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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第481話 灯籠の原型

挿絵(By みてみん)


海(うみ)の底が、光り始めた。


 足元の水面(みなも)の下に、光の粒が見え始めた。


 砂のように細かい光が、海(うみ)の底で緩やかに動いている。流れている。一定の方向に、ゆっくりと。島(しま)の方角だった。


 「底にも名前がある」


 こよいが呟(つぶや)いた。水面(みなも)を透かして見える光の粒は、歯車の部屋で見た文字の断片に似ていた。ひらがなの一画(いっかく)、あるいは一文字分の光が、水中を漂(ただよ)いながら島(しま)に向かっている。


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で底の光を読んだ。


 「名前の沈殿(ちんでん)物だ。情報の海(うみ)に流れ着いた名前が、ここまで沈んでいる。歯車の演算(えんざん)から弾かれた名前、漂白(ひょうはく)で溶かされた名前、凍結(とうけつ)から解(と)けて流れ着いた名前。全てがここに堆積(たいせき)している」


 「全部?」


 「記録の海(うみ)は、名前の最終到達地点〈さいしゅうとうたつちてん〉だ。どこにも残れなかった名前が、最後に辿(たど)り着く場所。あの島(しま)は——この海(うみ)の中心にある」


 こよいは水面(みなも)を見つめた。自分の足が踏んでいる場所の下に、数え切れない名前が沈んでいる。声も形も失い、光の粒になって海底(かいてい)を漂(ただよ)っている。誰にも呼ばれず、誰にも拾われず、ただ島(しま)に向かって流れ続けている。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々が沈黙していた。さっきまで微かに脈打っていた四柱(よはしら)が、今は息を潜めている。海底(かいてい)の名前たちの気配に圧倒(あっとう)されているのか。それとも、同じ場所に落ちかけた記憶が、神々の中にもあるのか。


 「歩け」


 あさひが背後から声をかけた。低い声だが、鋭さはない。こよいが立ち止まりかけていたのを見て、先に言った。


 「見てると沈む。考えてると沈む。歩いてろ」


 久遠(くおん)が立ち上がった。


 「あさひの言う通りだ。情報の海(うみ)は注意を引く。見つめすぎると、意識ごと底に引かれる。名前に感情移入するな。少なくとも、今は」


 こよいは頷き、歩き出した。水面(みなも)が靴底の下で沈み、戻る。冷たさが足裏を刺す。その繰り返しに意識を集中し、底の光を見ないようにした。


 だが見えてしまう。


 足を置くたびに、水面(みなも)が揺れ、底の光が乱れる。乱れた光の中に、時折、読める文字が浮かぶ。二文字の組み合わせ。三文字の組み合わせ。名前だった名前。名前になれなかった名前。文字が水流(すいりゅう)に揉まれて離合(りごう)を繰り返し、一瞬だけ意味を持ち、すぐに散る。


 「……聞こえる」


 こよいの口から、小さな声が漏れた。


 「何が」


 久遠(くおん)が振り返った。


 「声。すごく小さい声。水の中から。——呼んでる」


 久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が蒼く光った。こよいの耳元に蒼光(そうこう)を当て、聴覚域(ちょうかくいき)を走査(そうさ)する。


 「海(うみ)の振動が鼓膜(こまく)に達している。情報が音に変換されて聞こえるのだろう。こよいの感受性なら拾える範囲だ」


 「声なの。名前が声になってるの。底から、ぼくを呼んでる」


 こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめた。水面(みなも)の下の声が、こよいの名前を呼んでいるのではない。名前たちが、自分の名前を呼んでほしいと訴えているのだ。拾ってほしい。読んでほしい。もう一度、声にしてほしい。


 「応えるな」


 久遠(くおん)の声が硬くなった。


 「今ここで応えれば、底の名前が一斉にこよいに集まる。数が多すぎる。受け止めきれない。こよいの輪郭(りんかく)が溶ける」


 「でも」


 「島(しま)に着けば方法がある。今は歩け」


 あさひがこよいの肩に手を置いた。大きな掌(てのひら)が肩を掴み、前に押す。物理的な力で、意識を底から引き剥がした。


 「聞こえても返すな。返すのは着いてからだ」


 こよいは歯を食いしばった。底から聞こえる声を無視するのが、これほど辛いとは思わなかった。名前を拾う旅をしてきた。一つ残らず拾い上げて、声にして、返してきた。それなのに今、足の下で声を上げている名前に応えられない。


 涙が出そうになった。堪(こら)えた。泣けば水分が水面(みなも)に落ち、情報の海(うみ)と混じる。それが何を引き起こすか分からなかった。


 三人は黙って歩いた。


 水面(みなも)の下の光が次第に強くなっていく。底の名前の密度(みつど)が上がっている。島(しま)に近づいているのだ。光が強くなるほどに、声も大きくなった。こよいの鼓膜(こまく)の奥で、無数の声がざわめいている。一つ一つは微かだが、重なると低い唸(うな)りになる。


 島影(しまかげ)が、大きくなっていた。


 水平線(すいへいせん)にかろうじて見えていた黒い影(かげ)が、今は明確な輪郭(りんかく)を持っている。低い島(しま)だった。標高は高くない。だが横に広い。水面(みなも)からわずかに頭を出した、扁平(へんぺい)な黒い陸地。


 「形がある」


 久遠(くおん)が目を細めた。


 「あの島(しま)は自然地形ではない。人工物だ。いや——名前が堆積(たいせき)して形成された構造体だ。海底(かいてい)に沈んだ名前が、長い年月をかけて積み重なり、海面から頭を出したものだ」


 「名前でできた島(しま)」


 こよいの声が震えた。


 足の下の声が、急に静かになった。さっきまでざわめいていた底の名前たちが、一斉に黙った。何かを待っているような沈黙。島(しま)に近づいた来訪者(らいほうしゃ)を、底から見上げているような。


 波がひとつ、島(しま)の方角から押し寄せた。低い波だったが、足元を通過する瞬間に冷たさが骨を刺し、写本(しゃほん)の名前たちが一斉に震えた。


 「応えてる」


 こよいが言った。


 「島(しま)が、ぼくたちに気づいた」


 水面(みなも)の色が変わった。灰青色(かいせいしょく)の中に、黒い筋(すじ)が一本、島(しま)からこよいの足元まで走った。道のように。底の名前たちが、光を消して一列に並び、黒い道を作っている。


 「案内されてる」


 久遠(くおん)が黒い筋(すじ)を見た。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が筋(すじ)を透過し、底の構造を読む。


 「名前たちが道を作った。底の名前が光を消し、そこだけ水面(みなも)の密度が下がっている。この道に沿って歩けば、沈まない」


 あさひが黒い筋(すじ)の上に足を乗せた。水面(みなも)が沈まなかった。普通の場所より硬い。底の名前たちが身を寄せ合って、足場を固めているのだ。


 「歩ける。しっかりしてる」


 あさひが頷いた。


 三人は黒い道に沿って進んだ。島は岩ではなく、名前の結晶が重なり合った構造体だった。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱えた。神々の脈動が戻っていた。静かだが、確かに脈打っている。島(しま)の方を向いて。


 島(しま)の岸辺が見えた。黒い岸辺に、波が寄せている。波が引くたびに、岸辺の表面に文字が浮かぶ。ここも石浜(いしはま)と同じだった。水に触れたときだけ、名前が顔を見せる。


 巾着(きんちゃく)が温かくなった。四柱(よはしら)の脈動が揃い、島(しま)の方角に向かって一つのリズムを刻んでいる。雨の神が先導するように強く打ち、風の神がそれに合わせ、月の神と硝子(びいどろ)の神が静かに後を追う。初めて聞く拍子だった。帰還(きかん)のリズムだ、とこよいは思った。


 あと数歩で、島(しま)に足がつく。


 こよいは一歩を踏み出した。水面(みなも)が靴底の下で沈み、戻らなかった。足が固い地面に触れた。


 島に着いた。


 底の名前たちの声が、再び聞こえた。

 今度は叫びではなく、穏やかな唸(うな)りだった。

 歓迎されている、と思った。


 岸の中央には、おたまが先に見つけた窪(くぼ)みがあった。灯籠の火皿と同じ形だが、石より古く、名の結晶そのものが器を作っている。久遠は、干潟の「記録の灯」がこれを模したものだと気づいた。名を沈めるためではなく、散った名を集めて再び照らすための原型だった。


 おたまが窪みに座ると小鈴が鳴り、海底の声は一柱ずつ聞き分けられる間隔へほどけた。島に着けば応える方法がある、という約束が形になった。

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