第472話 返らぬ声
谷の底に降り立つと、音が消えた。
確かめるように短く息を吐いた。吐いた息は空気の中へ溶け、跡形もなく消えた。反響がない。壁に当たって戻ってくるはずの音が、途中で掴まれたように途絶えている。
こよいは足を止めた。
谷は深い。岩壁が両側にそそり立ち、底は薄暗い。これだけの深さがあれば、どんな声も反射して返ってくる。返ってこないのは、谷の構造のせいではない。
「漂白だ」
久遠が低く言った。義眼の蒼光が谷壁を舐めるように這い、表面に刻まれていたはずの文字の痕跡を追っている。だが、文字はすでに白く抜け落ちていた。
「音も記録の一種だ。声を出せば、その声は座標になる。座標が記録されれば、追跡できる。だから理は最初から、この場所の反響を潰してある」
久遠は語尾を急がせた。義眼の光を壁のさらに奥まで這わせながら、自分の理解を自分に確認しているようだった。だが唇の端が引き締まっている。この場所が監視されている事実を、説明の裏で受け止めている。
こよいは唾を飲んだ。喉が乾いている。
「じゃあ、ここで名前を呼んだら」
「呼んだ事実だけが残る。声は消え、意味も届かない。だが『呼んだ』という記録だけが理に渡る」
あさひが舌打ちした。布包みの大剣を肩に掲げた拍子に、剣の先が岩壁に当たった。くぐもった音が一歩先で途絶えた。反響は帰ってこない。あさひは唇を噛み、大剣を抱え直した。叩きつけたい衝動を、腕の力だけで押さえている。
「じゃあ黙ってろってことか」
「黙るだけじゃ足りない。足音も、呼吸も、全部が声になる」
三人は顔を見合わせた。
谷底には灰色の砂が敷き詰められ、足を踏み入れるたびに微かな粉が舞い上がる。その粉が肌に触れると、ほんの一瞬だけ冷たい感覚が走り、触れた場所の色が薄くなった。服の袖が白く褪せ、肌の色が紙のように淡くなる。
漂白。
音だけではない。色も、匂いも、この谷は通過するものの記録を片端から消していく。
おたまが先に立った。灯籠の影を辿ってここまで来た猫は、白い粉の濃い場所を避けるように歩を変える。声の代わりに、尾で合図する。二度振れば右へ、一度なら直進。首の小鈴は鳴らないまま、三人が進む向きだけを示している。
こよいは巾着を胸に抱いた。布の奥で神々が脈打っている。その温もりだけが、ここにいる自分を証明していた。
久遠が掌を上げた。声を出さず、指で合図する。一本は「止まれ」。二本は「進め」。三本は「退け」。
あさひが頷いた。こよいも頷く。
声の代わりに、動きで伝える。久遠の指が二本立った。進め。
三人は無言で歩き始めた。
足裏に砂の冷たさが食い込む。靴底を通してでも、地面の温度が伝わってくる。冷たいのではない。温度そのものが抜けている。何もない場所を踏んでいる感覚。こよいは歯を食いしばり、足を前に出した。
谷壁には、かつて文字が刻まれていた痕がある。窪みの形から、誰かの名前が彫られていたことがわかる。だが文字そのものは消えている。漂白が通った跡だ。名前を持っていた石が、名前を失って、ただの壁に戻っている。
こよいは、その壁に触れたくなった。
触れれば何か残っているかもしれない。文字は消えても、彫った人の力は石に刻まれているはずだ。指先を伸ばしかけて、久遠に手首を掴まれた。
久遠は首を振った。触れるな。
声には出さない。目だけで伝えてくる。触れた瞬間に、お前の手の記録も持っていかれる。
こよいは手を引いた。
谷の奥から、微かに風が流れてきた。風というよりも、空気の隙間が動いただけのような気配。音もなく、匂いもなく、ただ肌の表面が一瞬だけ粟立った。
その風が通った場所の砂が、一層白くなった。
あさひが剣の柄に手を置いたまま、目で周囲を測っている。敵はいない。斬れる相手もいない。漂白は刃の届かない場所から来る。あさひの拳が白くなるほど柄を握り締めていた。
こよいは神々の脈に呼吸を合わせた。
息を吸う。吐く。神々の温もりが胸に広がり、漂白の冷たさを押し返す。ここにいる。まだ消えていない。呼吸のたびに、そう確かめた。
足元を見た。神々の温もりを抱えた場所だけ、砂の白さがほんの一瞬だけ鈍かった。記録を消す冷たさが、温もりに押し返されている。こよいはそれを確かめ、もう一歩踏み出した。
久遠が目録を開こうとして、やめた。頁に指を添えただけで、紙の端が白く褪せていくのが見えたからだ。開けば、記録が奪われる。
久遠は目録を胸に抱き直し、歩を速めた。
谷は狭まっていく。岩壁の間隔が肩幅ほどになり、三人は縦一列で進んだ。先頭のあさひが足の置き場を選び、久遠が続き、こよいが最後尾を歩く。おたまはあさひの足元を縫うように先導し、白い粉の厚い場所で尾を二度振って迂回を促した。猫の足跡さえ後ろから消えていくが、首の小鈴は鳴らないまま温かく、三人が進む向きを失わせなかった。
前を行く二人の背中だけが、この谷で確かに存在しているものだった。
こよいは名前を呼びたくなった。
久遠、と。あさひ、と。声にすれば、返事がなくても、呼んだという事実が自分の中に残る。だが久遠の警告が頭を離れない。呼んだ瞬間に座標が定まる。理に自分の位置を差し出すことになる。
だから、呼ばない。
代わりに、巾着の紐を二度引いた。布の奥で神々が小さく震え、温もりが指先に返ってくる。
それだけでいい。
声が返らない場所で、熱だけが返ってくる。こよいはその返答を握りしめ、谷の奥へ足を進めた。
白い粉が舞い上がる。
足跡が消えていく。
振り返っても、来た道はもう見えない。三人がここを通った記録は、谷が端から飲み込んでいる。前にしか進めない。それは恐怖であり、同時に、迷わなくていいという救いでもあった。
谷の果てに、かすかに光が見える。
白い光ではない。暖かい色をした、小さな灯。こよいは目を細めた。あの光の先に何があるのか、まだわからない。
だが足は止めない。
おたまが灯の方角へ尾を二度振った。三人と一匹は無言のまま谷を抜け、岩壁が左右に開く先へ足を踏み出した。背後で、最後の足音が白い砂に呑まれ、谷は再び、何も返さない沈黙に戻った。




