第476話 出発の潮
潮が足首まで来ていた。
干潟を歩いているうちに、水が戻り始めていた。灯籠があった場所は、もう水面の下だ。紙片が波に浮いて流され、名前の断片が散っていく。波が引くたびに、紙片が泥の上に一瞬だけ貼りつき、次の波がそれを剥がして沖へ運んでいった。
「急げ。満ちたら、足場がなくなる」
あさひが先を歩き、泥の中の硬い部分を足で探りながら道を作っている。布包みの大剣が泥水を切り、飛沫が銀色に跳ねた。泥に足を取られるたびに、あさひの腕の筋が隆起し、力任せに足を引き抜く音が水面に響いた。
こよいは写本を頭の上に掲げた。水に浸すわけにはいかない。三十四の脈が紙面と巾着の間で重なっている。その振動が腕を伝い、肩に届く。腕が疲れて震えているのか、名前たちが脈打っているのか、もう区別がつかなかった。
「方角は」
あさひが振り返らずに訊いた。
久遠が義眼を水面に向けた。蒼光が波の下を透かす。潮水が蒼光を散乱させ、光の筋が水底で揺れた。
「根がある。水底に根の道が走ってる。この根に沿って進めば、列車の線路に合流する」
「見えるのか」
「義眼には見える。金色の線が泥の中を這っている。南東だ」
あさひが進路を変えた。泥水の中を膝まで浸かりながら、力任せに前へ進む。こよいはあさひの背中を追い、久遠が最後尾で根の位置を読み続けた。久遠の義眼が絶えず水面を照射し、蒼い光が水底の金色の線を浮かび上がらせている。
水が冷たい。潮の匂いがする。塩と泥と、古い記録の匂い。紙が腐りかけたような甘さが、潮の辛さの下に隠れていた。
こよいの靴の中に水が入った。足が重い。一歩ごとに泥が靴底を掴み、引き剥がすのに倍の力がいる。けれど、巾着の中の神々が温かい。名前たちの体温が、腰のあたりから全身に広がっていく。冷たい水の中にいるのに、巾着に触れている腰だけが温かかった。
「あと少しだ」
久遠が言った。義眼が南東の水平線を指す。
霧の向こうに、黒い影が見えた。列車の影だ。水面から突き出た線路の上に、霧列車が待っている。汽笛はなく、静かに煙を上げることもなく、ただ線路の上に停まっていた。
三人は水の中を走った。
波が膝を打つ。泥が足を掴む。こよいは写本を頭上に掲げたまま走り、何度もよろけた。そのたびに、あさひの腕が伸びて引き起こしてくれた。あさひの掌は泥と潮で滑っていたが、握る力だけは揺るがなかった。
線路に辿り着いたとき、水位は腰まで来ていた。
鋼のレールを掴み、よじ登る。線路は水面の少し上にあり、枕木の下を潮が流れている。レールの表面に薄い錆が浮いていた。
列車の扉が開いていた。
三人は車内に転がり込んだ。こよいは床に座り込み、濡れた写本の表紙を袖で拭った。紙面は乾いている。名前の光が水を弾いていた。金色の文字が水滴を寄せつけず、紙の上で静かに脈打っている。
「……無事か」
あさひが壁にもたれ、荒い息をついた。泥と海水で、三人とも全身がぐしょぬれだった。あさひの髪から泥水が滴り、床に小さな水溜まりを作っている。
久遠は目録を懐から出し、確かめた。こちらも中身は乾いている。漂白された白い頁が、潮水を受け付けなかった。
「出るぞ」
列車が動き始めた。汽笛はなく、静かに、水の上を滑るように走り出す。
窓の外で、干潟が潮に沈んでいく。灯籠があった場所も、紙片が散っていた道も、すべて水の底に消えた。潮水が干潟を覆い尽くし、水面だけがどこまでも広がっている。
こよいは窓に額をつけた。
「あの紙片、流されちゃった」
胸元にしまっていた「あきこ」の紙片に手を当てた。まだある。布に染み込んだ水が冷たいが、紙片は残っていた。指先で紙片の縁を確かめる。濡れているが、文字は読める。
「流されたものは、また打ち上がる。潮は引く。同じ場所じゃなくても、どこかの岸に」
久遠が目録を閉じた。
列車は線路の上を北東に走った。車窓の霧が薄くなり、やがて金色の地面が見え始めた。根の浸透域に入ったのだ。
こよいは靴を脱ぎ、泥水を床に落とした。足の裏が赤くなっている。冷たい水に長く浸かっていたせいだ。
おたまも最後に扉へ飛び込み、泥の付いた足で床へ四つの跡を残した。こよいが布で拭う間、小鈴は端の合図と同じ拍を刻む。猫まで乗ったことを確かめてから、扉は閉じた。
巾着を膝の上に置いた。神々が穏やかに脈打つ。三十四の脈が、潮から無事に戻ったことを知っている。
列車が速度を上げた。車輪の音が規則正しく刻まれ、次の場所へ向かって走り続けた。
濡れた袖が肌に貼りつき、車輪が継ぎ目を越すたび、冷えた背中が小さく震えた。けれど窓の下を走る根の光は途切れない。水底へ沈んだ道も、列車の床下で同じ拍を返していた。こよいは赤くなった足裏を床につけ、その拍を数えた。渡ってきた干潟は見えなくなっても、道までなくなったわけではなかった。
胸元の「あきこ」の紙片も確かめた。端は濡れていたが、「おかあさんがすき」の文字は残っている。写本へ移せない痕跡でも、持って運ぶことはできる。こよいは乾いた布へ挟み、いつか返す相手を索引から探すと決めた。窓の金色が紙片を一瞬だけ照らした。
まだ、読めた。漂白が深く食い込んでも、筆圧の底には、書いた者の力が残っている。こよいはその微かな沈みに指を這わせ、消えかけた一画を、心へ写し取った。




