第478話 露岬の背
露岬の背後、その地下へ張り出した歯車の平原は、歩くほどに密度を増した。
最初は地面に散らばる小さな歯車だけだった。靴底で踏めるほどの径で、噛み合いもせずに転がっているだけのものが多かった。だが百歩も進むと、歯車の大きさが変わった。腰の高さまであるものが現れ、その隣に人の背丈を超えるものがそびえ、さらに奥には建物ほどの歯車が低い唸りを上げながら回転していた。
足裏に伝わる振動が、一歩ごとに重くなっていく。
「地面が歯車だ」
こよいが足元を見た。踏んでいるのは石でも土でもない。巨大な歯車の表面だった。足元の鋼が微かに動いている。歯車が回転しているのだ。ただし速度が極めて遅く、一日で数度しか動かないほどの緩慢さだった。その上を歩いている。歯車の上で、もっと小さな歯車が回り、その上でさらに小さな歯車が回っている。入れ子構造だった。
久遠が膝をついた。義眼の蒼光を鋼の表面に押し当て、歯車の刻印を読む。
「文字がある。歯の一つ一つに、ひらがなが刻まれている」
「名前?」
「名前の素材だ。完成した名前ではない。一文字ずつの、原料。歯車が回転するたびに文字の組み合わせが変わり、名前の候補を生成している。ここは名前の製造工程の最外殻だ」
あさひが大剣の柄に手をかけた。
「敵は」
「いない。ここに意志はない。機構があるだけだ。歯車は命令で動いているのではなく、最初に与えられた設計図に従って、永遠に回り続けている」
「永遠」
あさひが顔をしかめた。あさひは永遠という言葉を好まない。終わらないものは、斬れないものと同義だから。
三人は歯車の隙間を縫って進んだ。通れる場所は限られていた。歯車と歯車の間に人が歩ける幅の隙間があるが、歯車の回転によって隙間の位置が常に変わっている。さっき通れた場所が、数歩後には閉じている。別の場所が開いている。歯車の呼吸に合わせて、通路そのものが移動していた。
あさひは歯車の間に大剣を横にして構え、歯の回転に巻き込まれないよう身を低くした。鋼の歯先が頭上を通過するたびに、金属の風が髪を撫で、冷たさが頭蓋を突いた。この機構は人間のために作られていない。名前のために作られている。人間が通ることなど、設計の外側にある。
「リズムを読め。開閉の周期は一定だ」
久遠が前方の歯車を見ながら言った。義眼が歯の回転速度を計測し、次に隙間が開くタイミングを割り出している。
「三拍後に右が開く。五拍で閉じる。その間に通れ」
あさひが先に駆けた。鋼の歯が背後で噛み合い、金属の衝撃音が平原に響いた。こよいが続く。風が歯車の間を吹き抜け、鉄の匂いが鼻腔を焼いた。久遠が最後に滑り込み、三人とも次の空間に出た。
空間は円形だった。
周囲を大型の歯車が囲み、壁のように聳えている。その壁が回転し、壁自体が歯車の一部であることが分かった。円形の空間は、歯車の噛み合わせによって偶然生まれた隙間だった。次の回転で消える可能性がある。
「長居するな。この空間は三十拍で閉じる」
久遠が周囲の歯車の速度を計測し、残り時間を算出していた。
こよいは空間の中央に立った。足元の鋼に、文字が浮かんでいる。周囲の歯車が回転するたびに、歯に刻まれた文字が次々と視界を横切っていく。「か」「の」「み」「あ」「つ」「め」——ばらばらの文字が高速で流れ、時折、意味のある組み合わせが一瞬だけ現れて消える。
巾着が反応した。
布の中で神々が震えている。歯車に刻まれた文字に、自分たちの名前の断片を見つけたのだ。雨の神の名前を構成する文字が、目の前の歯車の歯に刻まれて回っている。風の神も、月の神も、硝子の神も。名前を構成するひらがなの一つ一つが、この巨大な機構の中に原料として組み込まれている。
「ここで作られたんだね」
こよいが呟いた。
「この歯車が、ぼくの神様たちの名前を組み上げた」
久遠が頷いた。
「あらゆる名前は、ここで生成される。文字を組み合わせ、意味を付与し、器に注ぐ。その工程の最初がここだ。名前の鋳造所と言っていい」
こよいは巾着を胸に抱いた。温もりが手のひら全体に広がった。神々が、自分の生まれた場所を認識している。怯えでも懐かしさでもない。もっと根源的な反応だった。骨が骨の素材を前にしたときの、無言の共鳴。
「残り十拍」
久遠が声を上げた。
円形の空間の壁が、目に見える速度で狭まり始めていた。歯車の歯先が内側に迫り、鋼の壁が圧縮されていく。
「あっちだ」
あさひが空間の北側を指した。壁の一箇所だけ、歯の噛み合わせが甘くなっている。隙間が見える。その向こうに、白い光が差し込んでいた。
三人は駆けた。狭まる壁を背に、歯車の隙間に身を投げ込んだ。鋼の歯が肩を掠め、金属の冷たさが一瞬だけ皮膚を走った。
抜けた先は、さらに密度の高い歯車の森だった。
だが、ここの歯車は今までと違った。表面の文字が光っている。回転のたびに文字が発光し、隣の歯車に光が伝播していく。文字から文字へ、光のリレーが走る。名前が組み上がる瞬間を、目の前で見ているようだった。
こよいは立ち止まった。
巾着の温もりが急に強くなっている。布の内側で四柱が同時に脈打ち、その振動が歯車の光と同期していた。歯車が文字を並べるたびに、神々の名前の断片が回転の中を通過する。通過するたびに巾着が震える。自分の一部が目の前で回されている。部品として。機構の歯として。
「怖い?」
こよいは巾着に問いかけた。
返事は震えだった。怖いのではない。痛いのだ。自分の名前の一部が、冷たい鋼の上で機械的に回される感覚。それを、神々は体の内側で感じている。
「もうすぐ抜けるから。我慢して」
こよいは巾着を胸に押し当て、自分の体温を送った。鋼の冷たさに負けないように。名前が部品であることを忘れさせるように。
「近いな」
あさひが前方を見た。歯車の森の向こうに、巨大な構造体の影が見える。歯車の部屋だ。天を突くほどの鋼の壁。壁全体が歯車で構成され、文字の光が壁面を走り、明滅を繰り返している。
「入口は」
「あそこだ。歯と歯の隙間が開閉している。タイミングを計る」
久遠が義眼を壁に向けた。蒼光が壁面を走査し、開閉の周期を割り出す。
こよいは写本を懐から出し、頁を確認した。三十七の脈が重なっている。紙の上の文字が、周囲の歯車の光に呼応して微かに揺れていた。名前の原料と、完成した名前が、同じ空間で共鳴している。
鋼の壁の入口が、一度大きく開いた。
三拍分の隙間。
「今だ」
あさひが飛び込んだ。
こよいが続いた。
久遠が最後に滑り込み、背後で鋼の歯が閉じた。
歯車の部屋の中に、三人は立った。
おたまも閉じる鋼の歯を最後にすり抜け、こよいの足元へ着地した。小鈴の音は歯車の周期に従わず、機構が予測できない一拍を部屋の内側へ残した。




