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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第471話 影の戻り先

挿絵(By みてみん)


干潟(ひがた)の先に、灯籠(とうろう)があった。


 石の台座に据えられた、背丈ほどの灯籠(とうろう)。火が点(とも)っている。風もないのに炎が揺れ、揺れるたびに周囲の泥が乾いた。灯籠(とうろう)を中心にして、半径十歩ほどの円形に泥が固まり、乾いた地面が露出している。


 「記録(きろく)の灯(ひ)だ」


 久遠(くおん)が足を止めた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が灯籠(とうろう)の台座を走査(そうさ)する。


 「台座に文字がある。風化して読みにくいが——祈りの痕(あと)だ。誰かがこの灯籠(とうろう)を建て、名前が流れ着く場所に目印を置いた」


 台座の石は潮風で角が削(けず)れ、表面に細い亀裂(きれつ)が走っていた。亀裂(きれつ)の奥に潮の塩が白く結晶(けっしょう)し、文字の溝(みぞ)を埋めている。灯籠(とうろう)の炎が亀裂(きれつ)を照らすたびに、塩の結晶(けっしょう)が小さく光った。


 こよいは灯籠(とうろう)に近づいた。泥を踏むたびに、乾いた地面が靴底の下で砂のように砕(くだ)けた。炎の温度が頬(ほお)に届く。巾着(きんちゃく)の四柱が脈打ち、写本と巾着に重なる三十四の脈が炎に呼応(こおう)するように温まった。


 台座の文字は大半が消えていたが、一箇所だけ読める部分があった。「此処(ここ)に沈みしものを照らす」。それだけが、石の面に残っていた。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。頁(ページ)の上を義眼(ぎがん)の光が這(は)い、灯籠(とうろう)の炎と蒼光(そうこう)が交互に紙面を照らした。


 頁(ページ)が勝手にめくれた。


 久遠(くおん)は指で押さえたが、紙が指の下で震えた。白く漂白(ひょうはく)されたはずの頁(ページ)に、薄い灰色の文字が滲み出している。


 「逆流(ぎゃくりゅう)の続きだ。灯籠(とうろう)の近くでは、漂白(ひょうはく)された記録(きろく)の復元(ふくげん)が加速する」


 文字が濃くなっていく。名前が浮かぶ。座標(ざひょう)が浮かぶ。そして——頁(ページ)の奥から、一つの図が浮かび上がった。


 久遠(くおん)の手が止まった。


 「氷片(ひょうへん)だ」


 声が低い。義眼(ぎがん)の焦点が一点に固定された。


 「名前のない氷片(ひょうへん)。目録(もくろく)の、原型(げんけい)」


 こよいは久遠(くおん)の横から頁(ページ)を覗き込んだ。図の中に、小さな氷の結晶(けっしょう)のようなものが描かれている。文字はない。名前がない。けれど形がある。名前を記録するための器(うつわ)の、最も古い形。


 「観測者(かんそくしゃ)が隠していた。目録(もくろく)が名前を記録する仕組みの根本は、この氷片(ひょうへん)にある。名前のない器(うつわ)に、名前を注ぐ。それが記録(きろく)の原理だった」


 久遠(くおん)の指が頁(ページ)の上の図をなぞった。指先が震えている。


 「ずっと探していた。目録(もくろく)がなぜ名前を記録できるのか。なぜ漂白(ひょうはく)で消せるのか。答えはここにあった。器(うつわ)が空であること——名前を持たないこと自体が、名前を受け取る条件(じょうけん)だった」


 こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。


 「じゃあ、この神々も……」


 「似ている。神々もまた、名前のない器(うつわ)だ。だから名前を集められる。写本(しゃほん)も同じ原理で動いている。おそらく、この世界で名前を扱えるものは、すべてこの氷片(ひょうへん)の性質を持っている」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が少し弱まった。読み取りに体力を使っている。頬(ほお)の血色が薄い。


 あさひが灯籠(とうろう)の向こう側を見た。


 干潟(ひがた)の先に、水の光がある。さっきより近い。潮が戻り始めている。


 「長く留まれない。潮が満ちる前に、先へ行く必要がある」


 久遠(くおん)が立ち上がった。目録(もくろく)を懐に入れ、灯籠(とうろう)の先を見据える。


 「氷片(ひょうへん)の原型(げんけい)は、この先の海底にある。図にあった座標(ざひょう)と、先ほど逆流(ぎゃくりゅう)で得た座標(ざひょう)が一致する。観測者(かんそくしゃ)の中枢(ちゅうすう)と、原型(げんけい)の所在地は同じ場所だ」


 「全部、一箇所に集まってるってこと?」


 「隠すなら一箇所のほうが管理しやすい。観測者(かんそくしゃ)は合理的だ」


 こよいは灯籠(とうろう)を振り返った。炎がまだ揺れている。此処(ここ)に沈みしものを照らす——誰かがこの灯籠(とうろう)を建てたとき、いつか誰かがこの場所を通ると信じていたのだ。


 「行こう」


 こよいの声に、灯籠(とうろう)の炎が一瞬だけ傾(かたむ)いた。風ではない。声に応えたのだ。炎の芯(しん)が、こよいの言葉の方角へ揺れ、すぐに元の姿勢に戻った。


 こよいが言った。


 三人は灯籠(とうろう)を後にした。干潟(ひがた)の泥を踏み、水の光に向かって歩く。背後で灯籠(とうろう)の炎が一度大きく揺れ、三人の背中を長い影(かげ)にして泥の上に伸ばした。


 潮が満ち始めている。足元の泥が湿り気を増し、紙片(しへん)が水に浮いて流れ始めた。名前の断片(だんぺん)が、潮と一緒に動いている。


 こよいは胸元の紙片(しへん)に触れた。「あきこ」の文字が、布越しに冷たい。


 先へ進む。灯籠(とうろう)が教えてくれた道を。


 満ち潮が乾いた円を削り始めた。おたまが灯籠の影へ入り、炎と反対向きに伸びる黒い輪郭を前足で押さえる。そこだけ泥の下に石の列が続いていた。影は消えた記録の戻り先を示し、石列は海から谷へ抜ける旧い排水路を示している。三人は猫の後を追い、水が膝へ届く前に干潟を離れた。


 振り返ると、灯籠の炎は水面の下でも消えず、黒い影だけを岸へ返していた。それが「影の戻り先」だった。


 影は、谷へ続いていた。

 谷へ続く影を、こよいは目で追った。影があるということは、そこに何かが在るということ。消された名前の器(うつわ)さえ、影だけは残していた。三人と一匹は、その暗い筋を辿(たど)って、谷の底へ降りていった。

 谷は暗く、底が見えない。けれど暗いということは、まだ漂白(ひょうはく)の手が届いていないということでもあった。こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱え、その闇の奥へ、迷わず足を踏み入れた。降りるほどに、拾えるものが増えていく気がした。

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