第482話 空白の風
風が変わった。
それまで吹いていた潮風が止み、代わりに別のものが頬を撫でた。砂の風でも、海の風でもない。温度がない。湿り気もない。触れた場所だけが、わずかに白く褪せる。
こよいは肩をすくめた。
「寒い」
だが寒さとは違った。冷たさではなく、空っぽの感覚だ。何かが抜けていく。風が通った場所から、色が薄くなっている。
久遠が足を止め、地面を見た。
砂浜に刻まれていた文字の跡が、風の通った筋に沿って白く消えていた。風が通る前と後で、砂の色が違う。風の通り道だけが、漂白されたように白い。
「空白だ」
久遠が言った。
「風に乗って、空白が運ばれている。これは普通の風じゃない。記録を消す力を持った空気の流れだ。風が通った場所から、文字が消え、色が消え、匂いが消える」
あさひが布越しに剣を握った。
「切れるか」
「風は斬れない」
「だろうな」
あさひは舌打ちし、風の方向を目で追った。北東から吹いている。一定の間隔で、強くなったり弱くなったりを繰り返している。呼吸のようなリズムだった。
こよいは巾着を胸に抱えた。神々が脈打っている。風が布に触れるたびに、巾着の表面が白く褪せていく。中の神々まで消されるのではないかという恐怖が、胸の底を突いた。
「動け」
久遠が短く言った。
「空白の風は、動いているものより、止まっているものを先に消す。止まった瞬間、記録が固定される。固定された記録は、風に削られやすい」
三人は歩き出した。
風を正面から受けないよう、横向きに進む。久遠が先頭で風の流れを読み、あさひが後方を固め、こよいが中央で巾着を守った。
風がまた吹いた。
今度は強い。砂が舞い上がり、白い粒が三人の間を通り抜けていく。地面の文字が、風の筋に沿って一行ずつ消えていった。さっきまで読めていた石板の文字が、目の前で白紙に戻っていく。
こよいは振り返った。
足跡が消えている。三人が歩いてきた道の砂が、風に均されて平らになっている。最初から誰も歩いていなかったかのように、砂浜は無垢な白に戻っていた。
「足跡も消すのか」
あさひが低く唸った。
「記録になるものは全部だ」
久遠が前を向いたまま答えた。
「足跡は通過の記録。砂に残った窪みは重さの記録。風は、この場所に何かが存在したという証拠を、片端から消していく」
こよいは走りたくなった。この風から逃げ出したかった。だが走れば息が荒くなり、呼吸の音が大きくなる。音も記録だ。
久遠が立ち止まった。
風の方向が変わった。北東から吹いていたはずの風が、急に西から来ている。三人の正面を塞ぐように。
「回り込まれた」
あさひが剣の柄に手をかけた。斬れないとわかっていても、構えずにはいられない。
久遠は目を閉じた。風を肌で感じている。方向だけではない。風の密度を測っている。空白の濃さ。削る力の強さ。
「南に抜ける。南だけ、風が薄い」
久遠が指で方向を示した。
三人は向きを変え、南へ走った。
走る。足裏に砂の感触がある。踏むたびに砂が鳴る。その音が背後で消えていく。自分が立てた音を、風が追いかけて消している。音の足跡を追う獣のように、風が背中から迫ってくる。
こよいは巾着を片手で押さえ、もう片方の手で写本を胸に挟んだ。写本の表紙が風に触れ、端から白く褪せていく。文字が消えかけている。久遠が灯籠で読み取った記録を書き写した、あの写本が。
「久遠くん、写本が」
「走れ。止まるな」
久遠の声に余裕がなかった。
目録も同じだ。久遠が胸に抱いた目録の表紙が、金色から白へ変わりかけている。風が記録を消すなら、目録も写本も例外ではない。
あさひが先頭に出た。大剣を横に構え、風を身体で受け止めている。風は刃を避けない。だが、あさひの身体が壁になり、その背後の空間だけは風が弱まった。
「俺の後ろを走れ」
あさひの声は短く、硬かった。
こよいと久遠はあさひの影に入り、風を避けながら走った。あさひの背中が白く褪せていく。外套の色が抜け、肩の布地が紙のように薄くなっている。風を受け止めるたびに、あさひの記録が削られている。
「あさひ」
「黙って走れ」
南に岩場が見えた。
風が通れない場所。岩と岩の隙間に身体を滑り込ませれば、風を遮れる。久遠が先に岩陰に飛び込み、こよいを引っ張り込んだ。あさひが最後に入り、背中で入口を塞いだ。
風が岩に当たり、甲高い音を立てた。
だが岩の中までは入ってこない。音だけが通り抜けていく。
三人は肩で息をした。
こよいは写本を確認した。端の文字が薄くなっている。消えかけているが、まだ読める。久遠の目録も、表紙の金色が大部分残っていた。間に合った。
あさひは背中を岩に預け、外套の袖を見た。色が半分ほど抜けている。白くなった布地が、風にさらされた証拠だった。
「消えかけてるぞ、俺の服」
あさひが鼻で笑った。
「服は替えがきく」
久遠が息を整えながら言った。
「だが、記録は替えがきかない。風が止まるまで、ここで待つ」
こよいは巾着を開いた。神々が淡い光を放っている。温もりがある。風に触れたはずの巾着の内側は、白く褪せていなかった。神々の温もりが、空白を押し返していたのかもしれない。
雨の神が湿った膜のように布の内側を覆い、風の神が小さな渦で空白の粒子を弾いていた。月の神は淡い光で巾着の縁を照らし、硝子の神は透明な壁のように、名前たちの間に薄い隔てを張っている。四柱がそれぞれの力で、内側を守っていた。
三人は岩陰に身を寄せ、風が止むのを待った。
岩の外では、空白の風がなおも吹いている。砂浜を白く塗り替え、記録を一つずつ消していく。だが岩の内側には、三人の呼吸と、神々の温もりと、まだ消えていない記録が残っている。
風は通り過ぎる。いつか止む。
それまで、ここにいる。
こよいは巾着を握りしめ、神々の脈に耳を澄ませた。遠くで風が唸っている。その音の向こうに、かすかに波の音が混じり始めていた。
おたまは岩陰のいちばん奥で、消えかけたあさひの外套へ身体を押しつけていた。猫の三毛は空白の風にも失われず、その色を目印に三人は互いの輪郭を確かめた。




