第477話 霧列車の縁
星降町は、全域が金色だった。
前に来たときは境界線があった。白と金の、金色の側が押していたが、まだ白い領域が残っていた。
今はない。白が一切ない。
石畳も壁も屋根も、すべてが金色の光に覆われている。
根が町の隅々まで浸透し、漂白を完全に押し返した証だった。
「終わったんだ」
こよいが呟いた。
「この町の漂白はもう戻らない。根が町の構造を掌握した以上、漂白の再侵入は不可能だ」
鐘楼が鳴っている。
途切れなく。
根の蔓に覆われた鐘が、名前のリズムで打ち続けていた。その音は町全体を楽器にして増幅され、空気を震わせている。
受け皿のある広場に向かうと、受け皿は八つに増えていた。前回は五つだった。
三つ増えている。
そのうち三つに、見覚えのない光が宿っていた。
こよいは新しい受け皿に手を当てた。脈動が伝わる。
知らないリズム。写本の名前たちとは違う振動だった。
「知らない子たちだ」
「根脈を通じて、遠方から移動してきた名前だ。こよいが訪れていない場所からも、根は伸びている。鐘の音が根脈全体に届いた結果、自力でここまで辿り着いた」
こよいは写本を広げた。
三つの受け皿から、光が紙面に移った。ひらがなの文字が浮かぶ。
二文字。二文字。三文字。
五十一柱の台帳で、四十九柱目。
五十柱目。
五十一柱目。
こよいが知らない名前だった。会ったことのない名前。
旅の途中で出逢わなかった名前。
それでも写本に宿ると、三十四の脈が歓迎するように応え、新しい三つを含む三十七の共鳴へ広がった。台帳の五十一は、還すべき名の総数。三十七は、いまこよいと共に脈打つ名の数だ。
「自分で来てくれた」
こよいが写本を胸に押し当てた。
「全部の場所に行かなくても、いいんだ。道を作れば、あの子たちは自分で歩いてくる」
あさひが広場を見回した。
金色の町。鐘の音。温かい石畳。
「いい町になったな」
列車の汽笛が鳴った。
三人は広場を後にし、停車場へ向かった。鐘楼の音が、いつまでも背中を追いかけてくる。
ホームに着くと、霧列車は既に蒸気を吐いていた。車体の黒鉄は金色の町を映して鈍く光っている。
乗り込んだ瞬間、こよいは足裏の感触が変わったことに気がついた。
床板が温かい。いつもと同じ鋼なのに、温度が違う。脈がある。
列車そのものが、呼吸をしている。
窓の外を星降町の灯が流れていく。
汽笛がもう一度、短く鳴った。町との別れではない。先への合図だ。
久遠が目録を広げ、義眼の蒼光を頁に落とした。
「線路の先が変わっている。星降町の手前まではいつもの軌道だったが、ここから先は根が敷いた軌道に切り替わっている。列車が走れる道を、根が新たに作った」
車窓の霧が色を変えた。
白灰色の霧が、次第に金の粒を含み始めている。微細な光の粉が窓硝子に付着し、指先で触れると温かさが残った。
「霧の組成が変わってる」
「根の浸透域だ。この霧は、列車に宿る名前たちの呼気と、根の放つ金色の粒が混ざったものだ」
写本が膝の上で震えた。
頁には新しい光の筋が四つ浮かんだが、文字にはならなかった。遠方から届いた返事を、列車の振動が運んでいる。こよいは救出数へ加えず、呼び声の行き先を示す印として余白へ残した。
こよいは窓に手を当てた。
向こう側に、輪郭のぼやけた巨大な構造物が見える。金色の光の粒を割って、鋼色の影が水平線を横切っていた。
歯車だ。まだ遠い。だが、列車はそこへ向かっている。
列車が揺れた。
普段の線路の継ぎ目とは違う、深い揺れだった。車体全体がきしみ、窓枠が細い音を立てる。
あさひが片手を壁に突き、体を支えた。
「何だ」
「軌道の縁だ」
久遠が義眼を車体の外へ向けた。蒼光が壁を透過し、車体の底部を探る。
「根が敷いた軌道は、ここまでだ。ここから先は、歯車の領域が直接始まる。列車が走れるのは、この地点が限界だ」
減速が始まった。
車輪の回転が目に見えて落ちていく。蒸気の音が薄くなり、代わりに、遠くから金属の噛み合う低い振動が這い上がってくる。
こよいは座席の肘掛けを握った。列車の温もりがまだ手に残っている。
この先は、列車では行けない。
「降りるぞ」
あさひが先に立ち上がった。大剣の布包みを確かめ、客室の扉を押す。
ホームはなかった。
列車は線路の途切れた地点で止まり、扉の外には金色の霧と、鋼の地面が広がっていた。歯車の歯の先端が、足元に覗いている。
こよいは扉の縁で一度止まった。
振り返ると、車内の行灯が柔らかく揺れていた。鋼の壁から伝わる振動は、名前たちの脈拍に似ている。
「ありがとう」
小さく言った。
列車が低く軋んだ。返事のように聞こえた。
こよいは飛び降りた。靴底が歯車の鋼に当たり、乾いた音が霧の中に吸い込まれる。
久遠が続き、最後にあさひが降りた。
三人が離れると、列車は扉を閉じ、ゆっくりと後退を始めた。蒸気が細く上がり、車体が霧の奥へ溶けていく。
おたまはこよいの腕から鋼へ降り、去る列車へ尾を立てた。小鈴の一音に汽笛が短く返り、今度こそ四人全員が歯車の平原へ残った。
車輪の音が遠ざかる。
やがて、聞こえなくなった。
目の前に広がるのは、歯車の平原だった。
大小無数の歯車が地面を覆い、噛み合いながら低速で回転している。歯の先端にはひらがなが刻まれ、回転のたびに文字が光り、消え、また光る。
金色の蔓が歯車の文字を覆っていた。久遠は義眼で読み、「ここにも名前が残っている」と告げた。
こよいは写本を胸に抱いた。
巾着の中で、神々が小さく脈打つ。怯えではない。
先に行った仲間を感じ取っているような、静かな反応だった。
あさひが前方を見据える。
歯車の平原の向こうに、天を突くほどの構造体がそびえていた。歯車の柱。壁。天蓋。すべてが鋼と名前と根で構成された、巨大な部屋の入口が、霧の切れ間に覗いている。
「あれが、歯車の部屋か」
あさひが低く言った。
久遠が頷く。
「歯車機構の中枢だ。あそこで名前が最も多く組み込まれている。行くぞ」
三人は歯車の平原を歩き始めた。
足を踏み出すたびに、鋼の歯先が靴底に小さな振動を返す。名前たちの呼吸が、地面を通じて足裏に届いていた。
こよいは巾着を胸に押さえ、写本を脇に抱えたまま、前だけを見た。
列車はもう、後ろにいない。
戻る道は、自分たちの足でしか作れない。
歯車の部屋の入口は、一歩ごとに近づいた。金属の匂いと鋼の振動の中を、三人とおたまは立ち止まらず進んだ。




