第047話 見えない壁
翌朝、あさひとこよいは早々に宿を出た。
巾着の中の風の神が、眠りから目覚めたばかりの小さな風を送ってくる。町の空気は相変わらず冷たく、山吹の花の色だけがやけに鮮やかだった。
宿の廊下は静かで、足音が木に響く。帳場の女将は無言で頭を下げ、目だけが「気をつけて」と言っていた。こよいはその視線に小さく頷く。外へ出ると、川の匂いが薄く漂い、朝の冷気が頬を刺した。
朝日は出ているが、町はまだ薄暗い。
西の街道へ続く大通りを歩き、町の出口を目指す。道の両側には店が並んでいるのに、開いている扉は少ない。誰かの視線を感じるが、声はかからない。息を吸うと、胸が少し苦しくなる。
地面の砂が靴底に絡み、足が重い。風の神が巾着の中で身じろぎするたび、こよいの腰が軽く引かれる。外に出たいという気配が、布越しに伝わってくる。
「よし、もうすぐだ」
あさひが門の跡地を指差した。
かつては立派な門があったのだろうが、今は柱の根元だけが残っている。その向こうには、緑豊かな森へと続く道が広がっていた。朝の光が木々の間に差し込み、遠くの鳥の声がかすかに聞こえる。
こよいは、一歩を踏み出そうとした。
ドンッ。
「いたっ……」
鼻先を強打した。
何かにぶつかったのだ。けれど、目の前には何もない。ただの空間だ。
「どうした?」
あさひが不審そうに近づき、手を伸ばした。
「……っ!」
あさひの手が、空中で止まった。
何もないはずの場所に、手が押し付けられている。空気が、そこだけ硬い岩のようになっている。
「……壁だ。見えない壁がある」
あさひは慎重に手を左右に動かした。
壁は街道を完全に塞いでいた。上を見上げても、空の彼方まで続いているように見える。空に伸びる見えない板が、町ごと包んでいる。
遠くの鳥が壁の手前で急に方向を変え、羽を乱して飛び去った。風の流れもそこで折れ、空気が渦を巻く。見えないのに、確かに「そこにある」ことが分かる。
こよいは指で空中に円を描くように撫でた。触れた場所は冷え、すぐに感覚が薄れる。ここは境界だと、皮膚が教えてくる。
「……観測者の仕業?」
「ああ。町の境界線を『固定』したんだ。……住人も旅人も、誰も外へ出さないつもりだ」
こよいは壁に触れてみた。
冷たい。無機質で、感情のない冷たさ。押しても叩いても振動すらしない。この世界からその空間だけが切り取られて静止しているような感覚。耳の奥で、ジジジ……という微かな電気の唸りがする。
指先から冷えが腕に伝わり、体の中の熱が吸い取られていく。壁の表面には風の流れがない。風の神の気配が、巾着の中で息苦しそうに揺れた。
あさひは剣の刃を壁に沿わせ、ゆっくりと滑らせた。刃先が途中で止まり、ほんの僅かな引っ掛かりが感じられる。だが、その継ぎ目は見えない。見えないからこそ、観測者の罠が深いことが分かった。
「……閉じ込められたの?」
「フン、そう簡単にはいかないぜ」
あさひは剣を抜いた。
「どんなに硬い壁でも、必ず『繋ぎ目』はある。そこを断ち切ればいい」
あさひは渾身の力で剣を振り下ろした。
ガガガッ!
火花が散った。
けれど、壁には傷一つ付かなかった。
逆に衝撃が腕に跳ね返り、あさひはよろめいた。剣がかすかに震え、金属の匂いが風に混じる。
「くそ……物理的な攻撃は吸収されるのか」
『……あけて』
巾着の中から、風の神の声がした。
苦しそうに、でも必死に。
『……くるしい。……ここは、ながれが、ない』
「風? 大丈夫?」
『……みちを、つくって。……ながれを、もどして』
風の神が言っているのは、この壁を壊す方法なのだろうか。
こよいは壁に耳を当てた。氷のように冷たい面に頬をつけると、微かな音が聞こえる。ジジジ……という機械的な電気の唸り。そして、それとは別に低い「泣き声」のような振動。町の揺らぎが吸い上げられている。
その振動は、遠くで鼓動を打つ心臓のようにも感じられた。町全体がゆっくりと締め付けられ、息を奪われている。こよいは壁から離れ、胸に手を当てた。
「あさひ、これ……ただの壁じゃない。何かが、吸われてる」
「ああ。町全体の揺らぎを燃料にして、この壁を維持しているんだ」
あさひは悔しそうに拳を壁に叩きつけた。音もしない、冷たい拒絶。
こよいは壁の端を探して歩き、石塀や屋根の上まで見上げた。どこにも隙間がない。空の色さえ、この壁の外側だけ少しだけ違って見える。境界が、町の呼吸を止めている。
「……ここが閉じられてると、風はどこへ行くの?」
こよいが呟くと、巾着の中の風が細く唸った。流れが塞がれ、行き場がない。それが苦しみの正体なのだと、こよいは理解し始めていた。
町の住人たちが、遠巻きにこちらを見ていた。
その目は、諦めに満ちていた。「無駄だよ」「私たちはもうここから出られない」そんな声が聞こえてくるようだった。誰も叫ばない。誰も走らない。静かな絶望だけが漂う。
老人の手は震え、子どもは母の背に隠れる。風が吹かない町で、誰もが息を潜めている。その静けさが、こよいの胸の奥をじわじわと締め付けた。
子どもが小さな声で「外はどんな匂い?」と母に尋ねた。母は答えられず、ただ抱きしめる。こよいはその光景に目を逸らし、巾着を強く抱いた。
(こんなふうに閉じ込められたまま、諦めるなんて——絶対に嫌だ)
風の神が小さく「……そと」と呟いた。こよいは胸の奥で返事をする。外へ出る。それは彼らだけのためではない。
こよいは巾着を強く握りしめた。
出なきゃいけない。風の神を、仲間の神々を、広い空へ連れ出さなきゃいけない。
「……風、お願い。ぼくに力を貸して」
巾着の中で風が小さく回り、こよいの手のひらを冷たく撫でた。
空の向こう側に、一陣の風が吹いた気がした。それは自由への渇望だった。
あさひは壁を見上げ、歯を食いしばった。
「核があるはずだ。必ずどこかに『固定の中心』がある」
こよいは頷いた。
この壁を壊す。町を解放する。風を外へ連れ出す。
そのための道を、いま見つける。
風の神が巾着の中で小さく回り、こよいの手のひらを押した。行け、と言っている。こよいは深く息を吸い、胸の灯を守るように握りしめた。
「中心に向かう」
あさひが短く言った。こよいは黙って頷き、足元の砂を踏みしめる。静かな町に、二人の足音だけが響いた。
壁に触れている間、こよいの耳には低い唸りが残っていた。音の向きを辿ると、自然と町の中央へ視線が向かう。あそこに何かがある。風の神が示した感覚と重なり、こよいは確信する。
遠くで鐘楼の影が揺れている。誰かが火の見櫓を指差し、かすれた声で「昔は火を知らせる場所だった」と呟いた。こよいはその声に背を押されるように歩き出した。
巾着の中の風が小さく回り、こよいの腰を引いた。進め、と言っている。こよいは頷き、胸の奥で「必ず外へ」と繰り返した。
町の石畳が冷たく、足の裏にその冷えが伝わる。こよいは一歩ごとに熱を作るように歩いた。
巾着の中の風が小さく鳴き、こよいは「待ってて」と心の中で答えた。
壁の向こうから届くはずの風の匂いが、ほんの少しだけ強くなった気がした。
それが答えなら、進むしかなかった。




