あさひが振り返らずに右手を伸ばした。剣の柄ではなく、何もない空間を掴むように、指を広げている。
「手、繋いどけ。はぐれたら探しようがない」
こよいはあさひの手を取った。乾いた、硬い手のひらだった。剣の柄を握り続けた掌の、厚い皮膚の温度がこよいの指に伝わった。ここに人がいる。それだけで、足裏の感覚が少しだけ戻った。
前方の景色がさらに薄くなった。空の色が灰色から、白に近づいている。白ではない。色がないのだ。名前のない色。
久遠が足を止めた。裸眼の右目を細め、前方の薄い空間を見つめている。
「ここから先は、俺にも見えない。義眼でも裸眼でも同じだ。見るべきものが、まだ生まれていない」
こよいは巾着を胸に押し当てた。三十七の名前が、かすかに震えている。怯えではなかった。知らない場所に来たときの、身体を縮めるような緊張だった。布の温もりだけが、この場所にも変わらず在る。
不意に、足元で光が瞬いた。
地面の色と見分けがつかないほど薄い光が、二つ、こよいの靴先に寄っていた。世界が薄くなった場所に残された、最後の名前の欠片だった。形はほとんど崩れている。文字の輪郭は消えかけ、光だけがかろうじて脈打っている。
こよいは屈んで手を差し出した。光が指先に触れた。微かに温かく、かすかに震えていた。
写本の頁に載せると、二つの光は文字の形を途中まで取り戻した。まだ読めず、柱としては数えない。復元待ちの欠片が届いたことを、三十七の脈が共有するように微かに揺れた。
そして、静けさが降りた。
音が消えたのではない。静けさそのものが、一つの存在として、三人の前に横たわった。その静けさの重さが肌に触れ、こよいは巾着を握る指に力を込めた。
祭壇の氷片を通った三十七の脈は、元帳へ届く細い炎になっていた。おたまの小鈴が火種を揃え、二つの未完成な欠片は炎の外で守られる。まだ上書きは始めない。全員の同意を保ったまま中枢へ運ぶための「祭壇の炎」だった。




