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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第482話 空白の風

挿絵(By みてみん)


風が変わった。


 それまで吹いていた潮風が止み、代わりに別のものが頬(ほお)を撫(な)でた。砂(すな)の風でも、海(うみ)の風でもない。温度がない。湿り気もない。触れた場所だけが、わずかに白く褪(あ)せる。


 こよいは肩をすくめた。


 「寒い」


 だが寒さとは違った。冷たさではなく、空(から)っぽの感覚だ。何かが抜けていく。風が通った場所から、色が薄くなっている。


 久遠(くおん)が足を止め、地面を見た。


 砂浜(すなはま)に刻まれていた文字の跡が、風の通った筋に沿って白く消えていた。風が通る前と後で、砂(すな)の色が違う。風の通り道だけが、漂白(ひょうはく)されたように白い。


 「空白だ」


 久遠(くおん)が言った。


 「風に乗って、空白が運ばれている。これは普通の風じゃない。記録(きろく)を消す力を持った空気の流れだ。風が通った場所から、文字が消え、色が消え、匂いが消える」


 あさひが布越しに剣を握った。


 「切れるか」


 「風は斬れない」


 「だろうな」


 あさひは舌打ちし、風の方向を目で追った。北東から吹いている。一定の間隔で、強くなったり弱くなったりを繰り返している。呼吸(こきゅう)のようなリズムだった。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱えた。神々が脈打っている。風が布に触れるたびに、巾着(きんちゃく)の表面が白く褪(あ)せていく。中の神々まで消されるのではないかという恐怖が、胸の底を突いた。


 「動け」


 久遠(くおん)が短く言った。


 「空白の風は、動いているものより、止まっているものを先に消す。止まった瞬間、記録(きろく)が固定(こてい)される。固定(こてい)された記録(きろく)は、風に削られやすい」


 三人は歩き出した。


 風を正面から受けないよう、横向きに進む。久遠(くおん)が先頭で風の流れを読み、あさひが後方を固め、こよいが中央で巾着(きんちゃく)を守った。


 風がまた吹いた。


 今度は強い。砂(すな)が舞い上がり、白い粒が三人の間を通り抜けていく。地面の文字が、風の筋に沿って一行ずつ消えていった。さっきまで読めていた石板(せきばん)の文字が、目の前で白紙に戻っていく。


 こよいは振り返った。


 足跡(あしあと)が消えている。三人が歩いてきた道の砂(すな)が、風に均(なら)されて平らになっている。最初から誰も歩いていなかったかのように、砂浜(すなはま)は無垢(むく)な白に戻っていた。


 「足跡(あしあと)も消すのか」


 あさひが低く唸(うな)った。


 「記録(きろく)になるものは全部だ」


 久遠(くおん)が前を向いたまま答えた。


 「足跡(あしあと)は通過の記録(きろく)。砂(すな)に残った窪(くぼ)みは重さの記録(きろく)。風は、この場所に何かが存在したという証拠(しょうこ)を、片端から消していく」


 こよいは走りたくなった。この風から逃げ出したかった。だが走れば息が荒くなり、呼吸(こきゅう)の音(おと)が大きくなる。音(おと)も記録(きろく)だ。


 久遠(くおん)が立ち止まった。


 風の方向が変わった。北東から吹いていたはずの風が、急に西から来ている。三人の正面を塞(ふさ)ぐように。


 「回り込まれた」


 あさひが剣の柄(つか)に手をかけた。斬(き)れないとわかっていても、構えずにはいられない。


 久遠(くおん)は目を閉じた。風を肌で感じている。方向だけではない。風の密度(みつど)を測っている。空白の濃さ。削る力の強さ。


 「南に抜ける。南だけ、風が薄い」


 久遠(くおん)が指で方向を示した。


 三人は向きを変え、南へ走った。


 走る。足裏に砂(すな)の感触(かんしょく)がある。踏むたびに砂(すな)が鳴る。その音(おと)が背後で消えていく。自分が立てた音(おと)を、風が追いかけて消している。音(おと)の足跡(あしあと)を追う獣(けもの)のように、風が背中から迫ってくる。


 こよいは巾着(きんちゃく)を片手で押さえ、もう片方の手で写本(しゃほん)を胸に挟(はさ)んだ。写本(しゃほん)の表紙が風に触れ、端から白く褪(あ)せていく。文字が消えかけている。久遠(くおん)が灯籠(とうろう)で読み取った記録(きろく)を書き写した、あの写本(しゃほん)が。


 「久遠(くおん)くん、写本(しゃほん)が」


 「走れ。止まるな」


 久遠(くおん)の声に余裕がなかった。


 目録(もくろく)も同じだ。久遠(くおん)が胸に抱いた目録(もくろく)の表紙が、金色から白へ変わりかけている。風が記録(きろく)を消すなら、目録(もくろく)も写本(しゃほん)も例外ではない。


 あさひが先頭に出た。大剣を横に構え、風を身体で受け止めている。風は刃(やいば)を避けない。だが、あさひの身体が壁になり、その背後の空間だけは風が弱まった。


 「俺の後ろを走れ」


 あさひの声は短く、硬かった。


 こよいと久遠(くおん)はあさひの影(かげ)に入り、風を避けながら走った。あさひの背中が白く褪(あ)せていく。外套(がいとう)の色が抜け、肩の布地が紙のように薄くなっている。風を受け止めるたびに、あさひの記録(きろく)が削られている。


 「あさひ」


 「黙って走れ」


 南に岩場が見えた。


 風が通れない場所。岩と岩の隙間に身体を滑り込ませれば、風を遮(さえぎ)れる。久遠(くおん)が先に岩陰(いわかげ)に飛び込み、こよいを引っ張り込んだ。あさひが最後に入り、背中で入口を塞(ふさ)いだ。


 風が岩に当たり、甲高い音(おと)を立てた。


 だが岩の中までは入ってこない。音(おと)だけが通り抜けていく。


 三人は肩で息をした。


 こよいは写本(しゃほん)を確認した。端の文字が薄くなっている。消えかけているが、まだ読める。久遠(くおん)の目録(もくろく)も、表紙の金色が大部分残っていた。間に合った。


 あさひは背中を岩に預け、外套(がいとう)の袖(そで)を見た。色が半分ほど抜けている。白くなった布地が、風にさらされた証拠だった。


 「消えかけてるぞ、俺の服」


 あさひが鼻で笑った。


 「服は替えがきく」


 久遠(くおん)が息を整えながら言った。


 「だが、記録(きろく)は替えがきかない。風が止まるまで、ここで待つ」


 こよいは巾着(きんちゃく)を開いた。神々が淡い光を放っている。温もりがある。風に触れたはずの巾着(きんちゃく)の内側は、白く褪(あ)せていなかった。神々の温もりが、空白を押し返していたのかもしれない。

 雨の神が湿った膜(まく)のように布の内側を覆(おお)い、風の神が小さな渦で空白の粒子(りゅうし)を弾いていた。月の神は淡い光で巾着(きんちゃく)の縁(ふち)を照らし、硝子(びいどろ)の神は透明な壁のように、名前たちの間に薄い隔(へだ)てを張っている。四柱がそれぞれの力で、内側を守っていた。


 三人は岩陰(いわかげ)に身を寄せ、風が止むのを待った。


 岩の外では、空白の風がなおも吹いている。砂浜(すなはま)を白く塗り替え、記録(きろく)を一つずつ消していく。だが岩の内側には、三人の呼吸(こきゅう)と、神々の温もりと、まだ消えていない記録(きろく)が残っている。


 風は通り過ぎる。いつか止む。


 それまで、ここにいる。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめ、神々の脈に耳を澄(す)ませた。遠くで風が唸(うな)っている。その音(おと)の向こうに、かすかに波の音(おと)が混じり始めていた。


 おたまは岩陰のいちばん奥で、消えかけたあさひの外套へ身体を押しつけていた。猫の三毛は空白の風にも失われず、その色を目印に三人は互いの輪郭を確かめた。

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