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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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470/500

第470話 町の引き潮

挿絵(By みてみん)


潮が引いていた。


 列車(れっしゃ)を降りたとき、最初に気づいたのは足元だった。

 石畳(いしだたみ)が濡れている。水溜りではない。町全体が、薄い水膜(すいまく)に覆われていた。海水の匂いがする。磯(いそ)の匂いではなく、もっと古い——泥と塩と、長い時間が混ざったような匂い。


 町には名前があったはずだ。駅の看板に文字の痕(あと)だけが残っている。文字そのものは剥(は)がれ、木の地肌が露出していた。


 「汐留(しおどめ)。三十年前の地図(ちず)には載っている」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で看板を読んだ。蒼光(そうこう)が木目(もくめ)の奥を透(す)かし、消えた文字の圧痕(あっこん)を拾っている。


 「理(ことわり)の潮位(ちょうい)が下がった場所だ。名前が流出して、町ごと干上がっている」


 こよいは石畳(いしだたみ)の上にしゃがんだ。


 水膜(すいまく)の下に、何かが見える。紙片(しへん)だった。水に浸(ひた)って半透明になった紙が、石畳(いしだたみ)に貼り付いている。文字が書かれていた。滲(にじ)んで読みにくいが、ひらがなだ。


 名前だった。


 立ち上がって周囲を見渡す。通りの先にも、路地にも、軒先(のきさき)にも、同じような紙片(しへん)が散らばっている。水に運ばれてきたものが、潮が引いた後に残されたのだ。


 「記録(きろく)の漂着物(ひょうちゃくぶつ)だ」


 久遠(くおん)が一枚を拾い上げた。指先で水を払い、義眼(ぎがん)を近づける。


 「名前だけじゃない。祈りの断片(だんぺん)がある。誰かが神に捧げた言葉の切れ端(はし)。日記の一行。子供が覚えたばかりの文字。全部、流れ着いている」


 あさひが通りの先を見た。


 建物が傾いている。壁の下半分が変色し、潮位(ちょうい)の跡が線になって残っていた。かつてはここまで水が来ていた。今は引いて、建物の骨だけが晒(さら)されている。


 「人はいるか」


 「いない。名前を保てなくなった町に、人は留まれない」


 風が吹いた。乾き始めた紙片(しへん)が路面から浮き上がり、数枚が宙を舞う。こよいは手を伸ばして一枚を掴(つか)んだ。


 掌(てのひら)の中で、紙が微かに温かい。


 文字を読んだ。「あきこ」と書いてある。筆圧(ひつあつ)が弱い。子供の字だ。名前の下に、もう一行。「おかあさんがすき」。


 こよいの指が震えた。


 これは名前だけではない。名前と一緒に、その人の一番大切な言葉も流されてきている。名前が町から剥(は)がれるとき、名前にくっついていた記憶(きおく)の欠片(かけら)も一緒に流れ出したのだ。


 巾着(きんちゃく)の中で、神々が脈打った。こよいの感情に呼応(こおう)して、布越しに温もりが伝わる。


 「……拾える?」


 こよいは久遠(くおん)を見た。


 「紙片(しへん)のことか」


 「うん。この名前たち、写本(しゃほん)に移せる?」


 「紙に染み込んだだけの痕跡(こんせき)だ。生きた名前ではない。写本(しゃほん)が受け取れるのは、まだ脈のある名前だけだ」


 こよいは掌(てのひら)の紙片(しへん)を見た。「あきこ」の文字は、脈打っていない。ただ濡れた紙の上に、筆の跡が残っているだけだ。


 「でも」


 こよいは紙片(しへん)を胸の前で両手に包んだ。


 「ここにあるってことは、まだ完全には消えてないってことだよね。流されたけど、残ってる。潮が引いた後に、ちゃんと残ってる」


 久遠(くおん)は答えなかった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が通りの奥を走査(そうさ)している。


 「この町の先に、潮の行き先がある」


 「行き先」


 「潮が引いたということは、水がどこかへ流れたということだ。名前を含んだ水が集まる場所がある。そこに行けば、流された名前の本体に会える可能性がある」


 あさひが歩き出した。


 「なら行く」


 三人は通りを進んだ。


 石畳(いしだたみ)の水膜(すいまく)は、奥へ行くほど厚くなった。足首までは来ないが、靴の底が水を踏むたびに、小さな波紋(はもん)が広がる。波紋(はもん)の中に、時折、文字が浮かぶ。一瞬だけ光って、すぐに消える。


 建物の壁に、潮位(ちょうい)の跡が何本もある。何度も潮が満ちて、引いて、また満ちて。そのたびに町は少しずつ痩せていった。壁の漆喰(しっくい)が剥(は)がれ、柱の木が白く乾き、屋根瓦(やねがわら)が割れている。


 人の気配はない。


 けれど、人がいた痕跡(こんせき)はある。


 軒先(のきさき)に干されたまま忘れられた手拭(てぬぐ)い。割れた植木鉢(うえきばち)から伸びた雑草。戸口に置かれた小さな下駄(げた)。片方だけ。鼻緒(はなお)が切れかけている。


 こよいは下駄(げた)の前で足を止めた。子供のものだ。


 この町にも、子供がいた。名前があった。祈りがあった。


 それが全部、潮と一緒に引いていった。


 あさひが振り返った。


 「来い。立ち止まるな」


 こよいは頷(うなず)いた。紙片(しへん)をそっと胸元にしまい、歩き出す。


 通りの突き当たりに、海が見えた。


 海というよりも、広大な干潟(ひがた)だった。水が引いた後の泥の平原が、灰色に広がっている。泥の表面に、無数の紙片(しへん)が貼り付いていた。町の中とは比較にならない量だ。干潟(ひがた)全体が、流された記録(きろく)で覆われている。


 遠くの水平線に、かすかに水の光が見える。潮はあそこまで引いたのだ。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。


 「あの水際(みずぎわ)の向こうに、名前が溜まっている。潮に運ばれた名前は、最終的にあそこへ沈む。沈んだまま、脈を保っているものがあるはずだ」


 「はずだ、か」


 「確証はない。だが根脈(こんみゃく)が、この方角に信号を送っている。反応がある。何かが、あの水の底で脈打っている」


 干潟(ひがた)の泥は柔らかく、足を置くと沈んだ。こよいの靴が泥に取られ、一歩ごとに重い。


 泥の中から、紙片(しへん)が足に絡む。名前の断片(だんぺん)が、靴底にくっつく。


 こよいは立ち止まらなかった。


 胸元の紙片(しへん)が、歩くたびに肌に触れる。「あきこ」の文字が、布越しに冷たい。


 潮の先に、名前がいる。


 まだ脈のある名前が。


 三人は干潟(ひがた)を歩いた。灰色の泥と、白い紙片(しへん)と、遠い水の光。風が止み、空は曇っている。音がない。波の音(おと)も、鳥の声も。ただ泥を踏む三人の足音(あしおと)だけが、引き潮の底に落ちていった。


 おたまは列車から最初に降り、泥へ沈まない根の筋を選んで歩いていた。紙片には触れず、生きた脈が遠くで震えたときだけ小鈴を鳴らす。外島の古い地図で汐留(しおどめ)と呼ばれたこの町へ、神雧の連絡線が三人を運んだ理由を、猫はもう知っているようだった。

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